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【自伝】ライフチューニングが生まれた日

はじめまして。

ライフチューナー浮葉 ( うきは ) と申します。

純度100で生きながら、現実も豊かにする人です。

「もう持っている」に気づき、在り方を整えることで人生は自然に変わる。穏やかな幸せと、無理のない豊かさを育てる発信をしています。

ライフチューナーというくらいだから、やるのは
ライフチューニング
です。

で、ライフチューニングとは何か?を語るには私の人生を知っていただくのが最もリアルで、最も早いと思ったので、ここに書き記します。

ここまで書くか、というところまで書きます。
なぜなら、そこまで書かないとリアルが伝わらないからです。

なにもかもうまくいっていた小中学校時代から、
急転直下の高校時代、
ドン底の浪人生時代を経た今、
本当の自分と穏やかなしあわせを手に入れ始めるまでの流れを、
赤裸々すぎるくらい赤裸々に書いています。

もし今あなたが、
「本当の自分ってなんだろう」
と感じているなら、きっと役に立つと思います。

ちょっと長いですが、ぜひ読んでほしいです。


序章:浮葉爆誕

誕生

とある山奥の、自然豊かな田舎で生まれました。色白で一重まぶたで目がとっても大きくて、ほっぺたがふっくらまんまる。よく女の子みたいと言われていたそうです。我ながら本当に可愛い赤ちゃんでした。

幼稚園時代

幼稚園は母がピンク色のかっこいい車で送迎してくれていたのをよく覚えています。実家のすぐ近くに保育園があったのですが、教育熱心な家庭だったので、わざわざ車で行かないといけない場所の幼稚園に通わせてもらっていました。市内の幼稚園を回りまくって、一番よかったところにした、というのは大人になってから聞かされた話です。

幼稚園の記憶はあまりないのですが、園庭でサッカーをしていたのはよく覚えています。お友達とはしゃぎまわる、元気いっぱいの子供でした。

第一章:スーパースター期

小学生時代

このあたりから記憶が増えていきます。

■ サッカーとの出会い

先述の通り地元から少し離れた幼稚園に通っていた私は、小学校に入るときに、プチ転校生のような状態になりました。周りはみんな地元の保育園出身の子ばかりなので、すでに仲良しグループのようなものができていたのですね。

同じクラスに、私と同じように「少し遠い幼稚園から来た子」がいました。それもあったのか、その子のお母さんと私の母はすぐに仲良くなったようです。その子のお父さんが地元のサッカークラブの監督をやるとのことで、その子もサッカークラブに入ったのです。

私は当時、ジャッキーチェンやケインコスギが大好きだったので空手をやりたかったのですが、その友達のことが好きだったし、親同士も仲が良かったので「体験だけでも」との誘いに乗りました。

初めての体育館練習。上級生たちが練習している中、ステージの上で監督に言われました。

リフティングやってみて

リフティングというのはボールを地面に落とさないように何度も蹴り上げるアレです。私は見よう見まねでやってみました。すると10回くらいできてしまったんです。そこで監督は言いました。

たま〜にいるんですよ、こういう子

私がサッカーをやることが決まった瞬間でした。

地元の小さなクラブに入団し、メキメキと上達した私はいつの間にかチームのエースになり、キャプテンを務めるようになっていました。四年生になると地区選抜というものが始まります。各チームの上手な子達を集めて選考会を開き、精鋭のチームを作って大会に出場するというものです。私はこの選考会に参加することになりました。

初めての選考会。私のチームからはたしか私を含めて4人参加。うち3人が合格しました。この時の私の点数が10点満点中10点だったと言われました。

後述しますが、
この辺りから私の人生は大きく狂い始めます。

そんなことに気づくのは数十年後のこと。

この時はとにかく周りからチヤホヤされまくり、
調子に乗りまくっていました。

■ 勉強

父が教育関係の職についていたということもあり、私は勉強もできました。うちは自由研究を親がかなり手伝ってくれるタイプの家でした。これでなんとなく家庭の雰囲気が伝わると思います。要は、手塩にかけて育てられたのです。

ゲームは1日30分。それを過ぎる場合は父親の職場に電話をして「もう30分やっていい?」と許可を取ってから30分だけ伸ばせるというルールがありました。律儀に毎日のように電話していた記憶があります。

絵に描いたような、教育熱心な家庭です。

通知表もほぼ◎で、絵に描いたような優等生。一度だけ何かで△をもらったことがあり、その日私は人生が終わったと思ったのをよく覚えています。

■ 児童会長

この流れでなんとなく想像がつくと思いますが、私は児童会長もやりました。自分の意思でなりたいと思ったわけではなく、周りが勝手にそういう流れにして、断る理由もなかったので選挙に出た、という感じでした。

そうと決まったら選挙演説の原稿書き。ほぼ親の考えてくれた言葉を丸々書き写し、見事当選。自分には何の意思もない児童会長の誕生です。

とはいえやはりチヤホヤされるのは悪い気がせず、もう学年トップ、いや学校のトップなんじゃないかと思えるくらいに「なんでもできちゃう」そんな児童でした。

そんなこんなで、私の小学校時代は

THE なんでもできちゃう優等生
THE みんなに好かれる人気者

でも、自分の意思はない

そんな子供でした。


中学生時代

絵に描いたような順風満帆な優等生の私は中学校へ進学します。私が住んでいたのは小さな自治体だったので、ひとつの自治体にひとつの小学校、ひとつの中学校しかなく、小学校のメンバーがそのまま中学校に上がるという、いわゆる「エスカレーター方式」の地域でした。

そのため、小学生時代に築いた王国は崩れることなく、そのままの人間関係を維持したまま中学生になりました。

■ なにをやってもうまくいってしまう

小学校から続けているサッカーはもちろん辞めずに、そのまま中学のサッカー部に入りました。チームメイトの顔ぶれもほとんど同じ。私は1年生の頃から3年生の試合にスタメンで出るような感じで、それはもうわかりやすく期待されていて、同時にその期待に応えてもいました。

勉強も順調で、学校の宿題プラス親が出してくれる宿題をやっていたので、授業で困ることなどあるはずがありませんでした。5教科450点を下回ることはなく、本当に絵に描いたような優等生をそのまま続けていました。

思春期が始まり腰パン、ボタン外しをして自己表現する友達を尻目に、私は第一ボタンまでピシッと留めて、ワイシャツをしっかりとズボンの中に入れ、堂々たる優等生っぷりを披露し続けていました。

ど田舎の中学校では男女交際など言語道断、付き合うなんてハレンチ、とんでもない極悪な不良のすること、といった風潮がある中、私は生まれて初めての彼女ができたりもしました。そんなやつは学年で私だけでした。クラスメイトの女の子から家の電話機に電話がかかってきたあの日。今も忘れません。私はCDプレイヤーでゆずの「夏色」を聞いていました。携帯電話なんて持っていなかった時代の甘酸っぱい思い出。

さらに、また周りに推薦されて生徒会長に立候補するも、女の子のライバルに負けてしまい、今度は落選。しかし、自分でなりたかったわけではなかったので全く悔しくなかったのをよく覚えています。今思えば怖いくらいに、自分の意思がありませんでした

ここまでが私の人生の
「なにをやってもうまくいくスーパースター期」
です。

物語はここで一気に「転」へと進みます。

■ 高校受験

テストの点数で学年1位を争うような学力を持っていた私は、当然のように地元の進学校へ進学を決めました。今もあるかはわかりませんが、当時は前期試験というものがあり、中学校からの推薦を受けた生徒だけが受けられる入試がありました。たしか筆記試験免除で、面接だけで入れるというものだった記憶があります。今でいうAO入試みたいなものでしょうか。私はそれを受けろと学校から強く勧められ、言われるがままに地元進学校の前期試験を受けることとなりました。

面接は、親の指示の通りに答えました。
その時の面接官と私の会話の一部を書いておきます。

面接官「将来の夢は?」
私「医者です」
面接官「なんで医者になりたいの?」
私「飛行機などで誰かが具合悪くなった時に "私医者です" と言うのがかっこいいからです」

今思えば、この受け答えで合格するわけがないですよね。さらに言えば私は医者になりたいと思っていませんでした

でも周りの大人たちがみんな「医者になれる」と言ってきたので、私も「じゃあ医者になればいっか」程度に思っていたのだろうと思います。今思えばあり得ない話なのですが、本当のことなので仕方ないです。

前期試験に不合格だった私は普通に筆記試験を受けて合格。
進学校に入学を決めました。

後日談ですが、前期試験の面接官をしていた先生が、当時の私を落とした理由を「医者になりたい理由が謎すぎた」と教えてくれました。そりゃそうです。医者になりたいなんて思っていなかったのですから。


第二章:アイデンティティショック

高校生時代

無事に地元の進学校に入学を決めた私は人生の転機を迎えます。
急転直下とはこのことです。

突然の環境変化に追いつけない私

ど田舎の小さな中学校(学年100人程度)からいきなりちょっと大きな進学校(学年600人程度)に進学した私は、人生で味わったことのない衝撃を一気に味わうことになります

怠けていたわけではないし、グレていたわけでもない。今まで通りやっている。それなのに、なぜかテストの順位がいつもより低い。入部したサッカー部もキャプテンではなくなり、チヤホヤされなくなった

何が起きてる?
今まで通り俺を特別扱いしてくれ

今思えば、当時の私の魂はずっとこんなことを言っていた気がします。

ど田舎の小さな学校から少し大きな進学校に進学したことにより周りの生徒の偏差値が一気に上がり、相対的に自分の価値が下がってしまったと錯覚したのですね。

後に知ったことですが、これは「アイデンティティショック」と呼ばれる現象で、私のように田舎から大きな学校に進学した時なんかによく起きてしまう現象のようです。

そんなことを俯瞰的に見ることなどできるはずもなく、
特別扱いされなくなった私は一瞬で全てのやる気を失いました。

1位じゃないなら意味がない。
平均じゃダメ。
平均以下なんて俺じゃない。

こんなのは俺じゃない。こんなのは俺じゃない。こんなのは俺じゃない。

でも当時の私は顕在的にはそれに気付かず、
「なんか高校ってめちゃくちゃつまんないな〜」
程度の感覚しか感じ取ることができませんでした。

そして私はサッカー部を1年生の途中で逃げるように退部。
行き場をなくし、逃げるように軽音部に入部したのです。

■ 軽音部での日々

親の影響で小学生の頃からギターを弾いていた私は、自分を特別扱いしてくれる場所を探して軽音部に入りました。幸か不幸か、私はそこで少しばかりの居場所を作ることができました。なぜなら、ギターを弾きながら歌を歌える奴なんてそんなにたくさん居なかったからです。

BUMP OF CHICKENのコピーから始めて、ELLEGAEDENなどのメロディックパンクバンドのコピーへ移り、最終的にはオリジナル楽曲を作るところまでいきました。

地元のライブハウスで演奏したり、青春っぽいものを味わわせてもらいました。軽音部での日々はとにかく楽しかったです。

でも、今思えば私の心はずーっと、
「サッカー部から逃げ出した」
「勉強を真面目にやっていない」

という現実から逃げ続けていたと思います。

■ 高校卒業

私が通っていたのはそこそこ偏差値の高い進学校だったので、進学前提で話が進んでいきます。成績は下がりまくり、学年順位は下から数える方が早くなっていた私には、進学の選択肢がほぼありませんでした。

ここで幼少期から私にこびりついている一つの言葉が蘇ってくるのです。

国公立4年制大学を目指すといいよ

これも私の声ではなく、私を想ってくれる大人たちの声です。私はこの声を自分の信念だと勘違いし、行きたくもない国公立大学進学を目指し、なんとなく現実味がありそうな夢である「教員」という道に目指すことになってしまいました。

しかし人生はそう甘くありません。センター試験はとてもじゃないが国公立など無理な結果を叩き出し、見事不合格。自分が一番よくわかっていました。そりゃあ無理でしょう。真面目に勉強していなかったから。

そして私は予備校に通わせてもらうことになります。
驚くべきことに「へえ、俺って予備校に行くんだ」って感じでした。


予備校時代

両親のおかげで予備校に通わせてもらうことになった私ですが、ここからはもう悲惨です。自分の意思が全くなく、親や周りの大人の言われるままに育ってきてしまった18歳の少年は、緩やかにクズになっていきます

タバコも吸わない。飲酒もしない。暴力も振るわない。一見真面目。

でも

親に高い授業料を出してもらっている予備校をサボったり、
ひどい時は模試をすっぽかすような人間になり果ててしまいました。

親に模試会場まで送ってもらって、ありがとう〜と手を振る。
親の車が見えなくなったら模試会場に入らずにそのまま街を歩き回る。
模試が終わる頃に何食わぬ顔で会場の入り口に戻り、迎えにきてくれた親の車に乗り込む。

そんなことまでしていました。

今考えれば本当に怖いのですが、
当時の私はもう、完全におかしくなっていました。

それでもどこかに奇跡を期待していて、

なんかうまいこといって大学に受かれば人生が元通りになる。

本当にそう思っていました。

そんな日々を過ごし、ついに試験の日がきました。
結果は不合格。人生はそう甘くないです。

親と相談し、なんと私は自宅浪人という道を選びます。


自宅浪人時代

20歳になる子供を自宅浪人させる決意をしてくれた親の気持ちなど一切考えず、私はと言うと「もう一度奇跡が起きるチャンスをGETした」くらいにしか思っていませんでした。

ここで一念発起、合格のはちまきを巻いて戦いに挑む!という感じではなく「もう1年勉強してれば、どこかは流石に受かるでしょ」という心境でした。

自宅浪人というのは自分との戦いです。模試会場から逃げるような男が健全に自宅浪人などできるはずもなく、私は簡単に逃げます。

親が仕事でいない間はひたすらゲームとギター。帰ってくる頃になって、さもずっと取り組んでいたかのように勉強を始める毎日でした。しかも勉強の集中力も全くなく、やってるフリをしていたこともよくありました。

今思えば、どん底です。私は腐り切っていました。

そしてこの年の冬、私はもう一度試験を受けることからも逃げて、ついに就職を決意します。親ももう諦めた感じで、きっと「楽になれた」という気持ちが大きかっただろうな、と今になれば思います。


会社員時代

自宅浪人からも逃げた私は「もうとりあえず就職するか」という感じで就職を決意します。就職面接を受けた先は「親が勧めてくれた会社」でした。私はこの期に及んでまだ「自分の意思がない」青年だったのです。

親が選んでくれた会社の中から内定した会社に就職した私は、なんとなく社会人を始めます。その会社に入りたかったわけでもなかったのですが、就職が決まった時の親の嬉しそうな顔はいまだに忘れません。

その後も何社か転々としましたが、どの会社も「給料が良い」か「知名度が高い」という理由で選びました。そんな日々の中でも私は、音楽活動や恋愛などで人生を謳歌し、結婚もして、子供も生まれました。

しかし、子供が生まれたタイミングで私は考えました。

このままでいいのか

最終学歴高卒、普通校高卒の私の給料は地元の同年齢の大卒の人たちの給料よりもはるかに少なく、お金が欲しいと漠然と思うようになりました。

プログラミングを学んだり、情報発信を頑張ってみたりして、高卒でもお金をたくさん稼げるようになろうと必死でした。しかしどれも芽が出ず趣味で止まってしまい、ある時、私は決断します。

起業するしかない

地方の企業勤めである以上、学歴はどうしても給料に直結してしまう現実があり、履歴書も華々しいわけでもなかった私は一発逆転の攻勢に出ました。親は長年自営業をやっていたので、親が以前「この業種はいいぞ」と言っていた業種で起業しました。

気付きましたか?

未だに私は他人の言葉の通りに道を選んでいるのです。


第三章:ライフチューニング

個人事業主時代

時代がようやく執筆時に追いついてきました。

私が個人事業を始めたのは単純に「お金がもっと欲しかったから」です。
会社員でいる間は学歴で給料を決められてしまう。それが嫌なら自分でやるしかないじゃん、悔しかったらやってみろ、というシンプルな理屈です。

しかし蓋を開けてみたら、事業を継続させるために私はとんでもない時間を拘束されることになってしまいました。
お金が欲しくて始めたら、時間を失ってしまった、ということです。

年間で休めるのは20日程度、朝から晩までオフィスにいる。
そんな日々が続き、私の体はおかしくなっていきました。

こんな仕事、とてもじゃないけど続けられない

私はもう限界でした。

私はここでようやく、大切なことに気付いたのです。

俺は30年以上、ずっと周りの言葉に従って生きてきてしまった

ということです。

思えば幼少期からずっと、
私は他人の言葉に従って生きてきたんです。


「たま〜にいるんですよ、こういう子」
「天才だね」
「優等生だね」
「エリートだね」
「四年制国公立大学に入るといいよ」
「医者か弁護士になるといいよ」
「公務員はいいよ」
「この会社はいいよ」
「この業種はいいよ」



どれも、私の言葉じゃなかったのに。


私はずっと、何に従ってきたんだろう。
誰の人生を、生きてきたんだろう。

私って、誰なんだろう。

年間休日が少ないとか、
時間が奪われるとか、
そんなことは本当に自分で決めた仕事ならいちいち言わないんです。

私は今やっている事業ですら、
誰かの言葉に乗っかって選んでしまった
だから愚痴が出てくるのです。

この事業を始めたのは30代です。
そんなことに、30代になってようやく気付いたんです。

私は怖さと同時に、一筋の希望の光が差し込んでくるのを感じました。

ああ、俺の人生って、狂ってたんだ。
じゃあ、元に戻せばまたしあわせになれるってことじゃん。

ライフチューニングが生まれた瞬間です。


ライフチューニング

ここまで読んでいただければお分かりの通り、
私の人生は30年以上、狂いっぱなしでした。
自分の声を聞かずに周りからの声ばかり聞いて、
言われた通りに動くアンドロイド。

私の人生は、
私のためを想ってくれた大切な人たちの優しい言葉によって、
狂ってしまったのです。

ネグレクトや虐待の類は全くない、
教育熱心で暖かい家庭で育った私でも、人生は狂うのです。

私は思いました。

同じように苦しんでいる人に教えてあげたい。

おそらく、自分の人生が狂っていることに気付いていない、
もしくは気付かないフリをしなければならない状況にいる人がいる。

そういう人はきっと真面目で、繊細で、優しい人だ。
そんな人たちが自分の声を聞けずに苦しんでいるなんて、
私は放っておけない。

称賛の声は期待という名の重りに変わる。
そして、天才でなければ価値のない自分が生まれ、
天才でなくなった自分は自分を守るために逃げ始める。

現実から逃げている自分を否定し、
それでも逃げなくちゃいけなくて、
もつれる足で逃げ続けた先にある鏡を覗けば、
「落ちこぼれた自分」が映っている。

ずいぶん、落ちこぼれたね。
昔はすごかったのにね。
どうしちゃったの。

鏡の中の自分が憐れんだ顔で見てくる。

うるさい。黙れ。

目を背けて走り出す。
2度と鏡を見てはならない。

目を塞げ。耳を塞げ。口を塞げ。心を閉ざせ。


「頼むから俺を天才に戻してくれ!!!!!!!!!!」


・・・

ここまで読んでくれたあなた。

今、心はどうなっていますか?

もし、少しでも自分ごととして重なったのならば、
あなたと私は出会うべくして出会いました。

ライフチューニングとは、
気づかないうちに狂ってしまった人生を、元に戻してあげることです。

あなたのような人を救うために、
あなたのような人と共に歩いていくために、
私はSNSのアカウントを作ったんです。

私自身が私自身を救って、その姿を発信すればいい。

ライフチューナー浮葉

誕生の瞬間でした。


第四章:ライフチューナー期(現在の浮葉)

これにでライフチューナー誕生の話はおしまいですが、それから私は伝家の宝刀「引き寄せの法則」を使い、飛ぶ鳥を落とす勢いでThreadsのフォロワーを爆増させます。

その時の話はこの記事にまとめています。

あんまり話を盛りたくないので控えめなタイトルにしていますが、引き寄せを開始してからでカウントすると37日で10,000フォロワーを達成していますので、今思うと結構な異常値だなと思っています。

これを再現する方法もいつか記事にしようと思っているのですが、今はそこに熱を見出せないので興味のある方は楽しみにお待ちいただければ嬉しいです。

時は経ち、
現在(2026年2月)の私についても、少し補足しておきます。

今の私は

ライフチューニングを体現しながら、
純度100%の自分でもしっかりとお金を稼げるんだ!

ということを証明すべく、日々情報発信をしています。
その想いを綴ったのがこちらの投稿です。↓

引き寄せでフォロワー数を増やしたはいいけれど、ライフチューニングで生計を立てられないならばいつか情報発信を辞めなければならなくなる日が来てしまう。

そんな想いから、自分の美学を反映した生き方、情報発信者としての在り方を追求する日々が続いています。

そして最近、
言語化したのが「純度100%発信者」でした。

これこそが、
ライフチューナー浮葉が2ヶ月で10,000フォロワー達成し、
その後も静かに売上を伸ばしている、新しい情報発信者のスタイルです。

純度100%発信者になってみたい方は↓の記事をお読みください。
無料部分だけでも結構面白いはずです。

というわけで、
今の私はライフチューナー業で生計を立てられるということを体現、証明している最中です。

共鳴してくださった方は、
是非これからも私、ライフチューナー浮葉を応援してやってください。

一緒に、純度100%の生き方をしてみませんか?


あとがき

この文章を書きながら、私は込み上げてくる涙を止められませんでした。ライフチューニングの説明をしているはずが、過去の自分を慰めてあげているような気持ちになったからです。

引き寄せの法則で私を知ってくださった方が多いと思いますが、私の発信の根幹はライフチューニングにある、ということをおわかりいただけたでしょうか。

ライフチューニングの内容に関しては別記事に譲るとして、この記事で私の人間性を少しでもお分かりいただけたらこんなに嬉しいことはありません。

正直、自分を曝け出しすぎていて、知り合いが読んだら100%バレると思います。もし万が一「あいつかも…」と思った方は、コメントではなく個人的に連絡してきてください。

それでは、ここまで読んでくださって本当にありがとうございました。

ライフチューナー浮葉


純度100%という生き方についての詳しい解説はこちらです。
無料で読めます。是非読んでいただきたいです。↓

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