2.多孔的都市——哲学の終焉:『都市巡礼』について
目次(各章は別リンクです)
1.序文——二重のデジタルデトックス:2024年7月公開
2.多孔的都市——哲学の終焉:2024年9月公開
3.機械的都市——顕在的中心:2024年10月公開
4.幻視的都市——潜在的中心:2024年11月公開
5.沿岸的都市——地霊への巡礼:2024年12月公開
6.「 」都市——差異と反復:2025年1月公開
7.跋
(約5,800字)
かつて自分が通った都市を巡礼するかのように、2017年3月にこの楽曲を今一度見直し、作り直す。
この曲が2017年に投稿されてから、もう7年以上が経過してしまった。当時まだ何も知らない大学生だった自分はいつしか大学院博士課程まで進んでしまい、そして大学図書館で働くに至った。当時は京都に通学する電車の車窓を撮影することも容易かったのに、就職活動を経て広島が安住の地となることが決まって以降、京都はずっと遥か彼方になってしまった。かつては住民だった自分はいつしか「余所者」になってしまったが、かといって広島に移り住んで未だ数か月しか経過していない自分は、広島の地から見ればやはり「余所者」だ。これから私は徐々に新たな都市の構成員として馴染むことになるのだろうが、それでもなお、しばしの間は足場をぐらつかせながら生活を送ることになる。
それまであった都市の生活を外部から侵入し、根本から作り替えたうえで去っていくような存在。観光客のようなそれらをジル・ドゥルーズはかつて「戦争機械」と称した。就職活動で様々な組織に履歴書を出し、面接に挑んで帰っていくその日々はまるで観光客のようであり、そして戦争機械のようであったと私は考えていた。そんな様々な都市、組織への巡礼の果てにたどり着いた都市のなかで、私はこれからむしろ外部によって変えられる存在になるのかもしれない。私は意味もなく誰かによって改造手術をなされていくことになる。だがそれこそ、人間の複雑性の本質なのかもしれない。余所者=観光客=戦争機械。彼らの到来を静かに待つことが、今後の私にとって重要なのだろうか。
しかしながら、いやだからこそ、自らが変化する可能性を今一度、私は検討する必要がある。かつて作られた私の痕跡を再構築するこの作業が、過去の私に対し現在の私自身を戦争機械にする試みだ。そうやって、過去の私と今の私は交錯し、新たな価値観がきっと作り出される。幼かった私の言葉は今から見れば、いささか理解に苦しむ面もある。だからこそ、それらは今の私を内部から作り変えうる、戦争機械にになる。
進化を続け、そして新しいものの到来を待ち続けよう。そうすることで、より先鋭された言葉を作ることを私はできるかもしれない。
シャノンとウィーバーによる『情報通信の理論』やノーバート・ウィーナーによる『サイバネティクス』のような情報科学的視点はいま[1]、現実の都市空間内の至る所に散見している。私たちは一日に一回は必ず手元のスマートフォン上でインターネットにアクセスし、都市の景色に溶け込んだデジタルサイネージをはじめとした各種スクリーンを通して、嫌でも情報空間へ強制的に没入させられる。都市部の公共交通機関では個人の利用履歴を記録したICカードが毎日のように使用され、そこから私たちは知らず知らずに自らのデータをシステムベンダーのサーバへ送信する。そんなことに意識を向けたのもつかの間、手元のスマートフォンからくるReRealの通知から、私たちはさらに深い次元でデジタル空間に関与し、システムに半ば強制される形で撮影、共有を繰り返す。「強制同期」とでも形容し得ようこの状況はかつて、哲学者のジル・ドゥルーズが1990年代序盤の時点で想定した「エレクトロニクスの首輪」とも大して変わらないだろう[2]。あらゆる側面を「0」と「1」で構成されたデジタル的なものへと変換してゆくような還元主義的な情報科学の世界は、人間社会の徹底的なシステム化による機械と人間の違いを打ち砕こうとするウィーナーの思想とも、どこか共鳴している。無数にも都市に穿たれた孔=スクリーンからなされる主体の強制同期的状況、および主体の美的変容は、そんなサイバネティクス的な思想から提示されるデジタル的なものへの同期、すなわち「デジタル還元主義」のようなものとも、決して遠くない。
とはいえ、こうしたデジタル還元主義批判自体は決して新規性に溢れたものでもなく、むしろ手垢に塗れた思考だろう。何より、サイバネティクスを提示するウィーバー自身、ネオ・サイバネティクスとい形で機械=人間の構図から逸脱する生命の独自性を認めている。2000年代に国内で「基礎情報学」と称される新たなムーブメントがネオ・サイバネティクスを起点にしたことも、歴史として語るにはまだ新しい[3]。一方、デジタル還元主義、もしくは強制同期批判は、1950年代から60年代における人文学において既に批判されてきた事実は述べておかねばならない。技術哲学の第一人者たるハイデガーの指摘は、それを裏付けるに十分だろう。
べつに予言者でなくても、現代の諸科学が早晩その装置の仕事において新しい基礎的科学たる人間工学[ルビ:シベルネテイク、引用者注:サイバネティックス]によって規定させられ、4,000字とになるだろうことはたやすく知られる。人間工学とはけっきょく、人間の仕事をできるだけ計画的に運用し組織化することを引き受けるということを対象とする理論である。人間工学は言語というものを情報交換の手段にしてしまい、芸術を報道目的に向けて動く道具にさえしてしまう。
哲学とは要するに自律的な、しかしまた毎日のようにますます大胆に相互連関的になりつつある諸科学のことだという説明、これはまさに哲学の正式の完結である。哲学は現代において終りをつげる。(…)宇宙の諸現象と人間が占めている場所とに技術が決定的な足跡をしるしそこを支配するようになればなるほど、現代の技術を問題視するということの必要はますます減少するだろうと思われる[4]。
引用は1960年代に発表された『生けるキルケゴール』に掲載された小論「哲学の終りと思惟の使命」にて掲載された、サイバネティクス批判に関する箇所である。そこで、彼は哲学より拓かれた各種学問領域、その果てに登場する情報科学が人間のあらゆる要素を技術化する、すなわちデジタルへ還元することで、その技術自体を疑問視する力を衰退させるという。「人間の仕事をできるだけ計画的に運用し組織化することを引き受けるということを対象とする理論」たるサイバネティクスが今日の生活に蔓延っていることは、無数もの孔に塗れた都市の状況からも見てとれる。スクリーンがどこでも散見し、私たちの意識外でプログラムが自動的に駆動することで快適さを提供している今日の世界において、私たちはそんな快適な技術そのものに対する批判的視点をどこまで維持できるだろうか。ハイデガーをパラフレーズすれば、私たちはデジタル空間から自身の身体をある程度切り離しつつ、現実空間に回帰する方法を検討せねばならない。だがしかし、そんなデジタル空間からの撤退=デジタルデトックスは決して現実的ではない。多孔化された都市が提供するスクリーンの偏在はもはや、デジタル空間との境界線を失いつつある都市の姿を表象すると同時に、「孔」を塞ぐことも、それを避けることも許さないからだ[5]。いつどこでもスマートフォンをいじる私たちがそうであるように、もはや都市はスクリーンを経由しあらゆるデジタル空間へと私たちを繋ぐことを可能にしている——そしてその代償に、現実の都市空間はかくも「孔」に塗れている。そんな「多孔的都市」へと進化した生活空間上で、デジタルデトックスが簡単に実行されるだろうか。
実際、ここ数年に巻き起こったニューマテリアリズムの思想は、デジタル空間の一切を否定するどころか、むしろデジタル空間から発生した新たな可能性であった。2010年代以降、哲学的な思想潮流上ではフェミニズム、ポスト・ヒューマン、そして情動論の三つの視点が絡み合いつつニューマテリアリズムが形成され、多くの影響を残してきたのはまだ記憶に新しい[6]。その起点こそ様々だが、デジタル空間から鏡写しになる自分自身の身体性を起点としている点で、皆一様にデジタル空間が前提にある。デジタル還元主義を起点とする存在論的問い直しは、しかしながら、デジタル空間を完全に否定するのでなく、デジタル空間の持つ新たな身体性との融和を通して可能性を切り開こうとするベクトルをも生み出してきたことは留意すべきだ——とりわけ、3Dアバターに関する進化は従来の身体論的問題を乗り越えた「新しい身体」の可能性を拓いている。そんな視点は一方で従来の物理的身体への視点を浮上させつつも、他方でハイデガー的が危惧したようなデジタル還元主義批判に逆行するかの如く、私たちをデジタル空間に誘っている。こうして不可避にもデジタル化する私たちの姿が今日のポスト・ヒューマンをめぐる議論の中心点であるなら、多孔化に伴いデジタル空間との境界線を喪失しつつある都市の多孔化は、もはや不可逆的な次元で私たちを改造していると言わざるを得ない。ハイデガー的「哲学の終焉」が、その果てにある可能性を踏まえても。
濃厚接触を回避するため導入されたオンラインミーティングの台頭から、遠隔地でのコミュニケーションが当然となった社会を「インターネット・オブ・プレイス」と形容されたのは、ほんの数年前だ[7]。「モノ」から「場所=プレイス」へ。現実空間からのデジタルシフトを果たす都市で、その境界線を問う思考はもはや時代に逆流しているのかもしれない。だがしかし、それでもなお、めげずに反デジタル還元主義的な都市の可能性を思考することは、いかにして可能か。その思考の可能性を、以後は都市表象史を中心にしながら検討することになる。近代的都市が最初に登場する時代で、それは何よりも機械的でシステマチックなものであったからだ。しかしながら、モダニズムはおろかポストモダニズムさえも遠い過去となった今、我々は70年ほど過去の思想に直接立ち返れないだろう。モダニズムは今日のデジタル空間のインフラストラクチャー化を、明確には想定していない。とはいえ、都市をシステム=機械と見なすことができるのなら、今日の多孔的都市に散見するデジタル空間はまさしく「機械」の台頭にほかならないのではないか。こうした状況を表象史を補助線にして分析し、そのうえで処方箋を思考することは、ハイデガーの危惧する「終焉」への抗生物質となるだろう。
都市は私にとって、魅惑と畏敬の対象であった。清々しい碁盤の目のような街並み、そしてその中でシステマチックに動く人々の姿は、私に数学的な美しさを感じさせる。効率的にかつ論理的に設計された無駄のない都市は、言うまでもなくディストピアであるが、とはいえユートピアでもあることは言うまでもないだろう。数学的な完全さ、圧倒されるこの感覚は、カントが「崇高」といったそれと同じだろうか。反復された都市の光景を見ながら、そのようなことを考えている。
システマチックな近代都市のあり方は、ハワードが19世紀末に「田園都市」を提唱し、そしてコルジュビエ20世紀冒頭に「輝く都市」と提唱して以降が印象的だ。無数ものビルが中心となり、まるで住民がコントロールされながら生活する光景は、人類の進化のようなものを強く感じとても好印象に思える。しかしながら、そんな都市の姿が実現されたことなど、過去に一度もなかっただろう。秩序の中に抑え込まれた人々が内包する無秩序さ、すなわち人間性が爆発したからだ。そんな都市の動態的な美しさ、そしてその中での自分の位置づけを再定義することが、私の原動力となった。
コントロールに離反する人間性。そんなことが望まれたのはもう半世紀ほど前にことになりつつあるが、とはいえ、現代社会は紛れもなくコントロールされている。私たちはプロトコルによって強烈に制御されたデジタル空間を避けて生きてゆけない。Twitterの無秩序的なコミュニケーションだって、いまやイーロン・マスクの掌の上で展開されているに過ぎない。私たちがどれほど電子回路に依存しているかは、ここ3か月の間で発生したニコニコ動画のハッキングがそれを示していただろう。デジタル空間からシャット・アウトされた私たちのどれほどが、別のデジタル空間を志向したことか。いずれにせよ、こうした事情により私は今一度「都市」を望む。
電子回路から人間性を取り戻すこと。誰しもが「エレクトロニクスの首輪」が課せられ、数字に還元されてゆく時代で、数字に還元されない固有性を見つけること。その探求は、都市の中での自分自身の位置づけを再確認し、再構築する試みである。十年後、私はこの作品を振り返り、その不完全さに眩暈を感じるかもしれない。しかし、その不完全さこそが、都市の魅力ではなかろうか。誰かを見つけること、そして「 」を付けて客体化し、改めて見つめること。その反復、巡礼こそが、いま求められている。
[1] クロード・シャノン、ワレン・ウィーバー『通信の数学的理論』植松友彦訳、筑摩書房、2009年。およびノーバート・ウィーナー『サイバネティクス——動物と機械における制御と通信』池原 止戈夫、彌永昌吉、室賀三郎、戸田巌訳、岩波書店、2011年。
[2] ジル・ドゥルーズ『記号と事件——1972-1990年の対話』宮林寛訳、河出書房新社、2010年。
[3] 以下を参照。西垣通『基礎情報学——生命から社会へ』NTT出版、2004年、および同著『続基礎情報学——「生命的組織」のために』NTT出版、2008年など。
[4] マルティン・ハイデガー「哲学の終わりと思惟の指名」(『生けるキルケゴール』川原栄峰訳、人文書院、1969年収録)。
[5] 吉見俊哉「多孔的なメディア都市とグローバルな資本の文化地勢」、石田英敬・マイク・フェザーストーン・吉見俊哉編『デジタル・スタディーズ第3巻 メディア都市』東京大学出版会、2015年。
[6] 以下も参照。北野圭介『マテリアル・セオリーズ』人文書院、2018年。
[7] 高木聡一郎『インターネット・オブ・プレイス——「都市」の新しい拡張』東京大学出版会、2023年。

