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「どこから見るか」で、同じ景色は変わる

夜に大きく見えた悩みが、朝には小さくなる

不思議なことがある。

夜、布団の中で考えごとをすると、悩みはやたらと大きく見える。取り返しのつかないことのように思える。ところが翌朝、コーヒーを淹れて一口飲むころには、同じ悩みが少しだけ小さくなっている。中身は何ひとつ変わっていないのに、だ。

変わったのは、悩みそのものではない。それを見ている場所だ。

夜の自分は、悩みにぐっと顔を近づけている。朝の自分は、少し離れたところから眺めている。同じものでも、どこから見るかで、大きさはまるで変わる。

これを私は「視座」と呼んでいます。

視座は、意見ではなく「立ち位置」

視座と視点は、似ているようで違う。

視点は「何を見るか」。視座は「どこから見るか」。前者は向きの話で、後者は高さと距離の話です。

たとえば、同じ失敗を——

  • 「今日」から見れば、頭を抱えるような事件になる。

  • 「10年後」から見れば、思い出せるかどうかも怪しい、小さな点になる。

事実はひとつ。なのに、立つ場所を変えるだけで、意味の大きさが変わってしまう。私たちは何かを「客観的に見ている」つもりで、じつはいつも、どこかの一点に立って、そこからの景色を見ているだけなのかもしれません。

いちばん高い視座は、「どうせ死ぬ」

私にとって、いちばん高いところにある視座は「人はどうせ死ぬ」という一点です。

物騒に聞こえるかもしれませんが、感覚としては逆です。この高さに立つと、多くのものが小さくなる。会議で誰が正しかったか。あの人にどう思われているか。数字のいくつか。——大事に見えていたものの多くが、「有限の時間」という高さから見下ろすと、驚くほど軽くなる。

以前、心の調子を大きく崩しかけたことがありました。渦中にいると、視座はどんどん低く、近くなる。目の前の不安に顔がくっついて、それが世界のすべてに見えてしまう。そこから、ほんの少しだけ高いところへ登り、「この不安は、10年後の自分にとって、どれくらいの大きさだろう」と眺め直す。それだけで、呼吸が戻ってくることがありました。

高く登るほど、本当に大事なものだけが残る。体裁や空気は、下界に置いてこられる。

——でも、高ければいい、というわけでもない

ただ、ここで断定したくないことがあります。

視座は、高ければ高いほどいい、というものではない。

「どうせ死ぬ」の高さからは、家族との夕食の笑い声も、挽きたての豆の香りも、子どもの背が伸びたことも、小さな点にしか見えません。遠くから眺めるだけでは、人生の手触りは受け取れない。

だから本当に必要なのは、高い視座を持つことではなく、視座を自分で選べることなのだと思います。

不安に潰されそうなときは、うんと高く昇って、それを小さな点にする。日々の幸福を味わうときは、うんと近くまで降りて、香りや温度を、そのまま抱きしめる。高さは、目的に応じて選ぶもの。固定するものではない。

毎朝、視座を戻す

私には、毎朝、視座を戻すための小さな習慣があります。

人によっては、それは祈りだったり、散歩だったり、深呼吸だったりするでしょう。何であれ、共通しているのは「昨日までの低い視座を、いったんリセットする」という働きです。

放っておくと、視座は勝手に下がっていく。近く、狭く、低くなる。だから毎朝、意識して少しだけ高いところへ登り直す。そこからもう一度、感謝できるものを数える。習慣とは、崩れた視座を毎日そっと立て直すための、静かな装置なのだと思います。

現場では、これが「目的から見る」になる

この「視座」の話は、仕事の現場では、もっと具体的な形になります。

デザインをレビューするとき、細部(色やフォント)から見るか、目的から見るか。近くから覗くか、高いところから俯瞰するか。どこから見るかで、直すべき場所がまるで違って見える。それは、人生で起きていることの、小さな縮図なのだと思います。

現場の解像度「デザインレビューで、最初に見るべき順番があります

問い

今日のあなたの悩みは、どの高さから見ていますか。

もし近すぎて苦しいなら、少しだけ登ってみる。もし遠すぎて味気ないなら、少しだけ降りてみる。世界を変えなくても、立つ場所を変えるだけで、見える景色は変わります。

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