君といたい(前編) 青空の下の迷子
━━ねぇ、母さん。男の子かなぁ? 女の子かなぁ? オレ、もう名前、考えてあるんだ。きっと、すごくかわいいよね!
そう言って笑うと、母親は小さく笑い返してくれた。
──そうね、きっと……。
嬉しくて嬉しくて、ちゃんと見ていなかった、母の顔。
──どんな風に、笑っていたのだろう……?
──早く産まれてこないかなあ。
頭上には、泣きたくなるくらいの青空──。
穏やかな陽の指す喫茶店。
心地の良いピアノの曲が控えめに流れ、テーブルを半分ほど埋めた客たちがざわめいている。
甘い香りに、苦い香り、酸っぱい香り──いろいろな香りが混ざりあっている。
品の良い絵画の飾られた白い壁に、光沢のある木目の床。窓ガラスの向こうには、道行く人たちの姿が見える。
「いらっしゃいませ!」
「かしこまりました」
「ショコラケーキとモンブランケーキがお一つずつ。紅茶がお二つですね?」
「メニューがお決まりになりましら、店員にお申しつけ下さいませ」
「こちらでございます」
「2名様ですね? 少々お待ち下さいませ」
「ありがとうございました! どうぞまたお越しくださいませっ!」
忙しく働きながらも、空《そら》は決して笑顔を絶やさない。人目のない所へ行くと静かに息を吐き出す。左手首につけた黒のデジタルウォッチに目をやる。
3時45分。
──あと15分。
……待ってろよ、月《つき》。兄ちゃんもうすぐ帰るからな。
優しいげに目を細め、空はまた働きだす。
染めているとよくまちがわれる薄茶の髪に、それより少し濃い──大きな茶の瞳。少々細めの眉に、形の良い鼻と口。少し骨張っているが、丸みのある頬。
前髪が少々長く、額に青のバンダナを巻いていた。
制服は、左胸に店名の刷られた青と白のチェックの上着に、青一色のスラックス。サイズはLで、背の高く肩幅もある空によく似合っている。
足は長く、色褪せたグレーの運動靴を履いている。
でかいわりに顔はかわいいと、空はよくバイト仲間たちにからかわれていた。
テーブルとテーブルの間や、カウンターの中や外を歩きながら、時々バイト仲間たちや腕時計。観葉植物などに目をくれているうちに、午後4時になった。
「お先に失礼します!」
「おつかれさまでした!」
制服から、秋服──青のブルゾンとブラックジーンズに着替え、空は店を出て行こうとする。
「おつかれ」
入り口付近にいた、空より2つ年上の坂口《さかぐ》が空に近づいて、「いーなぁ、空。もう終わりー? もうちょっとやってけばいーのに」
そう言って笑った。少しすねた声だった。
「わりィ。弟が待ってんだ」
空は頭に手をやってそう言ったが、もう目は店の外ばかりを見ていて、すぐに出て行きたそうだった。
「空ってほんと、弟思いだよなぁ。いーよ、行け行け」
「あぁ、じゃあな!」
店を出ると、空は歩道をダッシュした。人々の隙間を器用に縫っていく。
途中、スーパーによって、夕食のおかずを買う。月の好きな菓子も2つ3つ買った。
──月、ハラすかしてっだろーな。
月のかわいー顔と、かわいー声が頭に浮かぶ。
──兄ちゃん、遅いよ、お腹すいたぁ!
スーパーの袋を両手に下げながら、空はスピードを上げ、月の待つ我が家へ急ぐ。
「月、ただいまー!」
煤けた白い外壁のマンションの、203号室。ここが、空と月の小さな城なわけだが……。
「──月?」
月の返事がない。
「? 月? いないのか?」
──友だちのトコかな?
そう思いながら買い物袋を廊下に下ろして、空は月の部屋のドアを開ける。
「おーい、月……」
月はいなかった。
そして、なぜか、月の部屋は荒れていた。
綺麗に片づいていたはずの、机の上や棚の中の物は机やその周辺に落ち、本棚の中身も床の上に散らかっていて、それから──鏡が割れていた。空と月の兼用の姿見で、普段は月の部屋に置いてある物だが、床の上で、大小に分けられたガラスのかけらが、天井や硬張った顔をした空を映して光っている。
「……月……」
空はバンダナ越しに額を押さえた。それから、身を翻し、マンションから飛び出した。
一眼レフカメラのファインダーを通して、夕色に染まった公園を見ていた優《ゆう》は、先ほどからベンチに座って顔を伏せたままの男の子のことが気になって、結局、1枚も写真を撮らぬまま、カメラから手を離してしまった。
水色のワンピースの胸に、首からカメラを下げたまま、男の子のほうへ近づく。
「ねぇ、君、どうかしたの?」
おせっかいかなぁ……と思いつつも訊いてしまう。
どう見ても小学校低学年くらいにしか見えない男の子だ。
黒のトレーナーに、青の半ズボン姿。
──優とこの子の他に、小さなこの公園に人影はない。
「もう暗くなるよ? おうちの人が心配するんじゃないかな?
それとも、これから、塾とかお稽古なの? ねぇ、君……」
男の子が目を上げた。大きな黒い瞳と、短い黒い髪。小さな鼻に、丸い頬……。
かわいい子だなぁと、優は思う。
「ねぇ、君、なんて名前? おうちに帰らなくていいの?」
男の子はまた目を伏せてしまった。虚ろな瞳。噛み締めた唇。優はなんだか心配になってきた。なんだか、すごく、胸が痛い。
「どうしたの? ねえ、君──」
男の子の、色の薄い唇が動いた。
「ぼくは、誰なの──?」
「……え……?」
言われたことの意味がわからなくて、優は瞬きをする。
ボクハ、ダレナノ──?
「……」
風が吹いて、優の長い髪が揺れた。頭の両横で縛っていて、つややかな黒色をしているが、今は陽に当たって茶にきらめいていた。少し癖があって、緩やかにウェーブしている。
「ねぇ、それってどういう──」
優のその言葉は、突然聞こえてきた声に消された。低い中にも甘さの残る、よく響く声。
「月ーーーーっ!」
青いブルゾンを揺らして駆けてくる背の高い少年──、空だ。
「よかった! 月! 探したんだぞっ!」
優など目に入らず、空は男の子──月を抱き締める。
「……兄ちゃ……」
目を丸くして、月は空を見る。
「月! よかったぁ、心配したんだぞぉ」
空は顔を赤くして、細めた目を潤ませている。その姿は、迷子になってようやく見つけた母親に抱きつく、小さな男の子のようだ。
「に、兄ちゃん、苦しい……」
「あっ、ごっ、ごめん」
月から体を離し、その体にあちこち目をやってから、空は屈み込んで、ベンチに座ったままの月と目線を合わす。
「よかった、怪我はねぇな? さあ、帰ろ。寒かったろ? 今日のタメシはコロッケだぞ。
月、好きだろう?」
「うんっ!」
目を輝かせて、頬を赤らめる月。空はそんな月と手を繋いで歩きだそうして──今さらながら、こちらを見ている少女に気づく。
髪を2つに縛って、首からカメラを下げている。背が低い。高校生くらいだろうか?
空とあまり年齢《とし》は変わらなそうだ。丸みのある柔らかな輪部に、つぶらな二重の瞳。長い睫《まつげ》。小さめな口と鼻。親しみの持てそうな雰囲気の女の子である。結構かわいいのかもしれない。
「……あ」
気まずげに、彼女は目を逸らした。空も、首を傾げつつ、その場から離れようとしたのだが……。
突然月が駆けだして、優の足にしがみついた。
「え……?」
「お、おい、月?」
優は思わず月の体に手を伸ばし──眉をひそめた。
月は震えていた。その表情は、優にしがみついたままなので、わからないのだが──。
優の脳裏に、先ほどの、月の虚ろな瞳が浮かぶ。
「こ、こら! 月! ……すみません」
「あ、いえ……」
いきなり空に謝られ、優は少し途惑う。
「月、お姉ちゃん、困ってるだろ」
月の後ろ頭を撫でている空のほうが、優よりずっと困っていそうだ。
優は優しく月に言う。
「ねぇ、君……えっと、月ちゃんって言うのかな?
ね、月ちゃん。もう大丈夫よ。お兄ちゃんが来てくれたでしょう?」
すると、月はやっと顔を上げた。なんだか不安そうな顔をしている。
「……本当?」
「うん」
月は空のほうへ振り返った。
「……ごめんなさい、兄ちゃん。……怒ってる?」
「え?」
「ぼく、部屋、散らかしちゃったから……」
「あぁ、なんだ、そんなこと。月が無事なら、兄ちゃんはそんなことどうでもいいんだよ」
優しく空は笑って、再び月と手を繋ぐ。
「それじゃ、なんか迷惑かけてすみません、ほら、月……行くぞ」
空と月が楽しそうに去っていくのを、優は静かに見送った。
ふと胸のカメラに手をやり、その兄弟の写真を撮りたい思いにかられたが、優はそれを抑え、自分も反対側の出入り口へ向かって歩きだした。
後日、優はまた公園へ来ていた。
ここは優のお気に入りの場所の1つなのだ。
カメラを構えた優は、風に揺れる木々、青空、ブランコ、滑り台──、思うままに撮影していく、特に、木々や青空にはしつこいくらいにファインダーを向けた。
そうしているうちに、子供の高い無邪気な笑い声が聞こえて、優はそちらへ振り返った。
「あ、こないだの……」
仲良く手を繋いだ空と月だった。
今日は日曜でバイトが休みなので、空は月を連れて公園へ遊びにきたのだった。
空も優に気づいたが、すぐに目を逸らしてしまった。挨拶しようと上げかけた手を、優も下ろしてしまう。
月はそんな2人にはお構いなしに、優に近づいて、彼女の手にしているカメラを珍しそうに見上げる、黄色いポロシャツに、青い半ズボン。何気ない格好が、よく似合っている。
──相変わらず、かわいいなあ。
優は笑顔になった。赤いミニスカートの裾に手をやって、屈み込む。
「こんにちは、月ちゃん。このカメラが珍しいの? 持ってみる?」
首から外したカメラを、優は惜しげもなく、月の小さな両手に握らせる。
「重いかな? 大丈夫? そうだ、後で月ちゃんのこと、撮ってあげよっか?
っていうか、月ちゃんみたいなかわいい子なら、あたしが撮ってみたいの」
月に笑いかけ、優は空に会釈《えしゃく》する。空も軽く頭を下げた。
「こんにちは。いい天気ですね」
「ああ」
「月ちゃんって、かわいいですね。何年生なんですか?」
空は、緑のブルゾンの袖や首筋を掻きながら、気まずげに言う。
「小2。それより……いいんスか、カメラ」
「ええ」
月はカメラをおもしろそうに見回している。
「はい、お姉ちゃん」
しばらくして、月はカメラを優に返した。
優は目を細める。
「じゃ、月ちゃん撮らせてくれる?
ハイ、いくよー! うわぁ、かわいいかわいいっ!」
はしゃいで月の写真を撮りまくった優は、空にも目をやって、
「よかったら、お兄さんも一緒にどうです?」
笑った。
「いや……オレはいいっスよ」
「えー、兄ちゃんも一緒に撮ろうよぉ」
「えー?」
「兄ちゃんと一緒がいい!」
「しょーがねぇなぁ」
月にそう言われては、空は嫌とは言えない。
「じゃっ、いっかな?」
優は待ってましたと言わんばかりに、空と月のツーショットを撮りまくる。
「できたら、写真、差し上げますね」
優はそう言ってから、
「あれ? でもどうやってお渡ししたらいいのかな?」
首を傾げる。
「いや、いいつスよ、別に」
「あっ、そうだ!この公園って、よくいらっしゃるんですか?
よかったら、今度またここでお会いできたときにでも……」
「いや、いいっスよ」
「えー? そうですかぁ?」
優は不満そうだったが、
「お姉ちゃん、一緒に遊ぼう!」
と月に言われると、上機嫌になった。
2人でブランコに乗ったり追いかけっこをしたりする。月と優はすっかり仲良しになってしまった。
素手のまま、月と一緒に砂場で山を作りながら、優は砂のついた顔を上げ、
「お兄さんも一緒に作りません?」
そう言う。なんだかすごく楽しそうだ。
白いブラウスの袖が汚れているのも、気にならないらしい。
「あ、ハイ……」
その辺に落ちていた空き缶やなんやらに、空が水を汲んできて、それを砂山にかけてやると、優は月よりも喜んだ。
優と月も、入れ物になりそうな物を拾い、空と一緒になって、公園の隅の水道と砂場を何往復かする。
「砂遊びとか泥遊びって、思ってたより楽しいですね!
あははー、でも、この年になると、やっぱり子供と一緒じゃないと、なんかちょっとやりづらいですよねー」
「そうっスか? うーん、シャベルとか、持ってくればよかったかな?
月もこのごろはあんま砂遊びなんてしないからなぁ……」
「いいですよー! 手で充分! それより、トンネルつくりましょう!ね、月ちゃん!」
「うんっ!あのねっ、お姉ちゃん。
兄ちゃん、トンネル作るの上手なんだ!」
「本当? すごいねぇ!」
空がまんざらでもない様子でトンネルを掘り始める。
月と優は、反対側から2人でトンネルを開いていく。
「──できたっ!」
空がそう言って、月と優のほうを向くと、いきなり優に写真を撮られた。
「え?」
いつのまにか月と一緒に、空に全部任せて様子を見ていた優は、ちょっと申しわけなさそうに、でも、得意げに笑った。
「すみません、勝手に撮っちゃって。でも、お兄さん、すごくいい表情してたから」
「そ、そうっスか?」
「そうですよ! ねー? 月ちゃん」
「うんっ!」
優と月は目を輝かせている。
「そっかなー? じゃっ、月、次は何しよっか?」
「うーんと……えっと、高鬼!」
赤やオレンジやサーモンピンクにグラデーションした夕焼け空の下、空は眠たそうに目を擦《こす》る月の手を取りながら、優にお礼を言った。
「今日は本当にどうも……。月、すごく楽しそうでしたよ。こんなに派手に遊んだの久しぶりだから、月のヤツ、すっかり疲れちまったみたいで……」
「いいえ。あたしも一緒になって遊んで、すごく楽しかったですから。
あ、おうち、どちらの方向ですか? あたしの家はこの近くなんですけど……。
えっと、あたし今日ちょっと駅前のお店に用事があったの忘れてて、月ちゃんたち、前に、あちらの出入り口から出て行ったでしょう?
おうち、もしかしたら駅の方角ですか? よかったら、ご一緒しませんか? 途中まで」
「え? あぁ……そうっスか? うーん……。じゃ、行きましょうか」
優は公園まで自転車で来ていたので、それを押しながら、空と月と一緒に歩いた。夕日が眩しく行く手で輝いている。
月は歩いているうちに寝てしまいそうな様子だったので、空がおぶって、そのまままた歩いた。そのうち月は本当に眠ってしまった。
「かわいいですね。いーなぁ、あたしも弟が欲しーなぁ」
「何人兄弟なんスか?」
「3人。でも、女ばっかりなんですよ」
そう言って微笑む優。その姿からは、彼女の姉妹や家族に対する愛情が窺える。
空は思わず目を逸らした。
「どうかしました?」
「いや……」
背負ったままの月のほうに首を向ける空。なんだか辛そうだ。
「月のヤツ……このごろなんか少し変なんだ」
「月ちゃんが?」
「うん。この前、部屋をめちゃくちゃに荒らしてたし……なんか、もしかしたら、月……
学校でうまくやれてないのかな……って……」
「そんな……」
空も優も口を噤《つぐ》んだ。沈黙が続く。
その後またたわいない話をして、やがて、優のカメラの話になった。
「あ、えっとー……実はあたし、カメラマンになりたくて、雑誌に写真送ったりしてるんです」
「へぇ……すごいなぁ」
「い、いえ、そんな、全然……!
1回も載ったことないし……」
「でもすごいよ」
「そんなことないです。お兄さんは、何かなりたいものってあります?」「あー? うーん……」
空は頭を掻く。
「……っていうか、その『お兄さん』っていうの、やめない?」
「え? でもあたし、お兄さんの名前、知らないし……」
「……逢海《おうみ》 空」
「空?」
優は目を見張った。
「空っていうんですか! 本当に!」
「……う、うん。ヘンかな」
「全然! あ、あの、あたし、空って大好きなんです! 木も好きだし、花も好き。あ、もちろん月も好きです!お兄さんの親御さん……かな?
名前つけた人って、ネーミングセンス最高です!」
「……そんなこと、ねぇけどな……」
「でもあたし、気に入っちゃいました! 空に月。なんかいいですね。そういうの好きなんです、あたし」
「……月は、本当は月明《つきあき》っていうんだ。月明かりって書いて、月明」
「へー、そうだったんですか? なんかそれもいーですね」
上機嫌の優。空は小さくため息をつく。
「……あんたは?」
少々ぶっきらぼうに空は言った。
「なんて名前?」
「え? 言いませんでしたっけ? 須崎《すざき》 優です。えーと、優しいって書いて、優です」
優しい。
……なんだ、「空」や「月」なんかより、ずっといい名前じゃないか……。
空はそう思った。
「えっと、じゃあ、空さんって呼んでいいですか?
空さんっておいくつなんですか?」
「15」
「15……って、高1? あれ? なんだ、あたしのほうが年上なんだ?」「……須崎さんは?」
「16。高2」
「へー……」
なんだか空は興味なさげな声だ。適当に目線を泳がせ、あくびを一つ噛み殺す。
「うーん、じゃ、空くんって呼んでもいいですか?
空さんってのもいいけど、空くんのほうが似合ってるかも」
「別にいーけど。あ、じゃ、オレこっちだから」
横道を指差して、空が言う。
「あ、うん。じゃ、あの、あたし、よくあの公園にいるから。よかったらまた、月ちゃん連れて遊びに来てください!」
「……ああ」
優は、空と月に手を振った。背を向けて、駅のほうへ駆けだしながら、カメラを両手で押さえる。
──今日は、いい写真が撮れた。
……でも、月ちゃん、大丈夫かな……?
優は、不安げに後ろを振り返った。
もう、空と月の姿は見えなかった。
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