夏は、曲がり角からやってくる。
しゃぶしゃぶ屋の「ゆず庵」に行ったら、3台の猫型ロボットが配膳をしていた。
最近はどこの店にもこいつらがいる。
よく行くステーキハウスで、ある時期から人がいなくても奥の方の席に座らされるようになった。それは、このロボットが来てからだ。
おそらく広い通路でないとこいつらが移動できないため、そっちに誘導されている。
南国風の音楽を流しながら陽気に料理を運んできたかと思えば、早く取れと言わんばかりに音楽が鳴り止む。
無言の圧に屈して料理を取ると、再び陽気な音楽を流しながら去っていく。
あまりの人間の立場の無さっぷりに、私はこれを“小さなシンギュラリティ“と呼んでいる。
ここゆず庵では3台共に久石譲の「Summer」を流しながら店内をウロウロしているようだった。
夏というのはどこか切なくて、どうしようもなく儚い。
あの曲を聴くと心の中がノスタルジックな気分になり、ひまわり畑のような情景が浮かび泣きそうになる。
あの夏の太陽の眩しさ。
私は太陽を直視するとくしゃみが止まらないという日本の4人に1人はいる体質なのだが、それでもSummerには抗えない。いい曲はいい曲だ。
ただ、美しいと感じていたひまわりでも、3台ともに同じ曲を流していると流石に生えすぎで、これでは情景どころか前すら見えない。
そして、Summerが聞こえるたびに思う。
猫型ロボットが自分のところに来るのか、それとも他のテーブルに向かうのか。
あの曲がり角を、こっちに曲がってくるのか?
それとも、まっすぐ行くのか?
そんなことばかりを気にしていると、ついにこちらにやってきた。
私の席に止まると音楽がふっと止まり、
料理を取るとまた音楽を奏でながらロボットはどこかへ去っていった。
……なんだか、夏ってこういう感じかもしれないと思った。
夏は、実際にやってくるその瞬間よりも、
来るか来ないか気配を感じているときの方が強く意識していたり長く感じたりする。
去っていく時もそうだ。
フェードアウトするように、ふと気づいたら遠ざかってしまっている。
その証拠に、さっきからSummerもフェードアウト形式で聞こえなくなる。
よくわからない南国風の曲ではなく久石譲の曲になっただけでシンギュラリティではなく“夏“を感じて切なくなっているのだから、人間とは単純な生き物だ。
私は、店内で目まぐるしくやってくる“夏”の行方を追い続けていた。
ただ消化する夏にはしたくない。
せめて夏らしいことをしたい。
そんなことを考えながら、私はメニューの中から夏っぽいものを探した。これだ!
しばらくして曲がり角付近を見ると、
マンゴーと共に夏がやってきた。
ああ、なんて詩的なんだろう。
こう書くと、まるでマンゴーが真っ黄色に染まり太陽がギラギラと輝いているようにも思えるが、実際はクーラーの効いたちょっと寒い店内で、猫型ロボットがSummerを流しながらマンゴーゼリーを運んできただけだった。
それでも、私にはそれが「夏」だった。
こっちに向かってくる。夏が来る!
そう思って身構えた瞬間、猫型ロボットは隣の席に止まった。
本当に来るかどうかなんてわからないのに、待ってる間だけはすべてを肯定してしまう。
そんな時間が、人生には意外と多い。
「わあ」
目を輝かせて声を上げたのは知らないおじさんだった。
私の待っていた夏は
おじさんのテーブルに着地した。
やっぱり夏というのはどこか切なくて、そして待ってる時間の方が長い。
