回復の泉(後編)
▼前回▼
じゅんくんは、いつだったか、私をこの店に誘ってくれた。
ほんとは根暗な私は、普段、外では明るく振る舞っていた。
バイト先でも、この店でも。
明るくするのが、嫌ではなかった。
接客業をするようになってから見つけた、私のペルソナ。
初めてここに来た日。
お酒を飲んでも、私は多少クールだった。
でも、心は騒いでいた。
当然、メッセージで呼び出された。こんなことは初めてだった。
私は素早く身なりを整えて、急いで店に来た。
じゅんくんは、私と歳の近い女の子を紹介してくれた。
彼なりの気遣いだったのだろう。
もう、名前も話した内容も覚えていない。
ロングヘアーのぽっちゃりした子だった。
連絡先を交換したかも、忘れた。
その子とカウンター席に横座りになりながら。
私の心は、少し離れたボックスに座る、じゅんくんのほうを向いてた。
『言葉のキャッチボールって知ってる?』
じゅんくんは、会話下手な私に、いろんなことを教えたくれた。
『発言する前に、ワンクッション、置いたほうがいいよ』
『話したいことがたくさんあるんだろうけど、聴く耳を持つといいよ』
優しい言葉や、自分の好きな言葉も教えてくれた。
なんでそんな話になったかは、忘れたけど、
あるとき、じゅんくんからこんなメッセージが来た。
『できる選択肢なんて、たったひとつ。
たったひとつなんだよ?
頭抱えて当然でしょ?
だから、行動するときの基準を決めておけばいいんだ』
私は、何度も。
彼のくれた、メッセージを読み直した。
感動していた。
彼のイメージが変わっていった。
いつのまにか、尊敬……していた。
……本当は、私は、
じゅんくんと、友達になりたかった。
彼なら、私の一番の理解者になってくれると思った。
夜の薬を飲む。
段々増えていく、薬。
大きさも、メーカーも、バラバラ。
円型や半月型の薬は、私の心の不安を象っているかのよう。
飲み忘れのないように、透明な、小分けのできる持ち運び用のケースに入れていた。
シートから押し出した錠剤を、水と一緒に流し込む。
濡れた口を袖で拭う。
もう何回繰り返した行為だろう。
心の病気に終わりなんて、あるのかな。
本を読むと、心の病は治るなんて気楽に書いてあるのに。
何年経っても、
私の病気は、治らなかった。
人に嫌われてばかりだった、若い頃の私。
あんなに好きだったダーツバー。
行かなくなったのは、いつからだろう。
人とうまく行かなくなったからか、
仕事が変わって、そちらに出向かなくなったからか。
病気がひどい時期があって、行かれなくなったのだっけ?
……忘れてしまった。
朝も昼も夜も。
許されるだけ、布団の中で横になりながら、いろんな人のことを思い出した。
何ヶ月も、何年も。
たくさんの人のことが、忘れられなかった。
「おまえ、心が汚ねぇじゃん」
「なんで怒ってるか、わかる?」
「あなた、イメージと違った」
「先に友達じゃないって言ったのは、あなたでしょう?」
「君とは、つきあえない」
布団の中で、頭を抱える。
目をきつくつむる。
過呼吸になりかけて、どうにか抑える。
仕事がらみで出会った人たち。
趣味の関係で出会った人たち。
インターネットで知り合った子もいたっけ。
悪いことばかりした。
悪いことばかり言った。
涙が溢れた。
頬を伝い、まくらを僅かに濡らす。
手を伸ばした。
その先に……求めるものを、探す。
誰かの、笑顔……。
助けて……。
たすけて。
朝が、また来た。
寝返りを打つと、カーテンの隙間から、陽が差し込んでいる。
私にとっては、一番、具合の悪い時間……。
……いつに間にか、眠っていた。
傍らのスマートフォンを観る。
親子の笑う、ありふれた待ち受け。
8:45
まだ、眠く、頭がよく動かない。
頭痛がする。決まって、おでこの右側。
なかなか起き上がれない。
乾燥した、喉を鳴らす。
夢を見ていた。
じゅんくん。
なぜか一緒のシフトで、レジカウンターで笑い合った。
明るい店内。
白地に、黄色いダイヤ柄の壁。
二人とも、エプロン姿。
お客様が来店するまで、
他愛のない会話を交わした。
お客様が来ると。途端に二人して接客モード。
私の声と、じゅんくんの男子にしては高い声が、弾む。
『そういうときは、
行動する時の基準を決めておけばいいんだ』
……そうだね。
私の、基準はね……
一度だけ。
じゅんくんを街で見かけた。
変わらない姿。
でも、何も言えなかった。
開きかけた口は、すぐに閉じた。
ダメだと思った。
彼は、もう、許してくれない……。
とても、とても、後悔した。
本当に、友達になりたかったんだ。
尊敬してたんだ。
なのに、
うまく伝えられなかった。
バカにしてしまった。
社員に嫌われる、彼の一面を、拡大して、
バカにして嗤ってしまった。
あのダーツバーで、彼と一緒になることは、その後はなぜか、なかった。
日野さん。
いつものボックス席で、たわいもない話。
明るいふりの私。
優してくれたけど、日野さんのことも、傷つけてしまった。
「会いたいのは、俺じゃないだろ」
口を滑らせてしまった。
大好きだった男の人に似ていると。
……ゆーちゃん。
なぜか、夢の中では、ゆーちゃんと手を繋いで、笑い合っていた。
キラキラキラキラ笑う、彼女。
細めた目に、ゴールドのラメが星のようにきらめく。
あったかい、小さくて、細い手。爪には、白い花が描かれている。
そのまま、二人で、キャバクラに入店する。
広い店内。
たくさんの席に、男女が座っている。
異常に距離が近い。
お酒のグラスも見える。
ちょっと、緊張する。
「メガネ、NGだから」
ゆーちゃんに、黒ぶちのメガネを取られる。
私は少し、唇を尖らせる。
ほっそいゆーちゃんの、艶めく赤いドレス姿の隣で、
真っ白いドレスを着、髪を染めた、色気のない私が笑う。
「ねぇ、ゆーちゃん」
私は、神妙に何か、言いかける。
……私はほんとは、
彼女のことなど、何も知らなかったんだ……
知ろうとも、しなかった。
スマホにメッセージが来ていた。
『大丈夫?』
そうだ。夜中、友達に泣き言を入れてしまったんだった。
返事を打ちかけると、
「ママ、おはよ!」
かわいい声が響く。
ひなのが起きた。
まだ、小さい、愛娘だ。
私に似た、癖っ毛の真っ黒な髪を、肩で切りそろえている。
大きな黒い瞳。よく動く、口。
大好きなキャラクターの、ピンク色のパジャマを着ている。
「……おはよ」
「ママ、きょう元気ないの?」
「……大丈夫、大丈夫だよ、ひなの」
「ほんとー?」
ひなのは勝手に起き、普段着に着替えると、一人で遊んでいる。
テレビ、お絵描き、絵本、ブロック遊び、人形遊び。楽器遊び。
一人っ子のうえ、親がこんなだから、ひとり遊びが上手になってしまった。
私はそれに甘え、もう少しだけ寝る。
布団を引っ被る。
お腹が空けば、ひなのは言ってくる。
ずっと、眠っていたい。
思い出し、寝る前に返事を打つ。
『大丈夫! いつも、ありがとう』
ダーツバーに行かなくなってからできた、友達だ。
年上の女の人。
奇跡的に続いている。
彼女が、優しいからだろう。
いまでも、友達や知り合いは、多い方ではない。
ただ、少しだけ、言葉を選ぶようになった。
あれから、私の病気は、よくなったり、悪くなったりして、
今はだいぶ落ち着いている。
薬も、病名も、その時々で、いろいろ変わった。
主治医や、クリニックでさえ、変わった。
本当にひどい時は、入院もした。
特に、秋冬、悪化した。
日照時間と関係があるらしい。
通院が嫌いだった。入院は、もっと嫌い。
幸いなことに、その後、またいろんな出会いと別れを経て、
今の私がいる。
何年か前に出会った旦那は、優しいけど、あまり話を掘り下げる人ではない。
暇な時はテレビばかり観ているし、でも、帰ってくると、ひなのとよく遊んでくれたし、家事も手伝ってくれた。
もちろん愛している。
子にはなかなか恵まれず、
不妊治療を一年程して、やっと授かることができた。
若い頃は、ひどいことばっか言ってた。
好きになった男の子ともうまくいかず。
友達になれた女の子と長く続かず。
もっと上手く生きられたら、幸せはいっぱい手の届くところにあって。
いつまでも、周りに人が溢れていたかな?
こんな寂しい夜と、
こんな苦しい朝ばかりじゃ、なかったかな?
……そう、何度も思った。
「ねぇ、人ってなんで生きてると思いますか?」
「なんのために、生きてると、思いますか?」
何度も自問した。時に、誰かに尋ねた。
……答えは、出なかった。
本当に、不器用で、相手の気持ちを思いやる余裕もなくて、
怒らせたり、逆に泣いたりしていた。
「……ごめんなさい」
「ごめんなさい」
「ごめんなさい」
くぐもった声が、口から漏れた。
手で、それを抑える。
涙がまた、溢れる。
みんな、どんな気持ちだったろう。
あの、ダーツバーに最後に行った日。
そうだ。
たしか、
じゅんくんの話をした。
「……変わってない」
久しぶりに来店した私に、
顔馴染みの女の人が言った。呆れた声だった。
店長も副店長も冷たく感じた。
どうして?
いつまでも、じゅんくんに懺悔する、心の壊れた私に、
みんな、冷たく感じた。
そうだ。だから、私は、
踵を返した。
私って、もしかして。
迷惑な客だった……?
いつから⁇
スマホの番号。
とっくにブロックされていた。
泣きながら、公衆電話に向かいかけ、
やめた。
機種変更しよう。
写真も、
大事にしていたメッセージも。
全部、
消そう。
このスマホも、
もう、捨ててしまおう。
『この先、どうしたらいいか、わからないんだ』
『そうだね。
できる選択肢なんて、たったひとつ。
たったひとつなんだよ?
頭抱えて当然でしょ?
だから、行動するときの基準を決めておけばいいんだ』
『俺の好きな言葉を教えるね』
……あぁ。もう思い出せない。
あんなに何度も、読み返したのに。
カラオケにバイト仲間と行くと、必ず彼は、歌っていた。
『ありがとうございます』
その歌詞が、彼らしかった。
心の幼なかった私。
『人にされて嫌なことをしないなんて、当たり前』
『当たり前と言われても、やっと、そう思えたんだ』
届かない言葉を、紡いだ。
「……ありがとう」
起き上がり、甘い卵焼きを焼く。
「ママー。まだ?」
「ごめんねー」
四角い卵焼き機の上で、黄色い卵をひっくり返す。
うまくいかなくて、なんとかごまかす。
何度やっても、難しい。
「おまたせ!」
二つずつ並ぶ、お皿。
卵焼きに、ウインナーソーセージ。すこしだけの、緑。
私もお腹が空いていた。
「食欲があるうちは、大丈夫」
旦那が言っていた。
今は、仕事に行っているけど。
ケチャップで汚れたひなのの口を、タオルで拭いてあげる。
朝食を終え、思い出して、カーテンを開ける。
とても、いい天気。
風が、髪を揺らす。
薬は少しずつ減り、
今の主治医とも長くなった。
だいぶ、病状は安定し、
辛いことを思い出す回数が減った。
調子の悪い時は怖くさえ感じる窓辺で、
好しだけ、顔をほころばせる。
眩さに、目を閉じる。
長くなった髪に手櫛を入れて、息を吐いた。
「ママー、見てみて!」
ひなのの声に、向き直って近づく。
大切な、宝物の娘に。
━━今でも時々、いろんなことを思い返す。
学生時代。
アルバイトなどをしていた時代。
派遣や社員を少しした時代。
暖色の照明の下。
数字の書かれた、黒や赤や緑の円形の的に、次々ダーツが突き刺さる。
沸き起こる歓声。
いろんな人たちの笑顔。
振り向く、
ひとみ。
伸ばされる、優しい手。
呼ばれる、名前。
呼び返す、名前。
そのままカウンター席に移動し、
おしゃべりしながら、新作の、蒼いお酒を飲む。
甘くて、でも、酸っぱい。
口を開きかける。
……言いたかった言葉。
━━今でも時々、いろんなことを思い返す。
そう。
……あの、
ダーツバーのことも。
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