ヒトはなぜ“やらかし”を繰り返すのか?
最近、本を出した。書名を『だいたいヒトがやらかしました 絶滅生物事典』という。現生人類である我々ホモ・サピエンスこと、ヒトが絶滅に追いやった生物をイラストと漫画でまとめた本なのだが…

正直、絵を描きながら私はウンザリしていた。
同じような“やらかし”があまりにも多すぎる。絶滅に至った経緯を漫画としてまとめるため、その歴史を手繰っていくと、同じような経路を辿ることがとても多い。
ジャイアントモア、
ステラーダイカイギュウ、
ドードー、
オオウミガラス、
リョコウバト…
気候変動に加えて、人間による環境破壊、外来種の持ち込み、そして乱獲。場所と時代は違えど、同じようなことを繰り返し“やらかし”ている。
しかし、ふと思う。これは、なにも生物を絶滅に追いやる行動だけに限らないのではと。最近の日本の政治状況を見ても、似た既視感を覚える。世界から“極右的”と指摘される高市政権の強硬外交、「国交断絶だ!」「戦争だ!」と煽る聴衆、ヨイショ体質に傾く一部のメディア。戦後80年経って、空気は戦前に逆戻りだ。
ヒトは、何故こうも繰り返すのだろうか。
第1章:ヒトはなぜ、同じ轍を踏むのか
絶滅生物の歴史を遡っていると、どうしても避けられない疑問がある。
「なぜヒトは、ほぼ同じ“やらかし”を、時代も場所も文化も違うのに繰り返すのか?」
それは、モアやリョコウバトのような例だけには収まらない。政治、外交、社会の空気、SNSの炎上、そして戦争前夜の空気。どの分野にも、驚くほど似た構造が見え隠れする。
この「反復」には、実は人間に共通する“脳のクセ”が深く関わっているように思う。
■1:「目の前の利益」に勝てない脳
ヒトの脳は、進化の過程で“短期的な利益”を優先するようにできている。目の前に大きな獲物がいたら、それを逃すまいと動き、目の前に利益があれば、多少のリスクには目をつぶる。

たとえば、ステラーダイカイギュウ。18世紀、発見からわずか27年で絶滅した。人類が「知り、記録した」直後に「絶滅させてしまった」最初の巨大哺乳類である。脂肪が多く、肉は美味く、海の上では格好の食料だった。そもそも当時は、“長期的に取り続ける”という考え自体がなかったので、目先の利益が優先されたのは自然な流れだったかもしれない。

だが、これは我々現代人も変わらない。ウナギやイカは美味い。売れる。だから獲る。保護の機運は高まってはいるが、今一歩踏み込めない。同じように政治でも外交でもSNSでも、多くの人が“いま気持ちがいい選択”を好んでしまう。それが後々どんな結果を生むかより、「今この瞬間の快感」が優先されているのだ。
■2:「数が多いものは、無限に見える」という錯覚
リョコウバトは、北米大陸の空を覆うほどいた。数十億羽という想像を超えた多さは、人間に“無限性”の錯覚を与えた。博物学者でさえ、
「こんなにいるのだから、
多少獲ったところで減るわけがない。」

と言ったほどだ。だがこれが大きな間違いだった。リョコウバトは鶏のようにポコポコ卵を産んでくれる鳥ではない。産卵は1年に1度と繁殖能力が低い。その上、広大な営巣地が必要だ。その営巣地は開拓による森林伐採で失われていった。肉だけでなく、羽毛布団の材料となり、大量に捕獲され、絶滅した。
無限に見えるものほど、減り始めたときの落差に人は気づけない。これは自然界だけでなく、社会の安定や民主主義にも同じ構造がある。

現代でも、この「無限に見えるものを使い潰す」心理は資源だけでなく、“社会の安定”や“空気感”にも同じように働く。
“この国の制度は安定しているから、多少の揺らぎでは崩れない。”
“今の雰囲気は強固だから、少しぐらい過激な言説が増えても大丈夫。”
だが、こうした油断。無限だと錯覚した瞬間に、不可逆的な崩壊が静かに始まっていく。
■3:「誰かが止めるだろう」という集団心理
絶滅の裏側には、“責任の分散”という厄介な心理がある。イカ、ウナギ、サンマなどは現在進行形で減り続けているが、多くの人は「自分ひとりが楽しむだけなら問題ない」と思い、環境破壊や、資源を追い詰める行為を“他人ごと”として片付けてしまう。

しかし、集団が同じ方向に走れば、誰もブレーキを踏まないまま、生息地も個体数も一気に傾く。
これは歴史の暴走でもまったく同じだ。
「自分1人くらいなら」
「みんなが賛成しているなら」
「空気に逆らわないほうがいい」
いま起きているパレスチナでの虐殺も、この“責任の分散”の典型例だ。
国際社会は「誰かが止めるだろう」と思い、止めるべき瞬間を逃している。その結果、無抵抗の民間人が殺され続けても、暴走は止まらない。これは絶滅の現場でも、戦前の社会でも、そして現代政治でも共通する構造だ。

こうした“空気の加害”は、環境の危機だけでなく、現代の政治や国際関係の判断にも、同じ力学が入り込んでいる。
■4:時間割引という罠
人は、未来のリスクを軽視する。これは心理学で“時間割引”と呼ばれ、人類が太古の狩猟採集生活を送っていた時代からのクセだ。
未来の大きな損より、
今の小さな快楽を優先する。
将来の健康リスクを無視して、酒・タバコ・ドラッグに走るのもその名残りだ。この“未来の軽視”が、絶滅の現場でも、政治の現場でも、同じように働き続けている。
「いざとなったら何とかなる」
「未来の誰かが解決してくれる」
「問題は見えてないふりしてしまおう」
その結果、後戻りできない地点に到達してしまう。未来に丸投げした瞬間、崩壊は気づかれないまま進んでいく。
■結論:やらかしは“人間のあるある”である
絶滅の歴史も、政治の振り子も、社会の暴走も、その背後には、ヒトの脳のクセと心理構造がある。ヒトがやらかすのは、愚かだからではなく、ヒトである以上“そうなりやすい”ということだ。“あるある”と言ってもいい。
えぇ〜じゃあ、もうしょうがないよね。「にんげんだもの」と、相田みつをの言葉で締め括ってしまいそうになるが、そういうわけにはいかない。一人がつまずくだけなら個人の失敗だが、集団がつまずけば、ドミノ倒しのように、他の人間や生態系まで巻き込む大惨事になる。
だからこそ、
“やらかしの構造”を知ることには意味がある。
第2章:やらかしを加速させる「物語」と「誤情報」
ヒトは“都合の良いストーリー”に弱い生き物である。
第1章で見たように、ヒトは「脳のクセ」で同じ失敗を繰り返す。
しかし、厄介なのはそこからだ。
ヒトは自分の行動に“理由”を求める生き物だ。ただ行動するだけでは落ち着かず、そこに意味や正当性を与える“ストーリー”を欲しがる。そしてそのストーリーが、時に“やらかし”を爆速で加速させてしまう。
それが 「物語(ナラティブ)」と「誤情報」 の問題である。
■1:人間は、事実より「わかりやすい物語」を信じる
どれだけ大量のデータがあっても、人間が理解したいのは“わかりやすい筋書き”だ。
たとえば絶滅生物の中には、フクロオオカミのように、本来は複数の要因が絡んでいたにもかかわらず、「外来種(ディンゴ)のせい」と単純化されて語られてしまう例がある。

実際のフクロオオカミ絶滅は、組織的な駆除(懸賞金制度)、生息地の破壊、ヒト由来の感染症の流行など複数の要因が重なった結果だった。とくに絶滅が起きたタスマニア島にはディンゴはおらず、「外来種との競合」という説明は史実とは一致しない。しかし人間は複雑な原因より、「アイツが悪い」という単純化を好む。(そもそも、ディンゴをオーストラリアに持ち込んだのは人間だ。)
複雑だったはずの絶滅の経緯が、“わかりやすい物語”によって一色に塗りつぶされてしまった例だ。この傾向は、現代社会でも非常に強い。
「〇〇を排除すれば良くなる」
「△△が国を壊している」
こうした“単純化の物語”は、人間の心に強く刺さる。刺さった瞬間それは、思考ではなく“信念”に変わってしまう。
■2:正義の物語ほど、人を盲目にする
ヒトは“正義”という言葉に弱い。正義という名の酒は回りが早く、いとも簡単に人間を酔わせ、判断力を曇らせる。
ナチスのプロパガンダも、
文化大革命のスローガンも、
“正義の名のもとに”行われた。
「社会を良くするため」
「国家を守るため」
「秩序を取り戻すため」
大義名分はいつも、極めてシンプルで心地よい。だからこそ危険だ。正義の物語は、必ず「敵」を用意する。敵が現れれば、そこに“都合の良い物語”が注がれる。人間はこう思い始める。
「敵を倒すためなら、多少の無茶も仕方ない」
正義は人を盲目にするだけでなく、現実の複雑さを平らにしてしまう。そして“平らになった世界”ほど、誤った判断が入りやすい。その構造は自然界にも現れていた。
「害獣だから駆除すべきだ」
「富国強兵のため、資源は取れるだけ取るべきだ」
こうした“都合の良い正義”が、確実に絶滅を後押ししていく。
■3:誤情報は、複雑な問題を“雑に”解決してしまう
21世紀は、誤情報がかつてない速度で広がる時代になった。SNSによって誰もが「語り手」となり、誰もが「物語の作者」になった。
その結果、本来は複雑で長期的に向き合うべき問題が、雑で単純な言葉で上からベタ塗りされるようになってしまった。
「この政党が日本を救う」
「この国は終わっている」
「外交で強く出るべきだ」
「国交断絶だ!」
音が大きい言葉ほどバズりやすい。
強い言葉ほど、気持ちいい。
そして気持ちいい言葉は、人を盲目にする。
これは、絶滅生物が消えていった時代の“誤情報”とも似ている。
「資源は尽きない」
「害獣だから殺せ」
「自然は勝手に回復する」
「資源は神が授けた恵みだ」
科学が状況を説明するよりも早く、“簡単で都合の良い話”の方が先に広まってしまう。
■4:物語は、やらかしを“正当化”し、加速させる
人間は、自分の行動をそのまま受け止めることが苦手だ。後ろめたさや不安が生まれると、それを打ち消す“物語”を後付けする。
・ウナギが減っている?
「乱獲ではなく、温暖化のせいだ」
・社会が荒れている?
「外から来た人間が原因だ」
・差別的な発言?
「差別ではなく、ただの区別だ」
こうして人は“不都合な現実”ではなく“安心できる物語”を選ぶ。
物語が厄介なのは、論理ではなく感情に直接届く点にある。人は論理より物語に動かされ、数字より感情に動かされる。そして“わかりやすさ”は、いつだって誘惑的だ。
問題は、そのわかりやすさが“誤った方向”にも働くことだ。
自然界では、「害獣だから殺せ」「資源は尽きない」という単純化が複雑な生態系を塗りつぶし、絶滅を早めた。
歴史の中でも、「敵を排除すれば平和が来る」「国を守るため」という物語が、社会を暴走させてきた。
絶滅も歴史も、同じ構造の上にある。
“単純化された物語が感情を動かし、行動を誤らせる”という構造だ。だから物語は、自然でも政治でも、人間の行動を同じパターンで狂わせてしまう。
第3章:人は“やらかし”のルートを回避できるのか
絶滅は今も進行している。それでも多くの人が深刻に感じられないのは、危機が生活の表面に現れにくいからだ。だが現実には、21世紀も“やらかしの真っ只中”にある。
ウナギ・サンマ・イカ・アサリといった身近な魚介類が減少し、沿岸はかつてと比べ資源が明らかに減り、漁の維持が難しくなっている地域が多い。寿司ネタ種類は減る一方だが、表面上の生活の変化はスーパーに並んでいる魚の値段が高くなる程度で、 多くの人には危機感がない。“見えない場所で起きている崩壊”に人類は驚くほど鈍い。
ガザで毎日のように民間人が殺されていても、それが“見えにくい場所”で起きているというだけで、多くの人に実感が届かない。“見えない場所の崩壊には鈍感”というヒトの弱点が、ここでも露呈している。
気候変動も同じだ。 誰の責任でもあり、誰の責任でもないように見える構造が、 危機感を薄めてしまう。 その結果、誰も本気で止めようとしなくなる。
ここまで書いてくると、
「じゃあ人類は何度でもやらかして、
最終的に自滅するだけなのか」
という、どうしようもない結論になってしまう。
だが、そうとも言い切れない。
ヒトには、“やらかす力”と同じくらい、
「学ぶ力」と「想像する力」が備わっているからだ。
人類は、ジャイアントモア、ドードー、リョコウバトを絶滅させた。しかし同時に、そのことを記録し、本にし、教材にし、「二度と繰り返さないために」語り継ごうともしてきた。私がモアの存在を知ったのは、ドラえもんのアニメが最初だった。人類が絶滅させた生物たちの存在をドラえもんを通して知った。私もバトンを繋がなければならない。
絶滅の歴史をたどることは、単なる過去の残骸を眺める行為ではない。それは、「どこで何を踏み外したのか」を示したログの確認でもある。
同じことは、戦争や政治の歴史にも言える。
ナチスのプロパガンダ、
文化大革命のスローガン、
“地上の楽園”という幻想、
Make America Great Again、
それらはすべて「物語が人をどこまで盲目にできるか」を示す事例だ。
だからこそ、
歴史や政治を学ぶことには意味がある。
過去を知ることは、
「二度と同じ物語に乗せられないための訓練」だからだ。
以前、『表現を仕事にする人が、歴史と政治を学んだ方がいい理由』で書いたように、表現者が歴史を知らないまま作品を作ると、自覚のないままプロパガンダや差別の再生産に加担してしまう。
これは、受け手側にも同じことが言える。「気持ちのいい物語」に出会ったとき、それが誰かを踏みつけにしていないか、過去のやらかしと同じ構造を持っていないか、一度立ち止まって考えられるかどうか。
その一瞬のブレーキこそが、“やらかしの連鎖”に割り込む、数少ないチャンスである。
ヒトは、完全には賢くはなれない。
だが、「同じ失敗をちょっとだけ減らす」ことはできる。
そのための道具が、歴史であり、科学であり、そして想像力だ。
終章:最後の一人を想像する
リョコウバトは、1800年代中頃まで北米大陸に数十億羽と、鳥類最多とも言われる生息数をほこっていた。渡りの時期には空を大河のように覆い、人々はそれを見上げていた。

1900年代はじめには、野生で見られることはなくなり、1914年、動物園で飼育されていた最後の1羽“マーサ”が死んで、この鳥は完全に地球から姿を消してしまった。

絶滅生物事典の作業を終えてから、ずっと頭の中にこびりついて離れないイメージがある。
大繁栄して、地球を席巻した生き物たちは絶滅した。我々人類もまた、いつかは絶滅するのだろう。
では、地球上にたった一人、最後に生き残って、最後に死ぬのはどんな人間なのだろう。男性だろうか、女性だろうか、老人だろうか、それとも子どもだろうか。そして、その人類におけるマーサは最後を迎えるとき、いったい何を思うのだろうか。
この想像は、未来を悲観するためのものではない。むしろ、未来を通して“いまの私たち”を映し出す問いだ。
いま、私たちは何を選び、
何を見ないふりをし、
どんな物語に酔っているのか。
絶滅生物たちの物語は、
「かわいそうな動物」や「昔の話」で終わらせてしまえば、ただの消費で終わる。
だがそこに、
「これは今の私たちの話でもあるのでは?」
という視点を持ち込んだ瞬間に、それは未来への地図に変わる。
実は『だいたいヒトがやらかしました 絶滅生物事典』は、私自身は動物本ではなく歴史の読み物として書いたつもりだ。
歴史を学ぶことは、世界がバッドエンドを迎えないように、先に“分岐”を知っておくことに似ている。SFの世界で例えれば、歴史を知らない者は、何度もタイムリープを繰り返す羽目になる。タイムリープせずに済む方法は、「すでに一度あった未来」からの警告を受け取ることだ。歴史は学ばないと、繰り返してしまう。
ヒトは、やらかす。
それはもう、どうしようもない“人間の性”かもしれない。
それでも、
「やらかし方」を少しだけマシにすることはできる。
そのために、過去を知り、
絶滅を描き、
歴史と政治と表現をつなげて考える。
この文章も、この本も、
そのための小さな試みだ。
もし、書店でこの本を見掛けられたら、
手にとっていただけると幸いである。
※書店が近くにない方は、こちらからどうぞ。
それでは、長文読んでいただきありがとうございました。
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