まともな研究者なら地球環境問題をこうとらえる!
地球環境を守るために何をすべきか?真っ先に挙げられるのが「環境意識を高めよう!」であろう。SDGsとか学校教育ではとりわけ盛んに言われている。もはや正面からこれに意を唱えることは難しくなったが、この機会にこれは果たして正しいのか?問うてみたい。
「いや、いや、お前は何を言ってるの?」「地球の環境はどうでもいいのか?」「効果はともかく、環境意識を高めることに悪いことなどあろうはずない。」と反論されるに違いない。たしかに!そう言われて一般人が反論するのは困難だ。だからこそ、研究者に期待したい。まともな研究者は、直感が必ずしも真理と一致しないことを十分知っているからだ。
「光の速度は一定である」。今では科学の常識となっているが、アインシュタインの登場以前、多くの研究者たちはこれを受け入れることができなかった。ある意味仕方がない。自分が光に向かって移動しているときに観測する光の速度と、自分が光から遠ざかっているときに観測するときの光の速度が同じである、そんな直感に反する実験結果を信じることは難しい。だから、実験が光の速度が一定であるという結果を出しても、「これは実験のやり方が悪いかったからに違いない。」とさらに実験を繰り返したり、辻褄が合わうように理屈をコネ回したりして多くの時間を浪費した。
ところが、アインシュタインさんはそんな直感はどこへやら、あっさり実験結果に身を委ねた。即ち、光の速度はどこから観測しても一定である、という結果を受け入れ、地道に思考を重ね特殊相対性理論に行き着いた。そう!私たちの常識や直感に基づく思考と真理は必ずしも一致しない。(ガリレオの重力実験もそうだろう。)よって、その当時の常識や直感だけに基づいていては判断を誤る可能性かある。(なお、これについての詳細は最下段のリンク先。それと特殊相対性理論について最も的確なところをとらえているヨビノリさんのYouTubeのリンクも貼っておく。)
つまり、まともな研究者であれば、たとえ「環境意識を高める」という環境対策が直感的に正しいように思えても、きちんと客観的なデータを拾って、それに基づいて判断するだろう。もっとも、現在のところそれを客観的に示すデータは見当たらない。それはそうだ、現状の環境対策は直感のみを根拠にしているのだから仕方ない。今回は、将来的にそうしたデータが揃うことを期待しながら、アインシュタインさながらの思考実験風味で考えてみたい。
まず、通時的な視点で(時系列で)その効果を検証してみよう。手近なところで江戸時代と現代を比較したらどうか?
江戸は見事なリサイクル社会だと言われている。街中の排泄物が船に乗って郊外に運ばれ、肥料として畑に撒かる、そして、最終的には地面に染み込み、川に乗って江戸湾に流れて江戸前と言われる魚の宝庫を生み出す。見事なまでの循環社会であった。
では、江戸の人々の環境意識は高かったのか?いや、そんなことはなかっただろう。それが自分たちの利益になるからやる、それだけしかなかった。環境意識で言えば現代人の方が数段高いのは間違いない。はっきりしたデータではないにしろ、このことは、環境意識を高めることが必ずしも、地球環境を守ることにつながらないことを示すと言っていいだろう。
では次に、共時的な視点(同時代における地理的差)からその効果を検証してみよう。
まずは極端なところで、アマゾン流域など未開の地に住む人々と日本に住む人々を比べてみるとどうか?これは言うまでもあるまい。それではもう少しリアルに、東京など都会に住む人々と超過疎地、例えば離島に住む人々を比べてみるよう!私もときおり都会からのお客様をお迎えすることがあるが、喋ってみただけで明らかに都会の人々の方が環境意識が高いことが分かる。具体的には自治体のゴミの取り扱いをみるといい。都会の分別収集の細かさは田舎と比べようがない。その分別の区分を聞いただけで気が遠くなるくらいだ。その点、離島でのゴミの分別収集はチョー緩い。燃えるもの、燃えないもの、空き缶やペットボトルの区分くらい。これから見ても都会に比べると環境意識が著しく低いと言っていいだろう。
しかし、それに反比例するかのように、都会の人々の暮らしは「地球環境を守る」ことから離れているように思える。都会の人々が数日滞在したあとはペットボトルの山である。健康意識も高いので飲み水はペットボトルだとかで、その空き容器の量たるやわが家の1年分かと思うほどだ。暮らしぶりもしかり。都会では今や食洗機は当たり前、クーラーも各部屋にあるとか。一方、田舎の人間が飲むのは水道水。健康意識もさほど高くないので塩素が云々など気にしない。クーラーもお客様用に一台あるという家が多い。一家におけるエネルギー使用量で言えば都会は田舎の数倍かも?
つまり、ちゃんとしたデータではないにしろ、これらの事実が「環境意識の高さ」が必ずしも「環境負荷の低減」即ち「地球環境を守る」をもたらすものではないことを示すと言っていいだろう。いや、それどころか、むしろ、環境意識の高さが資源の浪費に繋がっているようにもみえる。いや、それは私の中では確信に近い。
では、なぜ「環境意識の高さ」が「地球環境を守る」ことに結びつかない、それどころか悪化させる可能性があると私は考えるのか?次回はこのことについて述べていきたい。
