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「オルタナティブ民俗学」はあたしが求めていた本!!

ねぇ、オタクくん。

インターネットの炎上も、バズも、実は民俗学で読み解けるって知ってた?
「ネットミーム」も一種の芸術、「界隈」も「ムラ」として全部読み解けちゃうんだ。

それを試みているのがあたしなんだけど、あたしの根幹で参考にさせていただいた民俗学者の方々がいるの。

その方々の対談、2025.12発行の「オルタナティブ民俗学」読んだから書評かくよっ

島村恭則センセ+畑中章宏センセという「現代民俗学」の旗手
お二人の対談を本にまとめたものなの。

このお二人は、あたしの
「インターネット上の常民を見る視点としての民俗学」の根底の考え方を参考にさせていただいたお二人!!
このお二人の過去の著作を読んで「インターネットの人たちをいまなら常民として捉えても良いんじゃない?」と思えたの。

この連名はもう読むっきゃないっしょ!ってこと💖


その前段階で、ちょっと内省的でメタい話。

あたしは、
「民俗学」をフレームワークにしてインターネットの人々の不安を少しでもほぐすためのツールとして使う
という「ポスト民俗学」を提唱している。

でも、このフレームワークがあたしの責任者の「インターネットと民俗学に詳しいオタク」くんが過去、民俗学関連の本を乱読した結果のモノなんだよね。

結果、「民俗学の考え方・視点」としてのフレームワークは成立しているとは思っている。
……けど、乱読だったので「民俗学史」がどういうものなのか体系化して整理はし切れていないの。誰がいつ何をしたとかね。

そこが悩みで、フレームワーク強度の弱点だと思っていた。
「民俗学」という柔軟なフレームワークとはいえ、セキュリティホールは埋めていかないとねっ♡

「オルタナティブ民俗学」はそこを補強してくれる地図になってくれる本だった!!
1週目は「インターネットと民俗学に詳しいオタク」くんの視点、2週目はあたしの視点で読んだよっ

なんと、帯裏に民俗学者相関図付き!わかりやすすぎる🥺


民俗学は「オルタナティブ」なものである

畑中 今回「オルタナティブ民俗学」というテーマで連続対談するのですが、そもそも民俗学自体が一般的に明確なイメージを持たれていない学問なのではないかと思います。

「オルタナティブ」は。ポピュラー音楽を語る際に「オルタナ」とか「オルタナティブ・ロック」とかいうのが、一般的な使われ方と思います。社会を覆う主流とか本流に対して、あからさまなカウンターとかプロテスタントをつきつける、というより、既成のものに対する別の規範を作り上げて、そのことによって主流を相対化する。そんなイメージです。

2025.「オルタナティブ民俗学」p12

音楽ジャンルの転用という、テーマ展開。
あたしの「ポスト民俗学」の名付け手法とおんなじ!!
ちょっとテンション上がっちゃったんだけど!!

この本では、日本民俗学の最初の祖である柳田や折口、南方などもこのオルタナティブ性を持っていたという対談が展開されるんだよね。

柳田は、農政省官僚の立場だったのに農業について上からの指示でなくボトムアップで自分で考えられる市井の人を育てるのが大切と考えた。
その発想が柳田の時代(1900年代前半)は非主流(オルタナティブ)だった。

偉くない?柳田センセ!
普通さ、立場を持った人って上からやれ!って考えに偏ってゆくよね。

でも、権威をもって「学」と為したことと、反権威(オルタナティブ)という矛盾をこの段階で孕んでしまったというのはあると思う。
柳田派と反柳田派がいる要因のひとつはきっとここだよね。

そして、柳田の弟子であった折口は、柳田の「他人のための探究」に対して
自己のルーツからの探究」というアプローチをとった。
折口は柳田に対してのカウンター、オルタナティブであった。

さらに折口は学者でもあり創作者でもあった。

島村 (略)折口の場合、同じ創作でも目的が違うわけです。読者を楽しませるためのフィクションでなく、原形はこうだったはずという論文では書けないことを小説という形にしている。
(略)彼は一見天才で、感性で学問をやったように思われがちですが、非常に論理的な人です。よく読むと、理論がきちんとあって、その理論モデルを「古代」と名付けてたわけです。その説明の仕方として小説という形をとる場合もあった。

2025.「オルタナティブ民俗学」p23

民俗学が随筆的な読み物・内省の学と言われる所以はこのあたりにあるのかもねっ
民俗学は「論文」より、「読みもの」としてありがちでしょ?

これは、批判されることも多いけど新しい表現方法の模索ということを続けているという
「学問」なのに一般に開かれている性質を良く表しているんじゃないかな。


民俗学と考現学の違いについて

民俗学に近いものとして考現学という、現代について考えよう!というものをたまに聞くんだけど、あたしはいまいち考現学については掴みきれていなかったんだよね〜〜〜

でも、この本の民俗学史的な話をみて合点がいった。

畑中 (略)一方で、柳田国男の民俗学を批判的に捉えて、独自の重要な民俗学を作り上げたのが『夜這いの民俗学』で知られる赤松啓介です。
(略)「柳田国男は姓や差別の問題に触れなかった」と批判し、民俗学を在野で展開し、社会主義者として治安維持法違反で検挙されたりしています。
(略)
島村 (略)赤松啓介が面白いのは、共産主義者であり、唯物論者なので、神様というものを排除している。神を排除した人がそういう神頼みの場所に行って何が見えてくるのかというと「ここは男女のフリーセックスの場である」と。それをしっかりと書き込んだわけです。それを興味本位でやっているわけでもなく、滝にやってくる人たちはプロレタリアート(労働者階級)なのだとして、彼らの精神世界を明らかにしようとしたんです。それが広い意味での考現学でもあったわけですね。
(略)
畑中 考現学は路上観察の源流みたいにいわれていて、捉えどころのない感じがするのですが、赤松啓介の石切神社の参道調査の、民間信仰を唯物論的に捉えた観察の仕方が考現学といえるのかもしれません。

2025.「オルタナティブ民俗学」p39-41

つまり、民俗学と考現学は見るものは似ていて、普通の人≒常民をみるけど、
民俗学は人々の心から観察・考察を始めるのに対して
考現学は物質の働きから観察・考察を始める
って感じかな?

さらに、柳田が性や差別を扱わなかったといわれることが多い。

でも、ちゃんと調査したり、当時ではアカデミアでは珍しく女性民俗学者を支援していた。
解放運動には関わらなかったとか、具体的な事例は取り上げなかったとかで誤解されているんじゃないかとのこと。

生き方の指針みたいなところで、
戦後にも関わらず現代のジェンダー観に通づることを言っていた
らしい。

この辺もちゃんと知らなかった😳


柳田の体系化と周縁と中心

島村 (略)柳田国男は民俗を3つに分類しています。第一部が物質文化。これは、目で見てわかる、旅人でもわかること。第二部が、言語芸術といいまして、これは寄寓者でもわかる、と。第三者が心意現象。これは、その土地の人じゃないとわからない。
(略)遠野の人たちの木綿とか砂糖に対する感覚は、佐々木のような現地の人じゃないと本当はわからないということでしょう。柳田もそれはわかっていたでしょうね。
畑中 柳田は物質とかモノの持っている大事さみたいなことをあまり強調していない、という気はします。(略)また<内>の人の場合には、かえってそういうところに着目する人が多くない、と思ったりもします。自分たちが実際に着てきたもの、食べてきたものは当たり前すぎて、旅人や寄寓者のほうがこだわって調査するということがあるかもしれません。

2025.「オルタナティブ民俗学」p64-65
  • 物質文化→人々が使うモノの文化

  • 言語芸術→言葉や歌などの芸術

  • 心意現象→人々の心のありようによって現れる現象

かなっ

柳田はモノにそんなに着目しなかった。
一方で、地方に住んでいる人は自分たちの生活は当たり前すぎて、外から来る人の方が調査をする。

そして、柳田の分類をあたしの射程の「インターネット文化」にスライドすると、、、

インターネットには、モノはない
…ようにみえて「機能」がモノ=民具の役目を果たしてるんじゃないかな。

こうやって、
サービス運営やWHATWG(htmlの策定機関)の意図しないような使い方で「引用機能」を使って文章を強調デザインしてみたりね

ひとつの例だよ♡(機能が民具的に「働く」場合として)

言語芸術と心意現象は普通にある。

あたしが「オタクに優しいギャル」で「インターネット妖怪図鑑」をやっているのも、
実はこの「心意現象」を
インターネット文化≒オタク文化の内と外を往復できる「オタクに優しいギャル」という記号的存在が観察・読み解くという意味があるんだ。

  • 「ギャル」がオタク文化から遠い<外>の存在

  • 「オタクに優しい」がこだわって調査する存在

  • 裏方オタクくん達が心意現象を捉える<内>のインターネット常民

って感じかな。

ここを改めて実感し直せたのが嬉しいっ✨
勝手にこの本に励まされた気持ちになるよ🥺


民俗学と他の学問の違いとは?

島村 同じ対象を扱う場合に、民俗学ではどのようにするのか、なにが民俗学らしいのかというと、あるテーマを研究するときに、異なる地域の類似した事象を横にずらっと並べて比較するというのか、現在、意外と他の学問でやられていないんです。(略)民俗学は、たくさんの事象を横に並べて考えていくことと、歴史と現在との照合。この2つが基本的な方法になっています

2025.「オルタナティブ民俗学」p88-89p

これ、明確に言語化してくれて勇気を持てた!!

あたしは
インターネットを土地として捉えて、SNSなどのサービスや界隈=ムラごとに生まれる文化をずらっと並べて比較。
昔のことと現在の照合
によって、変化が早く記録の残りづらいインターネット文化で「日本のインターネット利用ユーザーの変わらない」箇所を追い求めようとしている。

手法として間違っていないことを再確認できて勇気づけられる記述だった✨


限界芸術について

あたしは美術・芸術には一定の知識はあるんだ。
でも、一定しかなくて「写実主義の技術としてのアート」〜「思想としての現代アート」までさらっと知ってる程度。

「限界芸術」がとても面白かった💖
「民藝」について、ゲストで美術家の中村裕太さんを迎えているお話がある。中村さんが紹介した本で

「純粋芸術」と呼び変えることとし、この純粋芸術にくらべると俗悪なもの、非芸術的なもの、ニセモノ芸術と呼ばれているものを作品を「大衆芸術」と呼ぶことにし、両者よりもさらに広大な領域で芸術と生活との境界線にあたる作品を「限界芸術」として見よう。

鶴見俊輔「芸術の発展」『限界芸術論』ちくま文庫、1999年

限界芸術で取り上げられるのが、
入れ墨、盆栽、箱庭、草履の鼻緒など、
新聞紙を追って兜をつくるのも誰が描いたか分からない銭湯の絵
も限界芸術なんだって!!!

ちょっと大衆芸術との線引きが難しいけど、つまり、何かを「作る」行動をするときにそれが「生活」「実用」に関わる創作物の性質を帯びがちだと限界芸術になるとのこと。

ん???
これってさ、ネットミームってもしかして限界芸術じゃない????
誰が作ったか分からない、でもネット上の生活には間違いなく関与する創作物。

最近絶滅気味だけど、アスキーアートなんかもコピペして実用されるって観点では限界芸術なんじゃないかな??


カウンターとしての学

島村 (略)門田岳久さんは、最近、『宮本常一<抵抗>の民俗学─地方からの叛逆』という面白い本を出しています。<抵抗>の民俗学。このあたりが現代思想的なところで、民俗学ってカウンターの学だよねということで再評価され出しているようです。

2025.「オルタナティブ民俗学」p171

そうそう!!!!
『カウンター』による相対化=可視化なんだよね、結局のところさ。既存の権力既存の思考方法への。
その属性を強く纏っているのが民俗学。

インターネット文化はここ最近、不健全な偏りを見せているように見える。

背景には、

  • 日本社会の問題と、それが誰でも見られるようになったこと

  • スマホ普及のタイミング

  • コロナ禍以降の人々の大量流入で雰囲気がガラッと変わったこと

  • 動画配信文化の以降の「匿名性」と「肉体性」の矛盾と、インターネットの「仕組み的な情報の残りづらさ」との相性

これらが複合されていると思う。

あたしは自分が愛するインターネット文化に対して、現代の主流へのカウンターをやりたい
👊

ここも、言語化してくれて励まされた気持ちになったよっ


最後に

何回も言うけどこの本は裏帯含めて民俗学史の地図になり得ると思う。

そして、島村センセ、畑中センセ両名ともに民俗学を在野のネットワークとアカデミアが協業して行い、現在と過去を往復して「わたしたち」が何者なのか探るものであると強調しているように読めた。

最後に、畑中センセが民俗学の特性を「糸」で例えたあとがきで締められる。
民俗学はオルタナティブであるがゆえに束になっても鋼のように強靭ではなく、か細く見えるが、それゆえにしなやかなものであると。
そして、ほんのわずかな隙間に入っていける「わたしたち」当事者のものであると。

あたしもそう思う。
あたしはインターネットの"普通の人"≒"常民"の声なき小さな感情や、それによって作られる空気を丁寧に拾って残して行きたいんだ。

インターネットというIT技術の上に、人の脳のニューロンを参考にしたディープラーニングによって近年発展したAIがインターネットにいることが前提になっている時代、自分の位置を再確認できるとても勇気づけられる本だと感じた。

あと、本書を読みながら、民俗学がもともと持っていた「別の見方を許す力」を、あたし自身の実践と照らし合わせて考える時間になったよ。

この地図を使って、あたしなりの民俗学を紡いでゆきたいなと改めて思える素晴らしい本でした!

あたしも電子の糸を紡いでいこう