三国時代ってそれほど漢民族オンリーの時代じゃないよという話
引き続き©蒼天航路15巻
この記事が本題です。前段の話はこちら。
そもそも「三国時代は(演義込みで)純粋な漢民族の時代とは言い切れない」という話をします。次の記事で。
上の方で「魏民族」「蜀民族」「呉王国」みたいなものが永続的に存続したわけではないと書きましたが、南北朝時代がどのように成立し推移したか。あるいは「蜀の地での割拠」というスタイルがその後どうなったか……なんて話にも触れたい。
三国時代と書くと「漢民族の群雄が最終的に三国に分かれて覇を争った時代」という側面が強調されますが、実は直後の晋代~隋唐に至るまでの異民族の活躍の種が蒔かれた時代。そして、後代の割拠政権群の地盤が用意された時代でもありました。
*タイトルから【AOE2DE】を外しました。ゲームと関係ない話しかしません。
前段: 漢時代までの異民族
戦国七雄の頃までに盛んに「長城」が築かれたのは北方異民族対策とされています。「史記」「戦国策」等にも、北方異民族とあるときは争い、またあるときは結び……という話がいくつも出てきます。前漢の武帝(在位 BC141-87)の頃にようやく匈奴との勢力差が逆転し、単于(ぜんう、匈奴の王)たちのあるものを服属させ、あるものを敗走せしめて西方のフン族の祖たらしめ……という時代が始まりました。しかし匈奴が衰退した隙間を埋めるように鮮卑、烏桓といった諸民族が台頭。また、更に古くからいるチベット系の氐・羌族も興亡を繰り返していました。大月氏のように匈奴に逐われて西域に住み着いたものもあります。
魏と異民族の関わり
魏の曹操(CaoCao/ツァオツァオ)といえば三国志きっての英雄ですが、実は異民族兵の活用を大きく進めた人物でもあります。背景にあるのは後漢末の人口減少。実人口というより戸籍上の人口が減り、徴税や徴兵が困難になった。魏の城主ユニテクに名前を使われた「屯田制」もその対策の一つで、兵士たちが平時には農耕を行い、いずれ定住できるようにしたものと解釈できます。曹操はいっぽうで、異民族の兵力を活用することを考え、実行しています。
匈奴
董卓が横死した直後の頃、曹操は南匈奴の王於夫羅と戦ってこれを打ち破ったという記録があります。彼はもともと黄巾の乱の鎮圧に派兵されるなど漢王朝に協力的だった部族の出。一時袁紹に服属していましたが、この時期を境に曹操陣営に鞍替えしたと見えます。195年没、弟の呼廚泉が後を継いで単于となりました。後述の晋の滅亡に関与した劉淵は於夫羅の孫とされています。
鮮卑傭兵
鮮卑は漢の健在な頃から、服属と離反を繰り返していました。曹操の時代に歩度根、軻比能といった人物が中心となって服属し、「一万余騎」「一万余戸」とあるのでかなりまとまった勢力として魏軍の一部を構成しました。曹操が留守の時に反乱を起こした者を鎮圧するなど、協力的な側面もあります。曹操の孫の曹叡の時代に彼らは離叛し、最後は仲間割れを起こして軻比能が歩度根を殺害。軻比能自身も魏の刺客に暗殺されますが、その弟が立てられて魏への服属関係は続いたようです。曹操は他にも鮮卑の複数の王たちを服属させていました。
烏桓鉄騎
烏桓も光武帝の頃から後漢に服属。鮮卑や匈奴等の北方民族の分断政策に使われていましたが、後漢末には蹋頓、楼煩らが台頭しています。曹操の宿敵であった袁紹が202年に没した後、遺児の袁煕・袁尚の勢力は徐々に衰退。彼らは烏桓の蹋頓を頼って逃げ込みましたが曹操はこれを討伐(白狼山の戦い)。その際に征服した「烏桓一万余りの落」を配下に組み入れてその後の戦役に動員しています(袁氏兄弟は遼東まで逃れるも最終的に滅ぼされました)。フィクションやゲームでよく「烏桓鉄騎」と呼ばれるのはこの兵力のこと。その後も、曹叡の時代にやはり数千人単位での服属者が出ています。
以上のように、魏は不足する人口や兵員を補うために異民族を積極的に国内に移住させ、軍事や内政に活用したことがわかります。
蜀漢と異民族
「南蛮王」孟獲
諸葛亮の七禽七縦で有名な孟獲は実は漢人豪族であって、演義やゲームに出てくるような羽飾りをつけたサンバおじさんではないことが知られてきました。なのでこの話からは除外。妻とされる「祝融」も伝説上の女神の名前。ただし、孟獲らが蜀漢の統治に対し叛逆し、現在の雲南省~ミャンマー北部に住む諸部族にまで反乱への参加を呼びかけたことは知られています。
諸葛亮の北伐と異民族
諸葛亮が五度の北伐のうち第三次で羌氐族(チベット系諸部族)と連携を試みたという話があります。
陳倉の戦いの直後の229年春、諸葛亮は陳式に命じて武都・陰平の2郡を攻めさせた。この地は北伐への通過地点として重要なだけでなく、同地に住む羌族など屈強な兵を取り込み、兵力増強を図る狙いもあった[2]。
「善玉」の蜀漢・諸葛亮が外患誘致のようなことをしたとは書きづらかったのでしょうが、実質的には異民族を煽動して魏の支配に対抗させようとした、と解釈してもおかしくないでしょう。その点では後述・演義の曹真のエピソードと同類です。なお北伐で諸葛亮に見出された涼州出身の姜維も、247年頃に隴西郡(現在の甘粛省東南部)に進出した際、当地の異民族を味方につけた、との記録があります。演義では「迷当大王」なる架空人物が登場し、姜維からの資金援助(賄賂)を受けて配下とともに魏に侵攻するが撃退された、という一幕も。
関羽の北伐(219年)とモンゴル?
おそらくこのあたりに触発されての創作かと思われるのが、蒼天航路での一幕。伏線として官渡の戦い(200年)に「あおいきば」と名乗るモンゴルの若者が登場します(ヘッダー画像)。物語終盤の219年に関羽が地盤の荊州から許都への北上を目論んだ時、この若者が北側から呼応するかのような描写がされます。また、曹操の晩年の白昼夢でもよく似た壮年の異民族が登場したり。

実際に関羽が異民族と交渉したり動員を目論んだという話は……ない。
曹真の五路侵攻作戦
魏の将軍曹真が230年の蜀征伐を計画した際に、異民族兵も動員して複数方向から侵攻しようとした、という話があります(参考: 演義第九十四回)。 西羌国の王である徹里吉(てつりきつ)は鉄車兵と称する戦車部隊を配下に率いさせて西平関*に侵攻しましたが、諸葛亮に撃退されて降伏したという。
*三國無双シリーズでも登場する、蜀の国境にある要害。余談ですが吉川英治の『三国志』では西平関に侵攻するのは「遼東の鮮卑」となっていて地理感がかなりおかしい。
このあたり、5月の新DLCで蜀漢のUUとして戦車が登場することの元ネタを感じます。残念ながら大幅にフィクションであるらしいのですが。
なお実際の歴史上において羌が中国王朝型の国家組織を形成したのは、上記の時代設定から約150年以上後の後秦(384年建国)が初めてである。
ともかく、蜀漢が割拠した益州(現四川省・雲南省を中心とする領域)は当時の中央政界から遠く、多くの異民族勢力が隣接している地域でした。
呉と荊蛮・山越
三国時代における呉は揚州・荊州を中心として長江流域以南を確保し、魏・晋に対して一定の存在感を示しました。ただし赤壁の戦いは史実ではそれほどドラマチックな場面ではなく、大軍で侵攻した曹操軍が兵站や衛生・風土病等の問題で撤退を選択した……というのが真相とする人も。軍船大炎上のような派手なシーンは、後代の鄱陽湖の戦い*がモデルではないかと言われています(*1363年。単発キャンペーンシナリオに登場)。
さて、呉の領域にはいくつかの異民族が居住しており、どちらかといえば抵抗勢力としての側面が強かった。
山間部の非漢民族である山越には、長く悩まされることになる。また、呉建国以前から居住していた漢民族は宗部・宗伍などと呼ばれ、呉は彼らの抵抗も排除しなければならなかった。宗部の中には山越と合流して抵抗を続けるものもいたので、この時期に山越と呼ばれた勢力を純粋な非漢民族と見なすことは出来ない。
ここでは何名かの著名人物を取り上げます。
厳白虎
YouTubeの某実況配信チャンネルで有名な"徳王様"。「厳虎」とも。実際には山越の頭目であったという。孫策に滅ぼされました。
沙摩柯
一部のゲームで低コストキャラとして人気を博した。劉備の最後の戦いとなった夷陵(222年)に従軍していた、荊州の蛮族(武陵蛮)の首長という。
黄乱
242年に三郡の山越族を率いて反乱を起こすが、鎮圧され配下の兵士は呉の兵役に組み込まれたそうです。
おまけ: 士燮一族と交趾
前漢の武帝は南越を制服して九郡を置きました。その一つ交趾(現ベトナム北部)へ士燮(137頃~226)が派遣されたのは、後漢末の霊帝が健在の頃(184年)。士燮は当時既に40代後半でしたが、この地を実によく治め、40年以上割拠。ベトナムの歴史上でも、文明をもたらした重要人物として位置づけられているのだそう。なお三国志末期の女性武将キャラとしてよく登場する趙氏貞もこの地の出身。士燮没後に当地を併合した呉に対し、兄たちとともに248年に反乱を起こしますが、鎮圧されて亡くなったという。
その後の諸勢力
263年、三国の中で蜀漢がまず魏によって滅びます。しかしその時にはすでに魏の実権は曹操の子孫から司馬氏へと移っていました。265年に禅譲により魏も滅び、晋が成立。この晋が280年に呉をも滅ぼすことにより、三国時代が終焉して中国が再統一されました。しかし平和は長くは続きませんでした……
北朝の歴史の概観
晋は後継者争いの八王の乱で苛烈な内乱に突入(291~306)。この時に晋の有力者である皇族たちは、諸民族を傭兵として引き込んでしまいます。その結果として匈奴の劉淵の漢(前趙)を皮切りに、匈奴や羯、鮮卑、羌・氐といった諸民族の国家が乱立。晋は317年に完全に滅亡し、一族が江南に逃れて「東晋」を再建します。これ以後、317年に滅亡した方を「西晋」と呼ぶ。
北部中国は五胡十六国時代に突入。氐族の建国した前秦の苻堅が一時的に北部を統一し、余勢を駆って東晋へ侵攻。全土統一を試みたのが淝水の戦い(383年)で、これは「勝者と敗者」DLCキャンペーンで単発シナリオに追加されています。淝水の戦いでの敗北を機に北部中国は戦乱の時代に逆戻り。439年に北魏(鮮卑)が再統一して「南北朝時代」が始まったとされます。
本当に中国全土が再統一されるのは隋の楊堅により589年になってから。隋唐の皇帝たちは互いに近い姻戚ですが、彼らの出自も実は鮮卑系の武川鎮軍閥である事がわかっています。なお、宋の趙匡胤も異民族の突厥系。宋も北方民族の圧力を受け、遼(契丹)・金(女真)との南北分割時代が元(モンゴル)の出現まで続きました。明(14世紀~)の朱元璋*が漢民族としては実に1000年ぶりに統一するまで、実は中国大陸は異民族国家が統治していたともいえるのでした(*漢の高祖と同じ沛の出身)。
この異民族による北部中国支配の大元を作ったのが曹操の傭兵政策であることを考えると、じつは「曹魏」というのは単なる45年で滅びた短命王朝であるのみならず、騎馬民族による中国支配の先鞭をつけたという意味では1000年以上の命脈を保ったといえるのではないか……? というのが本稿のテーマの一つです。
南北朝時代の成立
東晋のその後です。一時は有力者の桓温が長安侵攻や洛陽奪回を行って盛強でしたが鮮卑系の後燕に敗退。逆に、北部を統一した苻堅の南征を迎えますが、これは謝玄らが撃退に成功。その後、有力者への禅譲により王朝は何度か交代。隋が陳を滅ぼすまで存続した南朝(宋、斉、梁、陳)は東晋の後継国家ではあるが、孫呉の築いた基盤を受け継いでもいます。このため【孫呉・東晋・宋・斉・梁・陳】をまとめて「六朝」と呼んだりします。

こういう背景を見ると、実は「呉」は(長く数えても)58年で滅亡したとはいえ、300年以上存続した「南朝文明」の基盤であり、南宋まで含めると1000年以上。さらに後の明が興る土台を用意した、とも解釈できるわけです。だから「『呉』は文明とは呼ぶに値しない」というのも揺らいでくる。
蜀に割拠した諸勢力
五胡十六国時代、氐族の一派である巴氐族は、旧・蜀漢の領域に「成漢(後蜀)」を建国。また、上述の北魏は439年(または442年)に河北を統一してからおよそ100年後に東西分裂(東魏と西魏)。西魏の後継国家である北周の地盤には巴蜀の地も含まれていました。北周は、東魏の後継国家の北斉を滅ぼし、陳へ侵攻する直前で有力な皇帝が死去。後継者に人を得なかったため隋の楊堅に取って代わられます。

唐の滅亡後、五代十国時代(10世紀)には四川の地に前蜀・後蜀が建国されて文化面で大いに栄えました。また、明末の戦乱期(17世紀)には、秦良玉らが四川の農民反乱鎮圧に功がありましたが、悪名高い張献忠が侵入して四川を掌握。大西皇帝を称し、成都を西京として漢中への進出を試みましたが一代で滅びました。
巴蜀の地は単独で中華統一の原動力になることはなかったものの、後漢末の劉焉・劉璋父子の時代から劉備による蜀漢の建国を経て「要害に囲まれた割拠の地」としての地位を確立。これもまた中華の長い歴史で重要な地位を占めるものでした。思えば中国共産党も延安*での割拠から再起を果たして内戦に勝利したのでした(*陝西省・長安の北に位置)。
以上、三国時代の割拠が後代の中国史に与えた影響、という切り口から「魏呉蜀」のスピリッツの継承について考えてきました。もちろん学術的な根拠はない与太話ですが、一歴史ファンの放言とお聞き流しください。
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