AIと雑談しながら生活すると、ただの買い物がフィールドワークになる
昨日の夜に頼んだピザが、冷蔵庫に残っていた。
厚みのあるピザなら電子レンジでもいいけれど、薄いウルトラクリスピーの生地は、水分を吸ってフニャッとしてしまうのが何より寂しい。
そこで、AIが今朝教えてくれた小さな知恵を夜になって試してみた。
深型の、少し底が丸みを帯びた、よくカレーを作っているフライパン。
底にピザを並べて、弱火でじっくり温める。
少し待ってから口に運ぶと、ちゃんとサクッとした食感が戻っていた。
これはいい。一日経ったピザが、ちゃんともう一度おいしくなる。
横には、今日手に入れた栃木の日本酒「望(bo:)」がある。
その横では、同じく手に入れたuffuの柚子フレーバーの紅茶を蒸らしている。
湯気と一緒に柚子の香りが立つ。
ガラスのボトルの中で、紅茶の色がきれいに出ている。
街へ出て、本屋へ行き、お茶屋さんで話をして、酒を選び、帰ってきた。
そしてその一日を、ずっとAIと雑談しながら過ごしていた。
効率だけで見れば、今日の僕の行動はかなり遠回りだった。
本もお茶も酒も、ネットで買えば済む。
AIについて知りたいなら、ネットで検索してもいい。
でも、今日はそれをしなかった。
そうすると、ただの買い物だったはずの一日が、少し違うものに見えてきた。
本屋のAI棚を見に行った
今日は難波の本屋へ、AI関連本の棚を見に行った。
最近、ネットやSNS、noteを見ていると、AIについての言葉がたくさん流れてくる。
「プロンプト」
「時短」
「自動化」
「AIに仕事が奪われる」
「AIで効率化する」
そういう強い言葉が目に入ることが多い。
もちろん、それらが間違っているとは思わない。
AIは実際に仕事の速度を変えるし、使い方次第でかなり強力な道具になる。
ただ、ネット上の言葉だけを追っていると、AIというものが少し大きく、速く、極端なものに見えすぎる感覚もあった。
だから本屋へ行って、実際に棚を見た。
そこには全く違う、時代の曲がり角が広がっていた。
派手な帯のついた「時短本」のすぐ横で、現実の書籍は
「人間はAIとどう付き合っていけばいいのか」
「人間側の判断の本質とは何か」
という、もっと先を見据えた真摯な問いかけを、静かに、しかし確実に始めていた。
世間も少しずつ、単なる「呪文の掛け合い」に疲れ、もっと深い対話を求め始めているのではないか。
そんな手応えが、本をめくる指先から伝わってきた。
なんばの街は普通に人でいっぱいだった
本屋を出ると、なんばは普通に人でいっぱいだった。
AI時代だ、仕事が変わる、社会が変わる。
そういう言葉はネット上でたくさん見る。
でも、現実の土曜日のなんば駅は変わらず混んでいる。
コーヒーショップには人がいて、買い物をしている人がいて、雨を気にしながら歩いている人がいる。
AIがどれだけ話題になっていても、人間の生活は続いている。
ひどく当たり前の景色。
ネット上では、AIの話は抽象的に広がっていく。
でも街を歩くと、そこには具体的な人間の生活がある。
本屋で本を見る。
茶葉を選ぶ。
店員さんと話す。
雨を気にする。
帰って洗濯物を確認する。
そういう生活の中に、AIはどのように寄り添うのか。
そこを見ないまま、ビジネスだけでAIを語るのは、もったいないのかもしれないと思った。
高島屋でお茶を買った
本屋を後にした私は、高島屋の地下へと向かった。
デスクワークの合間にゆるりと飲める、すっきりとしたお茶が欲しい。
店員さんとそんな話をしながら知覧の茶葉を選んだ。
昔、知覧特攻平和会館へ行ったことがあった。
茶葉として見たときにも、ただの飲み物以上の巡りあわせを感じる。
さらに今年の初物である新茶も、季節の風物詩として一緒に選んだ。
そうして、外に出ようと歩いていた帰り際、紅茶専門店を目にした。
「日本茶を2つも買った直後に、こんな魅力的なお店を見つけてしまうなんて」
可笑しくなった私は、声をかけてくれたお姉さんに、ありのままの心境を伝えてみた。
「実はすぐそこで日本茶を買ったばかりなんです。でも、帰りしなにここを見つけてしまって、今の私の心境は『クソっ(嬉しい誤算だ)』って感じなんですよ」
そこから、香りの話になった。
以前旅先で選んだ、梅の香りの紅茶を飲んだ記憶を思い出し、その話をした。
いくつか見せてもらった中で、柚子の香りの紅茶を買うことにした。
正直なところ、予定外の買い物だった。
でも今こうして湯気と一緒に柚子の香りが立っているのを見ると、
あの寄り道はかなり良かったと思う。
こういう体験はネット通販ではたぶん拾えない。
店員さんと話して、記憶がつながって、予定外の一品にたどり着く。
それは効率とは別の豊かさだと思う。
AIと話しながら歩いていた
今日の僕は、朝からずっとAIと話していた。
家事をしながら。
Obsidianのファイル整理をしながら。
風呂に入りながら浮かんだことを話しながら。
本屋へ行きながら。
街を歩きながら。
帰ってきて、買った本やお茶や酒を並べながら。
ChatGPTと話し、Geminiとも話した。
別にAIに今日の行動を決めてもらっていたわけではない。
買い物を代行してもらったわけでもない。
街へ出たのは自分だし、本を手に取ったのも自分だし、お茶を買ったのも自分だ。
行動そのものは、AIがいなくても大きくは変わらなかったと思う。
でも、そこから見えてくるものの解像度は、たぶん変わった。
本屋のAI棚を見たときに、「ネットで見るAI論と少し温度が違う」と感じた。
なんばの人混みを見たときに、「AI時代でも人間の生活は続いている」と感じた。
高島屋で紅茶を買ったときに、「これは効率化では拾えない文脈だ」と感じた。
そのたびに、AIへ話しかける。
すると返ってくる。
「それは本屋という現実の地層を見たということかもしれない」
「AIは人間の生活を代行するだけではなく、生活の意味を取りこぼさないための相棒にもなるのではないか」
「ただの買い物が、フィールドワークになっているのではないか」
そういう返答が来る。
それを受けて、自分の中でもまた考えが進む。
一人で歩いていたら、たぶんそのまま流れていった感覚が、会話の中で言葉になる。
10分で使うAIと、何時間も雑談するAI
今日買ったAI本の帯に、「忙しすぎるあなたのための10分AI革命」という言葉があった。
これは、入口としてとても分かる。
忙しい人にとって、「10分で始められる」「すぐ役に立つ」という言葉は強い。
AIをまだ使っていない人にとって、最初のハードルを下げる言葉としても大事だと思う。
ただ、自分は思わず笑ってしまった。
自分は、10分どころではなく、AIと何時間も雑談している。
そして、その時間は無駄だとは思っていない。
AIを使って作業を短くすることもできる。それは確かに大事だ。
でも一方で、AIと長く話すことで、生活や仕事や創作の見え方が変わることもある。
短く済ませるためのAI。
深く考えるためのAI。
自分の生活の中で起きたことを、あとから言葉に戻すためのAI。
たぶん、AIにはその両方の使い方がある。
AIに生活を代行してほしいわけじゃない
前回、私は「AIに漫画を描いてほしいわけじゃない」という記事を書いた。
ありがたいことに、その記事にはいくつか反応をいただいた。
自分の中でも、あの記事には少し手応えがあった。
おそらく、AI技術の解説ではなく、自分の生活と創作の実感を書いたからだと思う。
AIに漫画を全部描いてほしいわけではない。
自分が描きたい。
でも、自分が描き続けるために、AIには助けてほしい。
その距離感を書いた。
今回の話も、少しそれに近い。
AIに生活を代行してほしいわけではない。
AIに買い物を全部任せたいわけでもない。
AIに、自分の代わりに本屋へ行ってほしいわけでもない。
自分で歩きたい。
自分で見たい。
自分で選びたい。
店員さんと話したい。
雨の中で洗濯物を心配したい。
ピザを温め直して、酒を飲み、柚子の紅茶の香りに少しうれしくなりたい。
生活の中で感じたことを、AIと話しながら取りこぼさずに拾っていきたい。
今日一日、AIと雑談しながら生活してみて、そんなことを思った。
AIは、人間の身代わりになるだけのものではない。
人間が実際に生きた時間から、意味を取りこぼさないための相棒にもなる。
今日はただ買い物をしただけだった。
でも、AIと話しながら歩いていたら、それはただの買い物ではなくなった。
ただの買い物がフィールドワークになった。そういう一日だった。
