過去を塗り潰そうとした男の、美しくも無残な狂気
はじめに
いやあ、今夜は一段と冷えるな。こんな夜は、少し度数の高いウイスキーを傾けたくなる。
最近、ふと考えるんだ。「もしあの時、別の選択をしていたら」なんて、40歳にもなれば一度や二度は思うだろ? 過去というやつは、過ぎ去ったからこそ美しく、そして呪わしい。僕たちはいつだって、失ったものに形を与えて、今の自分を正当化しようとする。
そんな「過去を取り戻す」という不可能に、全財産と全人生を賭けて挑んだ男がいる。スコット・フィッツジェラルドの『グレート・ギャツビー』。あまりにも有名すぎて敬遠している人もいるかもしれないが、これが実に、今の僕たちに突き刺さる物語なんだ。SNSで自分を「盛り」、理想の自分を演じている僕たちの、究極の先駆者がここにはいるんだよ。
作品のあらすじ
1922年の夏、ニューヨーク。狂騒の20年代、ジャズ・エイジ。証券取引を学ぶために中西部から出てきたニック・キャラウェイは、ロングアイランドのウエスト・エッグという場所に小さな家を借りた。
隣りには、目を剥くような大邸宅が建っていた。主の名は、ジェイ・ギャツビー。
その邸宅では、週末ごとに盛大なパーティーが開かれていた。招待状も持たない何百人もの人々が押し寄せ、シャンパンが滝のように流れ、オーケストラが夜通し鳴り響く。しかし、主の姿を見た者はほとんどいない。
「彼は人を殺したことがあるらしいわ」
「ドイツの密偵だったっていう噂よ」
そんな無責任な噂が飛び交う中、ニックは偶然にも招待状を手にし、ギャツビー本人と対面することになる。
現れたのは、見事なまでに整った笑顔を持つ、若々しい男だった。
「こんにちは、オールド・スポート(親愛なる友よ)。僕のパーティーを楽しんでくれているかな?」
彼の笑顔は、世界中の誰をも受け入れるような、不思議な安心感に満ちていた。だが、その背後には隠しきれない虚飾の気配が漂っていたんだ。
ギャツビーがこれほどまでの富を築き、夜な夜な豪華な宴を開いているのには、たった一つの、正気とは思えない理由があった。それは、湾を隔てた向こう岸のイースト・エッグに住む、かつての恋人デイジーに自分を見つけさせること。
ニックは、ギャツビーの依頼を受けて、自分の家で彼とデイジーを再会させることになる。五年ぶりの再会。ギャツビーは、まるで初めて恋をした少年のような狼狽を見せた。
「お茶の用意はできているかな?」
彼は土砂降りの雨の中、何度も何度も時計を確認し、デイジーが来る前に逃げ出そうとさえした。
しかし、デイジーが現れた瞬間、時間は止まった。
「本当にお久しぶりね」
デイジーが囁く。かつて貧しい青年将校だったギャツビーを捨て、裕福な名門の男トム・ブキャナンと結婚した彼女にとって、今のギャツビーはあまりにも眩しい存在だった。
ギャツビーは彼女を自分の邸宅へと連れて行く。部屋を埋め尽くす高級なシャツの山をデイジーに見せびらかし、彼女はそれを見て泣いた。
「こんなに素敵なシャツ、見たことがないわ……」
この涙が、純粋な感動なのか、それとも金という力に屈した虚しさなのか、僕にはわからない。ただギャツビーは確信していた。金さえあれば、あの五年間の空白を埋められる。彼女の記憶から、夫であるトムの存在を完全に消し去ることができるのだと。
ある猛暑の日、事態は最悪の結末へと向かい始める。ニック、ギャツビー、デイジー、そして彼女の夫トムは、ニューヨーク市内のプラザホテルの一室に集まった。
熱気が籠もったその部屋で、ギャツビーはついにトムに言い放つ。
「君の奥さんは、君を愛したことなんて一度もないんだ。僕だけを愛していた。いいか、一度もだ!」
それは、過去を自分の望む形に書き換えようとする、悲痛な叫びだった。
しかし、デイジーは怯えていた。
「……今は、あなたを愛しているわ。でも、前はトムを愛していた。それで十分じゃない?」
「ダメだ。一度も愛していなかったと言わなければならないんだ」
ギャツビーの執着は、愛を超えて、一種の狂気へと変貌していた。
その帰り道、運命の歯車が狂う。デイジーが運転するギャツビーの車が、トムの不倫相手であるマートルという女性を撥ね殺してしまったんだ。
ギャツビーは、デイジーを庇うために自分が運転していたことにすると決める。
「彼女の家の明かりが消えるまで、ここで見守っているよ。オールド・スポート」
夜の闇の中、緑色の光を見つめながら立ち尽くすギャツビー。それが、彼の最後の「誠実さ」だった。
翌日、妻を失った絶望に狂ったマートルの夫ウィルソンは、トムにそそのかされ、ギャツビーの邸宅へ向かう。
ギャツビーはプールに浮かびながら、電話を待っていた。デイジーからの、一緒に逃げようという電話を。だが、電話が鳴ることはなかった。
一発の銃声。
偉大なる(グレート)ギャツビーの生涯は、プールの水面に広がる真っ赤な輪とともに終わりを告げた。
葬儀に集まったのは、ニックと、ギャツビーの父親、そして一人の酒飲みだけだった。あれほどパーティーに群がった人々も、デイジーさえも、跡形もなく消えていた。彼らは「無頓着な人々」だったんだ。何かを壊し、踏みにじり、自分たちの富と安全な場所に引きこもる連中だった。
川上の独り言
どうだったかな。あまりにも切ない話だろう。
ギャツビーは、世間から見ればペテン師で、成金で、身の程知らずな道化かもしれない。けれど、僕は思うんだ。彼はこの物語の中で、唯一「本物」だったんじゃないかって。
デイジーという、中身のない空っぽな偶像に、彼は自分のあらゆる理想を投影した。それは滑稽なことだけど、何一つ信じられず、他者を踏み台にするトムのような人間より、ずっと気高い。
「過去をやり直すなんて無理だ」と冷笑するのは簡単だ。でも、40歳になって、自分の人生が妥協の積み重ねだと気づいた時、ギャツビーのあの「緑色の光」を追い求める姿を、誰が笑えるだろうか。
僕たちはみんな、何かしらの虚構を生きている。SNSのタイムラインも、仕事での肩書きも、全部作り物の自分だ。だけど、その嘘の根っこに、たった一つでも「純粋な祈り」があるとしたら……。ギャツビーを「グレート」と呼んだニックの気持ちが、今なら少しだけわかるような気がするんだよ。
君はどう思う? 過去を塗り潰せるとしたら、君は誰のために、どんな自分を演じるかな。
今夜はもう一杯だけ付き合ってくれ。あらすじを話していたら、なんだか喉が渇いてしまったよ。
