てるてるぼうず〜千羽の鶴が羽ばたくとき(前編)
「もうすぐ、おまえに、妹と弟ができるぞ」
突然の父親の言葉に、久《ひさし》は、思わず間抜けな顔で、腰を浮かせた。
「なに、いってんだよ。父さん。母さんはもうずっと前に──死んだだろ」
だが、父親はどこか浮かれた顔をしながら、さっさと居間を出て行ってしまった。
「なんだよ、あれ…」
翌日。ドアを開けた途端に飛び込んできたふたりの子供の姿に、久は、口をとがらせた。
小生意気にこちらを見上げるかたわれを無現し、その後ろに隠れたもうひとりの脇の傘《かさ》たてに一瞥《いちべつ》をくれる。
玄関に父親の靴があることを確かめ、濡れた制服のまま家に上がり込むと、案の定、仕事が早く終わりでもしたのか──居間で父親がテレビに夢中になっていた。
前髪からたれる水滴を、袖で乱暴に拭う
「お、久か。おかえり。なんだ、ずぶ濡れじゃないか」
子供達が両腕にまとわりつくなか、久は小々いらだたしげに頭を掻いて、父親を睨んだ。
「なんなんだよ、こいつら!父さんの知り合いか?」
父親は、持ってきたタオルを、久に投げてよこしながら、笑顔で子供達に近づいた。
「ああ。母さんの親戚の、娘さんと息子さんで、名前は、美珠《みたま》ちゃんと、穂高《ほたか》くん。
今日からしばらく、うちで預かることになった」
目を丸くする久の鼻先で、父親はふたりを居間に迎え入れる。
子供達は甲高い声をあげて、遠慮なく万年こたつに潜った。
黙ったままつったっていると、父親が、久のそば──居間の入り口や、玄関付近の床を拭き始めた。
真っ白なタオルに染みが広がる。
ため息混じりに自分の身を拭き、久は、背負っていた鞄をおろした。
父親を手伝いながら、口を開く。
「どういうことだよ」
「おまえを驚かそうと思って黙ってた。ふたりとも、とてもかわいいだろう?」
「──どこが」
いうと、不思議そうに、父親がこちらを見た。
「それより、おまえ、傘を持っていかなかったのか?
まるで、濡れ鼠《ねずみ》みたいだぞ」
床を拭く手を一瞬止め、久は、口の端を引きつらせた。
「…ころんだ」
言ってから、舌打ちした。
「…転んだ。そいつらが、急にやってきてまとわりついて、すべったんだ」
学校も終わり、家へ帰る途中の、脇道。住み慣れたアパートに、もう、五分となくつける距離だった。
向かいからふたりの子供達がやってきた。微笑ましげなその様子に、油断していた久は、次の瞬間、派手に転んで傘を落とした。
なんだかよくわからないが、子供達がいきなり自分にタックルしてきたのだ。細いその道にちょうど車がやってきていた。水溜まりに足を取られながらも、道の内側寄りにいた子供達をかばおうとした久は、自動車のタイヤが巻き上げた水たまりの水を浴び、左手左膝から地面の──水たまりに突っ込んだ。
その時はまだ片膝を立て、右手に傘を持っていた。たが、力を抜き、下ろした右手から傘をはなした。──今度は、後ろにのけぞった。危うく──左手をついて踏みとどまる。
顔を上げた久は、自分の傘を盗んで行くふたり組を目撃した。しばし、口を開けて、そのままことのなりゆきを見守った。
はたと、我に返った。子供用の傘を持ちながら、久の傘を危なっかしく持って走る子供達を追いかけたが、子供達が通ったすぐ後、久の鼻先で、信号が赤に変わった。
車が通り過ぎ、青信号に戻ったころには──その先の細道を曲がったところまではわかるのだが──入り組んだ建物の影に隠れたのか、子供達の姿を見失ってしまった。
青い大きめの傘だ。
久にとっては、とても大切なものだった。母親が生前、結婚前に、父親にプレゼントした物なのだ。
諦め悪く、十分ほど探しまわったあげく、半ば泣くような気持ちで、自宅のアパートのドアを開ければ、なぜか例の子供ふたりが出迎えた次第である。
父親はなぜだか予想通りに吹き出し、久は顔をしかめる。
「怒るな、怒るな。ちょっとしたいたずらだろう。美珠ちゃんも、穂高くんも、おまえと遊んでいたつもりなんだよ。
美珠ちゃんも穂高くんも、自分から、おまえを迎えに行ってくれたんだぞ」
お迎えご苦労さま、と子供達に笑う父親。久は、大きくため息をついた。
そして、居間のこたつに入った父親と一緒になって笑う、美珠と穂高を見遣ってから、とりあえず着替えや後処理を済ませ、最後にやっと、温まるために、こたつに入った。
「──この子達のお母さんが、入院していて、お父さんは何年も前に、亡くなっていらしてね……。それで──父さんが預かることにしたんだ」
その言葉に顔を上げた久は、どこか淋しげに笑う父親を見た。
その日から、美珠と穂高との共同生活が始まった。
美珠の通う小学校と、穂高の通う幼稚園は、久の家からは、徒歩で三十分はかかる。
久の通う中学校までの倍くらいの距離だ。
ふたりの住む家もここから行けない距離ではないが、親戚づきあいの良くない久は、いままでふたりのことなど知らなかった。そ
う言われて見れば、聞いたことがあるような気もしたが、確かな記憶ではない。
朝は、父親が出勤時間を少しずらして、ふたりを車で送ることになった。父親はきちんと朝食をつくることも忘れなかった。
美珠は小学二年生で、穂高はまだ幼稚園の年少である。穂高の迎えは、学校帰りの美珠を中心に、おなじ幼稚園児を子供に持つお母さん方や、先生方が協力してくれたり、親切に弁当をつくってくれたりもした。
しかし、久はなんだか心配で、学校が早く終わった日には、できるだけ、自分で、ふたりを迎えに行った。
夜は父親の帰りが遅いので、久が、夕食をつくったりもした。父親とふたり暮らしの久は、ちょっとした料理くらいならできるが、面倒くさがって、すぐに簡単な料理や、既製品《きせいひん》で済ませてしまう。
それが、ふたりには不評のようで、
「まぁた目玉焼きー? ねぇぇ、出前とろうよー。でまえー」
「僕、カツ丼がいいー!」
いつも、いつも、甲高い声が容赦なく降ってくるのだった。
美珠は、少し癖のある色の薄い髪に、ぱっちりとした瞳の、将来は美人になりそうな、なかなかにかわいい顔をしていた。
穂高は、栗色の髪で、こざっぱりとした髪型をしている。いつも鼻の頭を赤くしていた。癖なのか、時々目を細めて遠くをじっと睨むような顔をする。
ふたりとも、外だろうと家の中だろうとお構いなしに駆け回り、外に出る時は、大抵、久も同伴で、一緒になって遊んだ。
「ねぇ、久。遊ぼう」
いつも通りに、勉強机に向かって宿題をしていた久の元に、穂高が笑顔でやってきた。
両手にいろいろなカードゲームを抱えている。
「あのなあ、穂高──」
不満そうな久の顔を見て、穂高は首をかしげる。
「じゃあ、テレビのゲームのほうがいい? それとも、電車のおもちゃ?」
あくまで無邪気な穂高は、久のジーンズにすがりついて、指折りに思いつく限りの遊びを並べ上げる。
もうそろそろ、夕暮れ時で、外には出られないので、室内でできるものを、一生懸命に考えている。
「穂高。俺、早くこれを片づけて、そしたら、夕飯つくらなきゃならないから、悪いけど、美珠と遊んでろよ」
久は、最近ふたりにつきあってばかりだ。家が離れてしまったせいか、ふたりは、あまり友達のところに出かけては行かない。
子供達は一日中騒いで、うるさくて仕方がないし、久だって、学校の友達とも、あまり遊んでいない。別に誰かに強制されたわけでもない。自分が好きでやっているようなところもある。
だけど、以前のように自分の好きなことが自由にできなくて、久の心は焦っていた。
宿題を再開した。しかし、穂高はいつまでたっても、そこから動かず、久はため息をついた。──穂高を見る。
「穂高、あのさ」
久のいらだった低い声に、穂高は一瞬おびえたように、肩をすくめた。
「…悪いんだけどさ……」
そこまで言ったとき、こたつの上で絵をかいていた美珠が、こちらにやってきた。挑むように久を睨み上げる。
「なによ! 久のけち。遊んであげればいいじゃない!
穂高が、せっかく、遊んでほしいっていってるんだからっ!」
──美珠のいうことは間違ってはいない。大人げないのは多分、自分の方だ。久にだって、そんなことはわかっていた。──だが、握った拳は、小刻みに机の上を叩き続けた。
美珠が、まだ何か、言おうとした。
その言葉をふさぐように、久は、怒鳴ってしまっていた。
「うるせえ!」
そういってから、久は、少し──後悔した。その思いが徐々に広がっていく。
美珠が俯くのを見て、穂高は、掴んだままだった久のジーンズを放した。穂高も俯いて、そのまま美珠のほうに歩いて行った。
まずいな、とは思ったが、なんだかどうにもできずに、久は、居心地の悪いまま、宿題に手を伸ばした。
もう、ほとんど片づいていて、残りは数問しかなかったが、それをやり終えるまでの時間が、やけに長く感じた。
振り返ると、ふたりはまだ、静かにその場に立っていた。
「...ごめん、その…もういいよ、一緒に、遊ぼう」
久がそういうと、ふたりは、顔を上げて、瞳を輝かせた。
「……ごめん」
謝る久の手を取って、ふたりは久をこたつに招いた。
嬉しそうにカードを切り始めた穂高と、何事もなかったように、絵を描く美珠を見ながら、久はなんだか不思議な気持ちを覚えた。
温かいような──不思議な気持ちだ。
日曜日。美珠と穂高の母親のお見舞いに行くことになった。
久の父親の車で病院の近くまで行き、そこで花束を買った。
美珠が嬉しそうに花束を抱えて走り、穂高がそれを追いかける。
美珠と穂高の母親は、案外元気で、面会室のソファーに座って笑っていた。温かそうなブルーの上着を着ている。机の上の色とりどりの折り紙で鶴を折っていた。
彼女が入院することになった原因は、はっきりとはわからないらしい。精神的なものらしく、最初は結構暴れたりもしたらしいが、でも、入院してからは、だいぶ落ちついて、もうしばらくすれば退院できるらしい。
美珠と穂高は、久の家に来る前にも、他の親戚の家に預かってもらっていたが、都合が悪くなって、久の家へ来ることになったのだ。
「……本当に、お世話になっていると思っています。本当なら、私が、誰よりもこの子達のそばにいなくてはいけないのに……」
彼女は、向かいに座った久と、久の父親に頭を下げ、挨拶を交わした。
久は、黙ったままで、下を向いていた。
「…久くん、手がかかるでしょうけど、どうか、この子達をよろしくお願いしますね」
そういって目の前で笑っているのに、久には、どこか──彼女が、酷く脆い存在に感じられた。
「あの…」
久が声をかけると、彼女は優しく微笑む。
瞬間、久は、自分が彼女にかけようとしていた言葉を忘れた。
「…あの……。あの…、早く、良くなって下さい。
美珠も糖高も喜ぶから……」
結局、月並みな言葉しかいえなかった。彼女は、笑顔のまま、礼をいった。
それから、彼女は、立ったままその様子を見ていた美味と穂高を、隣に招いた。
美珠が、花束と、母親のために描いた絵を渡す。
紙には、女の子が描かれているようだった。だが、その女の子は──美珠が描いた母親なのかもしれない。横には、読みづらい文字で、メッセージが書かれていた。
『おかあさん、はやくよくなってね』。
「…でねー、久ったら、いつつも、目玉焼きばっかつくるんだー」「
そうそう。いまどき料理もろくにできない男なんて、結婚できないんだから!」
「こら。穂高。久お兄ちゃんって呼びなさい。美味も。そういうことをいうんじゃないの」
目を細め、眩しげに、それを見ていた久の耳に、彼女の呟きが届いた。
「今日も…雨ね。早く晴れたらいいのにね」
▼後編▼
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