「人による」という言葉が、どうしても好きになれない
「人による」という言葉が、どうしても好きになれない
最近、人と話していたり、テレビを見ていたり、ラジオを聞いていたりすると、「ん?」 ってなる言葉がある。
「人による」「時と場合による」って言葉だけど
この言葉を言われると、もう何も言えない。
その言葉は前提条件でそんな事はわかってる上で話しているのにその言葉を使うって、「もう、あなたとはそのことについて話すのをやめます。」ってことかなとも思ってしまう。
そりゃ世界は複雑で、社会現象やビジネスも、人間関係も簡単に割り切れるものじゃないから「条件次第」と言われると そりゃそうなんだけど・・。
それは思考停止やんと思ってしまう。。
“人による”は事実だが結論ではない
人によるは事実だと思うけど
コレは結論ではないと思う。
もうちょっと、「そのことについて話していこうよ」というメッセージでもあるし、もっと条件を増やしていけば、結論に近づけるんじゃないのか?
例えば転職したほうがいいかな?
→人による
→条件による
→ケースバイケースだよねー
なんて会話は その中に
年齢
スキルの汎用性
市場価値
貯蓄
業界
やりたいこと、人間関係
様々な条件があって それを話していくと
少しは結論に近づけるんんじゃないのかな?
そりゃ絶対コレが結論 という答えが出るわけではないことも
みんなわかったうえで話している。
曖昧さを受け入れることと、
曖昧なままで止めておくことは、全く違う。
評論と批評の違い
「人による」という言葉は、便利だと思う。
なぜなら、立場を取らなくていいから。
誰も傷つけない。
間違っても叩かれない。
未来で逆張りされることもない。
いわば、無風地帯の言葉だ。
ここで少し整理してみる。
評論は、情報を整理する行為だ。
全体像を俯瞰して、状況を説明する。
一方で批評は、立場を取る行為だ。
私はこう考える、と言い切る。
どちらも必要だ。
でも「人による」で終わるのは、評論ですらない。
ただの安全運転だ。
判断しないことは、中立ではない。
責任を回避しているだけだ。
それでも本当に場合によるケースはある
だからこそ「軸」を示せ
もちろん、本当に場合による問題はある。
医療の判断もそうだし、
教育の方針もそうだし、
人間関係もそうだ。
でも、だからこそ軸が必要になる。
たとえば、
・短期リスクを取る人には挑戦をすすめる
・安定志向なら今の環境を磨くべきだ
・資産があるなら実験できる
・守るものが多いなら慎重に動け
こうした軸を提示して初めて、
「人による」は意味を持つ。
軸がない「人による」は、
ただの煙幕だ。
断言する人が好きなわけではない
でも判断しない人はもっと嫌いだ
僕は、なんでも断言する人が好きなわけではない。
極論や決めつけは、たいてい雑だ。
世界はそんなに単純じゃない。
でも。
判断しない人は、もっと好きになれない。
世界が複雑だからこそ、
不完全でも仮説を立て、
立場を取り、
間違うリスクを引き受ける。
それが思考だと思っている。
「人による」と言う前に、
あなたの“人”は誰なのか。
あなたの“場合”とは何なのか。
そこまで踏み込んで、やっと議論が始まる。
曖昧さを盾にするのか。
それとも、不確実性ごと抱えて判断するのか。
思想は、そこに出る。
