【AOE2DE】文明別メモ(27)ゴート
蛮族文明シリーズ第n弾。ゴートは初代AOKからある歩兵文明最強の一角だがそれに限らない。序盤の狩猟系ボーナスや領主in前後の農民数アドバンテージを活かして斥候で先手を取りたい。そこからユニークユニットのハスカールや安価な剣士につなげるのが王道。他に、意外にも砲撃手や大砲が使える。
文明特性と基本戦術
「歩兵文明」。時代進化につれて強力になる歩兵のコストダウンと、建物に対する攻撃力アップ。更にユニテクでUUのハスカールが戦士小屋からも出せるようになるのが大きく、帝王ユニテクも重ねるとものすごい数のハスカール(や剣士、矛)が出てきて手が付けられない。いっぽう、石壁がなく(最初は柵すらなかった)防衛面は弱体。歩兵を出すにしても畑と金鉱/交易がしっかり確保できていなければ回らないことには注意。
ユニークユニットと天敵
ユニークユニットのハスカールは足が速く射手に強い歩兵ユニット。作成コストは城主56F26G、帝王52F24G。訓練時間は基本13秒だが、ユニテク等を駆使すると最終的に戦士小屋から5秒で出てくる。EL化コスト(1200F550G)は重めだが、基礎射程防御が6→8へ上がるので出来るだけ優先したい。天敵は、騎士と剣士。槍を混ぜられやすいので剣士と砲撃手でカウンターするのがよい。またはスコーピオン。
内政面
内政ボーナスは序盤だけ。
機織りが一瞬で終了する。通常は機織りは領主進化の直前で押すので、その分農民を1人多く出すか、1人分早く進化できることになる。マヤの序盤ボーナスとほぼ同じ。町の人の、野生のイノシシ類(象・サイを含む)に対する攻撃力+5。ダメージ計算が変わるので、TC矢は使わないほうが良いかもしれない。2025年8月アプデで削除。
農民が狩猟肉を50運搬できる。鹿やイノシシ肉を獲る時の格納タイミングに注意。
狩猟された動物が20%長持ちする……額面340のイノシシ肉が約365獲れる(通常文明は304程度)。
テクと出せないユニットのメモ
文明ボーナス
暗黒/領主/城主/帝王の時代に歩兵のコストが‐15/20/25/30%
2025年4月のアップデートで数字が微調整された。詳しい数字は割愛するが、暗黒民兵Rから終盤の帝王戦までずっと有効で強力。
*剣士作成コストの試算結果。確かに大差ない……?
ジェネリック: 60F20G/補給で45F20G → パッチ後: 50F20Gで固定
旧ゴート: 領主45F15G/城主42F14G/帝王39F13G (補給はもともとなし)
→ パッチ後: 40F16G/38F15G/35F14G
領主/城主/帝王の時代に歩兵の建物への攻撃力+1/+2/+3
「放火(対建物+2)」研究不可の代わりにこれがある。従来は城主の時代テクだった放火が、領主で半分、城主進化で自動&無償、帝王では1.5倍と思えば十分。
帝王の時代に人口スペースが+10
AOKが人口上限50~75を想定したゲームであったことを考慮すると、人口上限+10or15%でも良いのでは、とも考えられるが今更帝王のゴートを強化する理由もないのでこのままである(と推測)。
チーム ボーナス: 戦士育成所の作業速度+20%
チームボーナスとして役立つのは槍やコンドティエーレを出すときくらい。
ユニークテクノロジー
城主ユニテク: 無秩序(450F250G)
ハスカールが戦士育成所で訓練可能に。フンの城主ユニテクと同類。ハスカールは主力ユニットなのでぜひ研究しておきたい。
帝王ユニテク: パーフュージョン(皆兵)(400W600G)
戦士育成所の作業速度が+00%増加。フランクの帝王ユニテクと同類だが、その分小屋を多く建てればよいという話でもある。
鉄工所テク
鉄工所テクは歩兵鎧3、馬鎧3がそれぞれ研究不可。
出せないユニット・使用不可テクノロジー
戦士小屋……近衛剣士、矛槍兵が出せるがギャンベゾンなし。放火がないのは上述の文明ボーナスゆえ。
弓小屋……重石弓アップグレード不可。重石弓は出るが弓懸もパルティア戦術もないので主力にするのは難しい。
馬小屋……近衛騎士アップグレード不可。重騎士、ハサーとも鎧3がないがほぼフルアップ。戦況によっては(重)騎士を主力にしても良い。
兵器小屋……白ラム、破城投石機が使用不可。また、攻囲技術者なし。大砲は使える。
聖職者……贖い&活版印刷の他、償いや異端が研究不可。使い勝手は悪い。
学問所……弾道学、迎撃用窓、化学の他に研究できるのは石工技術&建築学と火砲学のみ。フン、クマンと並んで塔のアップグレードができない3つの文明の1つ。また、石壁がない。したがって強化壁もない。
内政テク……金の掘削が研究不可
海軍……3船種ともアップグレードでき、キャノンガリオン船はないが化学研究不要でドロモンが出せる。乾ドックがないが造船技術あり。サイフォン・焼夷兵器も使える12文明の1つ。詳細は割愛。ゴート族は東ローマ領域で船舶を奪っての略奪行を試みたことがあり、その要素か。
戦績・対策
キャンペーンシナリオ等
アラリック(在位395-410)のキャンペーンシナリオ全5戦がある。他に操作可能なのはガイセリック(ヴァンダル/アラン族)。中世前期の多くのシナリオで脇役として登場。アッティラ(フン)の5戦目、カタラウヌムの戦いでは両陣営に分かれている(後述)。ターリク・イブン・ズィヤード(ベルベル)のイベリア征服行ではやられ役筆頭。なお、スラヴやポーランド等の実装前はそういった役を割り当てられたりもした。
参考動画
2024年5月版。
2025年4月のアップデートで歩兵周りのボーナスが変更されたことに注意。
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歴史のうんちく
建築物や文字のスタイルであるゴシック(Gothic)に名を残す。もとは「野蛮な」という意味で用いられはじめたというが、ゴスロリなどはむしろ「装飾過多」のニュアンスも持っているかもしれない。ゴス (サブカルチャー)の項目も参照。
ゴート族前史
ゴート族が初めて文化的にまとまった集団を形成したのは1世紀中頃、現ポーランド北部に当たるポモージェ県等においてであるとされている。かつてはスウェーデンのゴットランドが起源とする説もあったが現在の学説は否定的。3世紀に入ると中心地はポーランド南東部~現ウクライナ北部へ移動。当時のポーランド北部は砂地で耕作に適しておらず、また交易の便を求めて南下したものと考えられている。3世紀なかばのローマ帝国の軍人皇帝時代には盛んに侵攻して、ひとまずは撃退されている。はじめに「ゴート族」「ゴート王国」があって東西に分裂したのではなく、最初から「東ゴート族」と「ヴィジゴート族(いわゆる西ゴート族)」があったと考えるほうが実情に近い。
西ゴート
西ゴート族とは、およそ12に分類される多様なゴート系部族のうち少なくとも3つ以上からなる集団である。フン族に圧迫されたゴート族のうち、370年代にローマの庇護を求めてバルカン半島北部に居住するようになったものが有名。「善良な」を意味するゴート語の接頭語をつけてヴィジゴートと呼ばれた……のだが、10年も経たないうちにフリティゲルン(英語版wikipedia)らに率いられて反乱。ハドリアノポリスの戦い(378)で時のローマ皇帝が戦死するほどの散々な結果に終わっている。西ゴートの初代王といわれるアタナリック(英語版wikipedia)はこれとはまた別の勢力の指導者で、381年に東ローマ皇帝との間に友好条約を結んだ。ヴィジゴートはその後「東ゴート」よりも西方に王国を建てたので漢字圏では西ゴートと呼ばれる。英語ではVisigothsであって「Western」要素はない。
アラリックの時代
アタナリックの後継者となるアラリック1世(在位395-410)は、東西ローマ皇帝が対決したフリギドゥスの戦い(394)でローマの将軍スティリコ*(365-408)の指示のもと東ローマ皇帝側で参戦(キャンペーンシナリオの1戦目)。しかし見返りが乏しかったことから、東ローマ領内であるギリシアの古都市(スパルタやアテネ等)を破壊して回った(2戦目)。401-08年にかけてはゴート族の別の王のひとりラダガイス(英語版wikipedia)や、アラリックの義弟アタウルフらとともにイタリア半島への侵攻を試みるが、ことごとくスティリコに撃退された。しかし猜疑心の強い皇帝らがスティリコを配下の兵もろとも処刑したため皇宮のあるラヴェンナは無防備になってしまい(3戦目)、410年には都市ローマでも大々的な略奪を行った(4戦目)。
*スティリコはもともと東ローマ皇帝の臣下だが、皇子を西ローマ皇帝位につけるために傅役のようにして送り込まれていた。
アラリックらはその後北アフリカへの遠征を企図するも頓挫して死去。アタウルフら後継者たちが南仏のナルボ(現ナルボンヌ)、トロサ(現トゥールーズ)、さらにはピレネー半島を越えてヴァレンシアといった諸都市を征服して西ゴート王国を建国する基礎を築いた……という筋立て(6戦目。史実とはやや異なる)。ライバルとして登場するサルス(?-412or3)は一貫して西ローマに仕えたゴート人の将軍で、最終的にアタウルフに敗北して処刑される。
カタラウヌムの戦いとその後
5世紀前半の西ローマ滅亡前夜は非常に乱脈で語るのが難しい。西ゴート視点に絞ると、上述のサルスの弟であるシゲリックが仇を討って王位に就くも7日で暗殺される。アタナリックの子ともされるワリアが後継だが彼も在位3年ほどで死去。
*なお、西ローマ帝国末期に皇帝位を盛んにすげ替えて国政を壟断したリキメルは上述のワリアの甥または孫とされる。
リキメルはそれほどの悪人だったのか?(英語)
アラリックの息子または婿とされるテオドリック1世(在位418-451)が王位に就く。それまで軸足を置いていたピレネー山脈以北のガリア地方から、イベリア半島へと勢力を拡大したのが彼である。その過程でローマの将軍アエティウス(391?‐454)とはしばしば対立したが、アッティラ率いるフン族の勢いが強くなりすぎ、また西ゴート王国の本拠地ガリア地方まで脅かすに至って利害が一致。協力してアッティラとの決戦に挑んだ(カタラウヌムの戦い、451)。テオドリックは奮戦の末戦死。後継の息子たちは長男がアエティウスに暗殺され、ついで次男は四男エウリックに暗殺される。このエウリックの家系から数代の王が出るが、東ゴートのテオドリック大王の外孫(後述)が王位に就けられたのを境に、やがて東ゴート出身の将軍やゴート貴族の家柄へと王位は移っていく。
西ゴートの滅亡(8世紀初)の経緯についてはベルベルの記事も参照。なお、AOKリリース時にはスペインが存在しなかったため、ゴートに後のスペイン が仮託されていた、という説がある。8世紀までに滅亡した文明なのに大砲や砲撃手を使用可能である理由だとか。
ガイセリック
ヴァンダル/アラニの王ガイセリック(在位428-477)はゴート族とは別の部族を率いていたが、ゲーム中では便宜上ゴートとして扱われる。彼はフン族の圧迫から最も遠方となるアフリカ属州まで逃れてヴァンダル王国を建国。カタラウヌムの戦いにはフン側で参戦したともいう。その後アエティウスがスティリコ同様に皇帝に暗殺されると、イタリア半島へ上陸。史上何度目かのローマ略奪(455)を敢行したことで知られる。西ローマ帝国の滅亡を見届けて死去。彼の征服行は「勝者と敗者」DLCの単発キャンペーン(同名)で追体験可能。
スティリコやアエティウスの最期は、東洋では南朝宋の檀道済(?‐436)と比較ができる。彼も先帝劉裕の遺言のもと若年の皇帝を支えて北魏と対峙し軍功が多かったが、有能な私兵集団を抱えていたこともあり文帝の猜疑心の犠牲となった。北魏は早速南征をはじめたという。国家の大黒柱が無闇に殺されて危機を招くのは5世紀の亡国に共通している。
東ゴート
東ゴート族(オストロゴート)は、ゴート族の中でもドニプロ川の東側に住んだグループを指す。「Austrogoti」(本来は「南のゴート」の意)が訛って「Ostgote」すなわち「東ゴート」に変化した。
西ゴート族と違いこちらは早くからフン族に征服され、生き残りはフン族とともに行動するようになった。カタラウヌムの戦いのフン側で東ゴート族が参戦しているのはそのためである。アッティラ没後は早々にフンの影響下から脱し、パンノニア(旧ユーゴスラビア北部にあたる)で勢力を蓄えていた。こちらにもテオドリック(454-526、後の大王)が登場するのでややこしい。彼は当時の有力者の子息で、東ローマ帝国首都のコンスタンティノポリスで人質となっていたが、他の年長の有力者の死去に伴い15歳で帰還して司令官の一人となる。翌年に戦功を挙げたため配下から王として推挙された。ラノベの主人公かな? 時の東ローマ皇帝ゼノン(在位474-91)との軋轢の帰結として487年、西ローマ帝国領域担当の副帝の地位を獲得。489-93年のイタリア遠征で当時の支配者オドアケルを打倒し、実質的に東ゴート王国を建国した(正式に成立したのは497年以降)。テオドリックは東ローマ帝国の宗主権を認めつつ、フランクやヴァンダル、西ゴートその他と通婚して勢力を扶植。特に西ゴート王国については外孫アマラリックを王位に据えることに成功するなどし、西ローマ帝国領域にある諸王国の盟主となった。また、本拠地ラヴェンナだけでなく旧都ローマのインフラ整備にも熱心であった。しかし多くの同族と同様にアリウス派の信者であったことから晩年には東ローマのカトリックとの対立の種が生じる。そしてそれは次代にユスティニアヌス1世によるゴート戦争へとつながっていく。ラヴェンナにあるテオドリックの霊廟は世界遺産に指定され、今でも見ることができるという。これが民族の象徴のモチーフ。

ゴート戦争
このローマ=ゲルマン共生関係が崩れてイタリア半島が完全に衰退するのは、6世紀の東ローマ皇帝ユスティニアヌス1世によるゴート戦争を境とする。この時、戦略の一貫性の欠如から断続的に20年に渡って戦場にされたことが決定的な打撃となりイタリア半島は荒廃。ローマ市も多くの餓死者、離散者を出し人口激減してほとんど廃墟となった。
ローマ文明の記事では数行でまとめてしまったが、ゴート戦争の背景にはまず上記の宗教的対立があった。そして戦いが凄惨なものになったのは他にも理由がある。以下に記す。参考: 松村劭の著書いくつか。
・前段のベリサリウスによるヴァンダル王国攻略がいとも簡単に終わってしまった。
・そのためと、皇帝ユスティニアヌス1世の猜疑心の強さから当初7,500人の兵しか与えられなかったこと。戦役全体を通じて兵数が足りないために力攻めではなく包囲による兵糧攻めが多用され、餓死者や疫病による死者が多数発生した。
・サーサーン朝との戦争でベリサリウスと子飼いの兵たちの戦術的練度が極まっていたこと。また、ベリサリウスには新兵訓練・活用のノウハウも蓄積されていた。このため少数の兵でも、テオドリック大王時代の平和に慣れた東ゴート軍に勝ててしまった。
・都市ローマが数回にわたって攻略され、防衛時に弱点となりうる水道インフラ等を双方が破壊した。
・ベリサリウスが一度ならず更迭され、後任となったアルメニア人の宦官ナルセスも軍事的に有能であったが、指揮系統が二分されて戦略が一貫しなかった。またナルセス含め東ローマから派遣された官僚らによる、占領地からの徴税が苛烈であった。
テオドリック大王の死後、孫のアタラリックが王位に就きその母のアマラスンタ(テオドリックの娘)が摂政となっていた。しかしアタラリックは早々に病死。アマラスンタの従兄弟テオダハドが共同統治者となり、のちにアマラスンタを暗殺。これがユスティニアヌスによる介入の口実となった。ベリサリウスの遠征軍が上陸する中、テオダハド自身も在位2年足らずで暗殺され、将軍ウィティギスが後継となる。彼は都市ローマを放棄、北イタリアで抵抗を試みるが540年にラヴェンナが陥落。国家としての東ゴートは一旦消滅する。しかしベリサリウスが任務完了として召還されたため、541年にトーティラのもとで東ゴート族が再起。ローマを迂回するなど戦術の巧みさもあって南イタリア諸州を制圧、ナポリの攻略にも成功する。ベリサリウスが544年に戦線復帰するも戦力は不十分で、546年にローマは再び東ゴートの手に落ちる。547年、550年と都市ローマはキャッチボールのように主を替え、その度に荒廃が進んだ。
最終的にベリサリウスは再び更迭され、ナルセスが改めて総司令官となる。彼は552年にトーティラを敗死させ、新王のテーイアも翌年初までに戦死して組織的な抵抗は終焉した。多くの兵士がフランク王国に亡命。最後の反乱も562年に鎮圧されたのだった。重税に加え、559年から562年にかけて発生したペストの流行とそれに続く飢饉によってローマ市だけでなくイタリア全土において都市部が衰退。農村への移住が進んだという。568年のランゴバルド族の侵入がとどめとなった。200年近く経った8世紀ころになってようやく人口と経済面での回復の兆しが見られるようになったという。以下はイタリアの歴史に譲ることとする。
