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現代インターネットでの飢饉は「注目」への飢饉だ

ねえ、オタクくん。最近「バズりたい」とか「フォロワー増やしたい」とか思ったことない?

または、数字を持ってる人がなんか羨ましくなったり。

あたしね、それって実は"飢饉"と同じ構造なんじゃないかって思うんだよね。

今回は柳田國男の民俗学と、インターネットの「注目」について話していくよ。
さらに「民俗学」の視点からそれを解決できるか考えてみるよっ


🌾 日本はずっと、飢えてた

まず歴史の話から。

日本ってね、長い間飢饉に苦しめられてきた国なんだよ。

 布川の町に行ってもう一つ驚いたことは、どの家もツワイ・キンダー・システム(二児制)で、一軒の家には男児と女児、もしくは女児と男児の二人ずつしかいないということであった。私が「兄弟八人だ」というと、「どうするつもりだ」と町の人々が目を丸くするほどで、このシステムを採らざるをえなかった事情は、子供心ながら私にも理解できたのである。
 あの地方はひどい饑饉に襲われた所である。食糧が欠乏した場合の調整は、死以外にない。日本の人口を溯って考えると、西南戦争の頃までは凡そ三千万人を保って来たのであるが、これはいま行われているような人工妊娠中絶の方式ではなく、もっと露骨な方式が採られて来たわけである。あの地方も一度は天明の饑饉に見舞われ、ついで襲った天保の饑饉はそれほどの被害は資料の上に見当らぬとしても、さきの饑饉の驚きを保ったまま、天保のそれに入ったのであろうと思われる。
 長兄の所にもよく死亡診断書の作製を依頼に町民が訪れたらしいが、兄は多くの場合拒絶していたようである。
 約二年間を過した利根川べりの生活で、私の印象に最も強く残っているのは、あの河畔に地蔵堂があり、誰が奉納したものであろうか、堂の正面右手に一枚の彩色された絵馬が掛けてあったことである。
 その図柄は、産褥の女が鉢巻を締めて生まれたばかりの嬰児を抑えつけているという悲惨なものであった。障子にその女の影絵が映り、それには角が生えている。その傍に地蔵様が立って泣いているというその意味を、私は子供心に理解し、寒いような心になったことを今も憶えている。

柳田国男「故郷七十年」(青空文庫版

江戸時代から明治にかけて、
飢えることは農民にとって常にすぐそこにある現実だった。

柳田は産まれたばかりの我が子を、母親が直々に殺そうとしている絵馬を見て飢饉の悲惨さに心を痛めたんだね。
自分が8人兄弟だというとびっくりされるほど、布川の町は子殺しをしないといけないほどの飢餓だった。

そして、柳田も飢饉にあった経験がある

饑饉といえば、私自身もその惨事にあった経験がある。その経験が、私を民俗学の研究に導いた一つの動機ともいえるのであって、饑饉を絶滅しなければならないという気持が、私をこの学問にかり立て、かつ農商務省に入らせる動機にもなったのであった。
 北条町にいた明治十八年のことである。それがおそらく日本における饑饉の最後のものだったろう。私は貧民窟のすぐ近くに住んでいたので、自分で目撃したのであるが、町の有力な商家「余源ようげん」をはじめ二、三の家の前にカマドを築いて、食糧のない人々のために焚き出しをやった。人々が土瓶を提げてお粥を貰いに行くのであるから、恐らく米粒もないような重湯であったかと思われる。約一カ月も、それが続いたように憶えているから、よほど大きな饑饉だったのであろう。私の母親も用心をして、人のうらやむようなものを食べてはいけないと、近所の人づきあいの配慮もあったのであろうか、毎日私たちもお粥を食べさせられたのであった。

柳田国男「故郷七十年」(青空文庫版

柳田が民俗学をはじめた動機のひとつは、この飢饉の経験なんだね。

じゃあ、どうすればよかったと考えたか。

答えは単純で──

一人ひとりが、自分の土地で生産力を上げるしかなかった。

でもそれって、上から命令されてできるもんじゃないんだよね。


📖 柳田國男が本当に作りたかったもの

柳田國男は、民俗学の父、って言われてる人なんだけど、
実はもともと農政省の官僚だった。

お役人さんが、なんでそんな庶民のこと見るの?

って思うじゃん。

これがめちゃくちゃ面白くて──

柳田が目指してたのは「公民」を育てることだったんだよね。
晩年に社会科の教科書の作成にも関わったらしい。

その目的は、選挙で自分でちゃんと判断できる人を育てたかったとのこと。

 このような公民教育への柳田の関心は,柳田が朝日新聞社論説委員を辞任した 1930年に着手し,翌1931年1月に出版した『明治大正世相篇』においてより鮮明である。

 柳田は,この著作の終章,「生活改善の目標」で次のように記している。 「以前は祈願信念のたゞ一つの力にしか頼れなかったのであるが,現在は教育がまだ幾つかの機会を供与する。果して心身の発達が能く一生の覿難に堪へるだけで無く,更によく疑ひ又よく判断して,一旦是と信ずれば之を実行するだけ の,個人の力といふものを養ふことが出来るかどうか。然り確に,と此間に答ふる者が無い以上,いつ迄経っても親々はその苦闘を中止せぬであらう。現代の教育は自らも此欠点を意識して,別に成人教育なるものに補充を必要としたり,も しくは公民教育の追加を試みようとして居るのは,乃ち亦今日の小学校が,児童を人とするのに必ずしも万全で無いことを,弘く世の父母と共に憂ひて居る兆候である。」
(略)

 柳田の郷土研究における公民の育成の基本的なねらいは,このように公民教育を強く意識し,普通選挙法の施行に伴い選挙民としての意識を滴養していこうという意識を向上させることであった。そして,柳田のそのような意識は,国家主義的な選挙粛正運動によって,さらに,具体化されたのである。しかし,柳田の言う「公民」は,当時の選挙粛正運動の制約を受けた公民教育の目指すところ とは相違して,政治に関わっていく主体としての個人,しかも,一元的な国家体制においてよりも,多元的な地方において活動する個人を意味していたのである。

 すなわち,柳田の民俗学における郷土研究は,「公民」の育成に寄与することを目指していたが,「公民」といってもそれは,地方において地方を日本全体の中で捉えながら自らの判断をもって生活していくことのできる者を意味していたのであった。

溜池 善裕「柳田国男の郷土研究における「公民」の意義」36-37p (2)公民教育への着目 1992.01

お上=国家に言われたことを盲信するんじゃなくて、

自分で考えて、自分で動ける庶民。
それも、中心部でなく、地方の人が地方のことを自分で判断できる庶民。これが「公民」

それをボトムアップで作っていくために、
「庶民を見る=郷土研究」の民俗学というアプローチを作り出したの。

飢饉に強い社会って、
実は「賢い庶民がたくさんいる社会」だと考えたんだ。


🍚 現代に飢饉はない……本当に?

で、ここから現代の話。

今の日本、食べ物が足りなくて死ぬ人ってほとんどいないじゃん。

物質的な飢饉は、ほぼ克服された。

じゃあ人は何に飢えてるんだろうって考えたとき──

あたしは「精神とか、心のほう」に目が向いてるんじゃないかって思うの。

承認欲求とか、
居場所とか、
自己肯定感とか、
「自分がここにいてもいい」って感覚とか。

注目が欲しくて、自殺配信をしちゃうような人もいるでしょ?
親からの注目がない環境で育って、セルフネグレクト(自分で自分の世話をしないこと。緩やかな自殺とも言われることがあるね)しちゃう人も多い。

もう、「注目」と「生死」が繋がる時代になっちゃってる。


📱 インターネットは「数字の世界」だ

ここで、ちょっと意地悪な話だけども….

インターネットって、IT技術の上に成り立ってるじゃん。

IT、つまり強い数字と合理の世界。

  • アクセス数

  • コンバージョン率

  • エンゲージメント

  • フォロワー数

Webって、より合理的に、数字を基準に作られてきた。

それは別に悪いことじゃない。

でも──その結果として、

インターネットを使う普通の人(=常民)も、数字を欲しがるようになった。

「いいね」が来ると嬉しい。
来ないと、なんか不安になる。

関心経済(アテンションエコノミー)って概念が1960年代に提唱されて、近年より注目されるようになってきたみたいだね。

情報過多の社会においては、供給される情報量に比して、我々が支払えるアテンションないし消費時間が希少となるため、それらが経済的価値を持って市場(アテンション・マーケット)で流通するようになる
(略)
インターネット上で膨大な情報が流通する中で、利用者からより多くのアテンションを集めてクリックされるために、プラットフォーム上では過激なタイトルや内容、憶測だけで作成された事実に基づかない記事等が生み出されることがあり、アテンション・エコノミーは偽・誤情報の拡散やインターネット上での炎上を助長させる構造を有している

総務省情報通信白書 令和五年度版「アテンション・エコノミーの広まり」

ね、心当たりあるでしょ。あたしもあるよ。


🔢 でも、数字は全員には配れない

ここが歪みのポイント。

食べ物って、増やせるじゃん。
畑を広げれば、収穫量は増える。

でも注目って、総量が決まってる。

誰かが100万フォロワー持ってたら、
その分だけ誰かの注目=可処分時間は"取られてる"。
人間が「注目」できる脳のリソースには限界があるからね。

しかも、インターネットは先に数字を集めれば有利な世界だ(SEO的にもアルゴリズム的にもね)。
インターネットを土地と捉えると、
「地方」は後発サービスや後発ユーザーに当たるんじゃないかな。

でも、現実はみんなが数字を求めても、
全員が数字を得られるわけじゃない。


👁️ 「数字」の正体は「注目されること」だ

じゃあ、なんで数字がほしいのか。

フォロワーとか再生数って、結局のところ──
「誰かに見てもらえてる」の証拠じゃん。

つまり数字への執着って、
詰まるところ「注目されること」への執着なんだよね。

見てもらいたい。
存在を認めてもらいたい。
ここにいるって、わかってほしい。

……それって、「飢え」じゃない?


🌀 現代の飢饉は「注目」への飢饉だ

まとめるとこういうこと。

かつての日本人が食べ物に飢えてたように、現代のインターネットユーザーは「注目されること」に飢えてる。

そして柳田が目指した「公民」──
自分で考えて動ける人──が少ないと、

誰かの数字やバズに流されるだけの、
飢饉に弱いインターネット社会になっていくんじゃないかって思う。

 郷土研究における教育への接近は,「山村生活調査」に示されたように理念的なものばかりではなく,きわめて具体的で積極的なものであった。そのことは, この時期に符合して,柳田が,1936年日本民俗学25回連続講演会の第1回講習会 が開催された9月19日,その開会の辞において次のように述べていることからも明らかである。
 「現代の教育は大いに進みましたけれども,なほ幾つかの求めて未だ備はらざゝ(ママ)るものがあります。さうして日本民俗学の如きは,まさしくその重要なる一科目であります。(中略)個々の政策は技術であり,又各人の考案でありまして, 是が相競ひ相争ふのは,些しでも不思議なことはありません。それを判別し取捨するのが政治で,其権能は我々にも附与せられて居るのであります。はやく教育によって正しい判断をする途を授けない限り,悪人で無くとも屡々失敗します。 選挙が粛正を必要とするなどは,言はゞ一国の学問の恥であります。」
 この挨拶には「政治教育の為に」という題目が掲げられていることから,民俗学が政治教育に貢献することを柳田が力説しようとしたことを示すものである。 とりわけ,そのなかで選挙粛正という具体的な問題をとりあげている点が注目される。

溜池 善裕「柳田国男の郷土研究における「公民」の意義」35p 1992.01

柳田はね、政治とか選挙に対して、「民俗学」によって、「自分で考えることのできる人」を育てようとしたんじゃないかなって話。

そして、その方法論として、「生徒からの質問と回答」という形を重視した。

柳田が見せた質問重視の姿勢は,終戦間際の彼の青少年向け著作においても見 出すことができる。そして,次の柳田の言葉に見られるように,戦後の社会科教育論においてもまた柳田は質問を重視した。
 「質問が生徒から出ぬようではだめだ。どんどん生徒から質問が出て先生はそれに答える。先生が受身になるようにする方法はないものかと考えるのです。実は私どもの学問は,内輪の中ではこのたびほとんど歴史的な改革をして,(中略) 世間から聞かれて,それによってだんだん私の方の形がきまる。(中略)この考え方が,ある程度初等科の教育にあてはまるようなことはないか。」
 民俗学を質問によって作り上げるという方法を社会科にも導入しようとするのが柳田の考えである。この考えは,文部省社会科関係者との座談会における勝田と柳田のやりとりにも表れている。
 「柳田:疑問と私たちのいうものと,あなた方のいわれる問題とはちがう。私たちのは,子供たちに問いを出させて,その中から,なるほどこういう問いがあるのかというものを集めるのです。一二年も集めて,それを分類してみると教科書ができます。勝田:クェッションといえば,知的なものに限られ,問題といえば ………生活全体の行動まで入って行くものです。(中略)柳田:ほんとに正確な知識を与えておけば,判断は自然についてくるとおもいます。正しい解決の能力を与えるのです。」

溜池 善裕「柳田国男の郷土研究における「公民」の意義」39-40p 1992.01

柳田によると、生徒から質問が出て教師が受け身になるようなのが良いってさ。

あたしも、「数字による権力を振り回すこと」という「政治」や「いいね」「フォロワー数」「リポスト数」という「投票」に流されちゃうインターネットの中で、
「自分を見失わないための思考方法」を身につける手段のひとつは「民俗学」だとは思ってるよ💖

でもね、現代インターネット社会で柳田の考えていたことが実現できているかは怪しいと思う。
だって、みんな萎縮しがちじゃん。

SNSの議論やコメント欄でも、何かあったらすぐ晒されたり叩かれるようなインターネット🔥
安全に質問できるように作られたマシュマロへの回答で炎上することもあるし、DM内容だってスクショで晒されたりする。

この状況下で、
「質問と回答」の方式を気持ち的に安全にやるの…..無理じゃない?
最近は、無名の人でもインフルエンサーに言及やリプライすると、知らない人や本人に変な拡散のされ方されてボコボコにされることあるっしょ?

「注目飢饉」の解決方法の一つは、
注目されている人("インフルエンサー"や"推し"など)に
「ちゃんと見てもらう実感を持てること」だと思う。

でも、この安心できないインターネットでは現実的に難しい。

注目されている人も人間だから、
毒マロ・誹謗中傷・風評被害なんかの攻撃をどうしても警戒してしまうし、大量のコメントに全部返信するのも物理的に無理

ファン同士の「注目の奪い合い」も発生してしまう。

ここをどうするか考えてゆかないと、「公民」の育成は難しいかもね。

みんなはどう思うかな?

あたしはね、
多くの人が民俗学的に他人を見る(相手の生活や背景に目を向けて、すぐ叩く前に観察する)ようになって、
お互いに冷静かつ安全に見合う
が実現できればいいかもなって思うよ。

もしくは、組織的に質問を集めて、組織的に答えてゆくとかね。
そうなると結局インターネットの柳田國男が必要になるのかも!

個人の態度が変わるだけじゃ構造は変わらないし、組織にするだけじゃ個人は救われないと思う。
どっちも要るけど、どっちから始めるか・始まるかはあたしにもまだわからない。


🌙 おわりに

もし柳田國男が今生きてたら、

インターネットの常民を見て
何を思うんだろうね。

「公民」を育てるために、今度は何を研究しただろう。

ねえオタクくん。

君は注目に飢えてる?

それとも、飢えてない振りをしてるだけ?

あたしは…自分の飢えを上手にコントロールしてゆきたいなっ

注目飢饉は結構大変💦