消えない言葉と、生き直し 1話|はじめての発作
夫が、携帯を持ってお風呂場に行くようになった。
最初は気にもしなかった。仕事の連絡でも入るのだろう、と。
でも、夫は時々、私の顔を見ながら携帯を打つようになった。
その回数が増えた。
「なに、どうしたん?」
そう聞くと、夫は、顔を赤らめた。
私は自分の声が、少しずつ強くなっていくのを感じた。
疑いが確信に変わったのは、車の中だった。
夫の車のトランクに、女性用のスキンケアセットが置かれていた。
前席のポケットには、無造作に女性からの手紙があった。
中を見るのは、いけないことだと分かっていた。
でも、手は止まらなかった。
中身は、二人は永遠に一緒、みたいな言葉が並んでいた。
私は夫に聞いた。
夫は笑って、「ただの遊びよ」と言った。
お前が気にするほどのことではない、みたいな言い方で。
離婚はしたくない、とも言った。
私はその言葉を、安心の材料にできなかった。
その日は休日だった。
考えると泣いてしまいそうで、私は玄関にいた。
息子にだけは、泣いているところを見られたくなかった。
そこへ夫が来た。
笑ってごまかすつもりなのか、夫は笑っている。
全部話してしまえば、許してもらえると思ったのかもしれない。
本当のことなのか、自慢なのか、分からなかった。
分からないままでも、言葉だけは残った。
「お前と付き合っている頃から、浮気相手はいつもおった。
だって、向こうから言ってくるから、しょうがないやろ。
断ったらかわいそうやん」
言葉が、体に入ってきた。
胸の奥に、冷たいものが落ちた。
怒りより先に、混乱で思考が一瞬止まった。
冗談のつもりなのか。
夫は、バカなのか。
そんなことを私に言っていいと思っているのか。
私はその場で、何も言い返せなかった。
夫の言葉に反論できないほど、私が弱かったわけじゃない。
ただ、心が追いつかなかった。
次の日、姑はもう知っていた。聞かれていた。
姑は、落ち込んでいる私に、
「男の浮気くらい、辛抱しな」
と言った。
私の痛みだけが、場違いだった。
もう、声が出なかった。
その翌日くらいだったか。
息子がプリントを持って、私のところに来た。
算数は得意なのに、文章を読んで答える問題になると、少し眉を寄せる。
「お母さん、ここ、わからん」
その声が、少し遠慮をしているように聞こえた。
私は、きちんと応えてやりたかった。
でも、頭の中がうまく働かなかった。
意識がぼうっとして、集中できない。
胸の奥がずっとそわそわして、落ち着かない。
私は、いつも通りに答えられなかった。
息子は私を責めなかった。
ただ、「お母さん、もう寝たら?」と言った。
その言い方が、やさしすぎて、胸に残った。
次の日の朝。
朝食の準備をしようと台所に向かったとき、心臓がばくばく言い出した。
止まらない。
手が冷たくなって、冷や汗が出て、体がかたくなって、震えた。
怖い、と思った。
その怖さを恐れるうちに、朝が来るのが怖くなった。
目覚めた瞬間から、強い不安症状に襲われるようになった。
全身が震えて、冷や汗が噴き出して、理由のない不安が体の中を占拠していく。
手をぎゅっと握って膝を抱えて、その波が行き過ぎるのを待つ。
息子を起こさないように、悟られないように、必死で耐えた。
まだ、名前も知らなかった。
これが発作だということも。
そして、朝が来るたび、私は少しずつ壊れていった。
