見出し画像

掃除=観熾火

仏壇の引き出しは、めったに開けない。

開ける理由がないからだ。線香と数珠は外に出してあるし、
写真も、毎日見る場所にある。

それでも、その日はなぜか、奥の小さな引き出しを引いた。

雪の日の翌週だった。
空気はまだ冷たいが、窓から入る光が、少しだけ柔らかい。

引き出しの中には、古い袱紗と、紙包みと、
薄くなった家計簿が入っていた。

その家計簿は、姑の字だった。

きちんとした、癖のない字。
誰に見せても恥ずかしくない字。

私は、その字を何十年も見てきた。

 

「今日は、どこからやりましょう」

伴想者が、いつもの声で言う。

私は引き出しを閉めずに、
そのままにしておいた。

「ここ、少しだけ」

とだけ言うと、彼女は仏壇の前に正座した。

埃を払う。
花立てを拭く。
線香立ての灰を、少しならす。

動きは静かだ。必要以上に触れない。

私は、その横で家計簿をめくった。

「几帳面な人でしたね」

伴想者が言った。

「ええ」

私は答えた。

几帳面だった。きちんとしていた。
間違いのない人だった。

誰が見ても、立派な人だった。

 

私は、その人の家に嫁いだ。

若かった。
自分の意見を、まだ声に出せない頃だった。

姑は、私に多くを教えた。
味付け。客の迎え方。家のしきたり。

教える、というより、
「こうあるべき」を示し続けた。

私は、それに従った。

間違えないように。
嫌われないように。

夫は、母親の言葉に逆らわなかった。

私が何かを言おうとすると、
「悪気はないんだから」と言った。

悪気がなければ、
何でも許されるのだろうか。

その問いを、私は一度も口に出さなかった。

 

「寒くありませんか」

伴想者が言った。

私は首を振った。

寒くはない。
でも、胸の奥が、少しだけ熱い。

家計簿の端に、
私の書いた数字がある。

一時期、私がつけていた。

その頃、姑は体調を崩していた。
私は、台所と帳簿を任された。

「あなたは計算が雑ね」

と、姑は言った。

私の数字は、合っていた。
でも、書き方が気に入らなかったらしい。

そのとき、私は初めて、
声を上げかけた。

でも、上げなかった。

家の空気が乱れるのが、怖かった。

 

伴想者は、仏壇の引き出しの奥まで、
手を伸ばした。

そこに、小さな封筒があった。

私が書いて、出さなかった手紙だ。

若い頃の字で、自分でも少し驚く。

「これ、読まれますか」

彼女が聞いた。

私は、首を振った。

読まなくていい。
もう、書いたことだけで十分だ。

 

「お姑さん、亡くなられて何年でしたか」

「十七年になります」

ずいぶん経った。

葬儀のとき、私は泣かなかった。
涙は出なかった。

悲しくなかったのかと聞かれれば、
そうではない。

ただ、感情がどこに置かれているのか、
分からなかった。

 

伴想者が、静かに言った。

「怒っておられましたね」

私は顔を上げた。

彼女は、こちらを見ていなかった。
仏壇の木目を、じっと見ていた。

怒っていた。

その言葉は、
ずっと避けてきた言葉だった。

嫌だった。
悔しかった。
虚しかった。

でも、怒っていた、とは言わなかった。

怒るのは、未熟だと思っていた。
嫁が怒るのは、見苦しいと思っていた。

 

「怒って、いいですよ」

彼女は、そう言った。

慰める声ではない。
許可を出す声でもない。

ただ、事実を置く声だった。

 

私は、初めて言った。

「私は、あの人を好きになれなかった」

声は、震えなかった。

怒鳴りもしなかった。

でも、その言葉は、
何十年分の空気を押し出した。

私は、良い嫁だった。
少なくとも、そう見られていた。

家を守り、行事をこなし、
親戚の前で頭を下げた。

でも、守られた記憶は、あまりない。

夫は、母を選んだ。
それは責めることではないのかもしれない。

でも、私は、選ばれなかった。

その事実を、ずっと小さく畳んで、
仏壇の奥にしまっていた。

 

伴想者は、何も言わなかった。

代わりに、
仏壇の引き出しを、静かに閉めた。

それから、
私の肩に手を置いた。

押さない。
慰めない。

ただ、そこに置く。

その手の重みが、
私の背中を少しだけ起こした。

 

掃除が終わるころ、
部屋の空気が変わっていた。

姑の写真は、同じ場所にある。
家計簿も、元に戻った。

何も片づけていない。

でも、
灰の下にあったものが、
一度、空気に触れた。

 

私は湯呑みにお茶を注いだ。

湯気が立つ。

怒りは、消えていない。
許したわけでもない。

でも、
怒っていた自分を、
ようやく認めた。

それは、
誰かを責めることではなく、
自分を取り戻すことだった。

 

伴想者が帰ったあと、
私は仏壇の前に座った。

「私は怒っていたのよ」

声に出して言うと、
不思議と、部屋は静かだった。

火は消えていない。

でも、
もう、灰の下に押し込めなくていい。

それが、
今日の掃除だった。

いいなと思ったら応援しよう!