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君といたい(中編) 雨に濡れた秘密

▼前回▼


小学校。休み時間。子供たちの騒ぎ声を遠く聞きながら、月は男子トイレの手洗いの前に立って、四角い鏡を見つめていた。
 子供用に低い位置に取りつけられた鏡には、月の生気のない顔が映っている。
 月は鏡に向かって右手を伸ばした。
 黒い髪、黒い瞳。
 鏡の中の自分が嘲笑っているように月には思えてならない。
 月は徐ろに拳を握った。足を開いて、肘を引く。
 ガラスの割れる音が響いた。

 雨が降り始めた。
 優は公園のベンチに座っていた。
 手にしていたカメラを、ホワイトパーカーを着た胸に抱える。今日はブルージーンズを深いていた。活発そうに見える。結構似合っていた。
「……今日は、来ないのかなぁ」
 つまらなそうに辺りを見回す。
 雨に濡れてしだいに色彩を濃くしていく土や草。頭上の雲のせいか、周囲が小暗い。先ほどまでは、もっと明るかったのに。
「雨の写真でも撮ろうかなー。でも、このままじゃ濡れちゃうし……」
 ──傘を取りに行こう。
 優は一端、家に引き返した。

 公園に戻ってきた優は、そこにたたずむ月の姿に息を飲んだ。
「月ちゃん⁈ どうしたの、びしょぬれじゃない!」
 傘を月の頭上に差し出し、優は屈んで月の顔を覗き込もうとする。
「⁈ 月ちゃん、手! 怪我したの⁈」
 白い包帯が、月の右手には巻いてあった。
「うん、ちょっと……学校で。
 でも、保健の先生に手当してもらったから」
 力なく、月は微笑んだ。髪からも、グレーのポロシャツからも、緑の半ズボンからも、水が滴っている。
 元から色の薄い唇は、ほとんど色を失くしている。黒い瞳は疲れたようにどこか──遠くを見ている。表情が乏しい。
「と、とにかく、このままじゃ風邪引いちゃうよ!
 よかったら、うちに来ない? すぐ近くだから」
「……うん」
 どこか投げやりに、月は言った。

 優の家は二階建てだ。白い外壁に、青い屋根。庭が狭いのが玉に瑕《きず》だけど、優はおおむね満足している。
 父と母と、姉と妹、そして優の5人家族だ。
 姉は独立して家を出たものの、近所に住んでいるので、気が向くとここに帰つてくる。
 父は会社、母もパートに出ていて、2人ともまだ帰ってきていない。
「お姉ちゃん、どうしたの、その子?」
 妹の望美《のぞみ》が、リビングから出てきてそう言った。
 望美は今、中2だ。丸みを帯びた顔。ちょっと気の強そうな瞳。低めの鼻。色の良い口。肩に届かない程度のストレートの黒髪。
 最近よく頬にできたにきびを気にして、洗顔している姿を見かける。
 いつもはテニス部に出ていて帰りが遅いのだが、今日は休みなのだろうか。
 オレンジのトレーナーを着て、ホワイトジーンズを穿いていた。
 TVでも観ていたらしい。どこか機械的な話し声が玄関まで漏れてくる。
「知り合いの弟さん。びしょぬれだから、お風呂にでも入れて、着替えさせて、何か温かい物でも飲ませてあげたいんだけど……」
「お風呂沸いてないよ」
「そうよね。じゃあ、シャワーか。それでもいいかな、月ちゃん?」
「……」
「じゃ、行こうか」
 玄関から、バスルームに向かう優。月がその後をついていく。
「えっと……使い方はわかる? 手伝ってあげよっか?」
「……いい。1人でできる」
「そう。じゃあ、着替え用意してくるね」
 優はリビングへ向かう。
「ね、望美。なんか、子供用の服ってない?」
「ないよ、んなの」
「うーん、どうしようかなぁ」
 ソファーに座って、TVを観ながら、望美はしばらく考えてくれた。
「そう言えば、お父さんとお母さんの部屋の押し入れになんかあったような……今もあるかわかんないけど」
「サンキュー」
 2階の両親の部屋は和室だ。笹の描かれた襖《ふすま》を開け、勝手に中に入る。
「うわー、うそ。なんでこんなに一杯取ってあんの?
 こんなん取っとくのは、お母さんだろうなぁ、きっと」
 懐かしい服が出てくるわ出てくるわ。優は思わず嬉しげにそれらを眺め回すが──取ってあるのは、どれもこれも母好みのかわいい物ばかり。
「月ちゃんにスカートはちょっとなぁ……」
 探しまくって、優はやっと半スボンを見つける。色とりどりの水玉模様の、これまたかわいい奴だが、この際、月にはこれで我慢してもらおう。 
 上は黄緑の地の小花柄。これでもまともなほうなのだ。
 ──月ちゃん、ごめんね。
 あぁ、でも、下着はどうしよう?
 こうなったら、下着も我優してもらおう。直接服だけ着てもらおう。
 なんだかちょっとひどいことを考えて、優はその服をもって部屋を後にする。
 ちなみに、部屋の中は女の子用のかわいい子供服で散らかったままだが、優は細かいことは気にせず、バスルームへ直行する。
 ──仕方ないから、とりあえずこれに着替えてもらって、月ちゃんに家の電話番号を教えてもらって、それで空くんに連絡しよう。
 そう決めた優は、バスルームの手前の更衣室兼洗面所のドアを開ける。
 ちょうど、シャワーを終えた月が、バスルームから出てきたところだった。
「あ、月ちゃんごめんね、こんなのしか──」
 月は顔色を変えた。何も言わず、バスルームへ取って返す。野良猫が逃げ去るかのような素速さだった。
 ドアを閉め、中から鍵もかけてしまったらしい。
「──……え?」
 優の顔が硬張る。一瞬見えた、月の背中。それに、胸や腹にもいくつか……たぶん、あれは打撲傷だとか打ち身だとかいうやつ……。
 そう。──月の体には、たくさんの傷があったのだ。

 優は泣いていた。
 悔しくて悔しくて泣かずにはいられなかった。
 なんとか着替えさせた月を、優は自分の部屋へ連れてきた。
 何度訊いても、月はその傷のわけを話してくれない──。
「どうして、月ちゃんがこんな目に遭わなきゃならないの……?」
 月は何も言ってくれない。
 それでも、優は月から自宅の電話番号だけは聞き出した。部屋の子機を使って、空に電話する。
 空はいた。バイトから帰ってきて、月の帰りをずつと待っていたのだ。
「……空くん?」
 泣き声を隠しもせず、優はすべてを空に話した。

 空はすぐに月を迎えに来た。青いブルゾンに、灰色のスラックス。いつも通り、青いバンダナを巻いている。
 玄関先で待っていた優が、家の中で待っていた月を外へ連れてくる。彼女の瞳はまだ涙で濡れている。
 空は月を連れ、そのまま家へ帰ろうとしたが、優がついてくると言って聞かない。
 仕方なく、彼女と一緒に歩きだす。優は、月をマンションの前まで送っていく気らしい。
 空の青い傘と、優の赤い傘。
 月は空に手を引かれ、その横を、優が歩く。
 月は俯いていた。空が来たときは嬉しそうな声を上げたものだが、優がずっと泣いているため、笑えなくなってしまったらしい。
「ひどいよ、ひどいよ、どうして──?」
 取り乱した優を、空は心配げに眺め、月のほうに少しだけ目を移してから言う。
「……月、今日、学校で鏡を割ったらしいんだ……」
 月の細い肩が一瞬震えた。
「先生から電話もらった。素手で、鏡殴ったって……」
「そんな、どうして……?」
 優が月を見る。空は庇うように月を引き寄せて、厳しい目で、優を睨む。
「月を、攻めるなよ──」
「あ、あたし、そんなつもりじゃ……」
「月、気にしなくていいんだぞ。でもな、月、体は大事にしなくちゃだめだぞ。
 お姉ちゃんだって、こんなに心配してくれてるだろう?」
「……うん」
 繋いだままの、空の手を見たまま、月は小さく呟いた。
「……兄ちゃんは?」
「え?」
「兄ちゃんも心配した?」
 瞳を上げる月。月の黒い瞳と、空の茶色い瞳が合う。
「当たり前だろ」
 空は笑って、月を小突いた。月が嬉しそうに笑う。
 そのまま、兄弟《ふたり》は楽しそうに戯れる。
 それを見て、優もやっと笑う。
 やがて、月と空の住むマンションの前についた。
「ここの2階に住んでるんだよ。……203号室」
 月が優にそう言った。その一瞬、なぜか月はすがるような目をしたのに、優は見逃してしまう。
「へぇー……そうなんだ」
「月、先に部屋へ行ってる。兄ちゃんは、お姉ちゃんを送っていくから」
「え? いいんですか?」
「ハイ。服は、今度、ちゃんと洗濯して返しますから」
「あ、なんかすみません……」
 恐縮している優に、月が言う。
「優ちゃん、また遊ぼーねっ!」
「う、うんっ!」
 嬉しそうな優。空が優と一緒に踵《きびす》を返す。
 月はマンションの階段を上がる。ふと、その足を止めた。振り返る。
 空と優が傘を差して並んで歩いていくのが見える。
 月はまたあの虚ろな瞳《め》をして、それを見送る──。

「……月ちゃん、学校で何かあったのかな?」
 優が心配そうに言う。
「あの右手。それに……あの背中」
「……」
 空は無言だ。優は顔を上げる。
「空くんは、知ってたの……?」
「……そりゃ、オレは、あいつと風呂入ったりするから」
「そう。……ご両親は、なんて言ってるの?」
「──いない」
「……え?」
「いないんだ、両親《ふたり》とも」
 優は目を見開き、俯いた。
「ごめんなさい……」
「別に。もう何年も前に蒸発したんだ。最初は父さん、次が母さん。
 それからは月オレのふたりっきりだ。
 母方のじーちゃんとはーちゃんが、オレたちの生活費は出してくれ
てるんだ。
 結構金持ちらしくってさ。一緒に住もうとも言ってくれてるんだけど……」
「え、じゃあ、ご飯とかどうしてるの? 洗濯とかいろいろ……」
「オレがやってる。月も少し手伝ってくれてるし」
「すごーい! 空くんって……えらいな」
「別に、えらかねーよ」
「そんなことないよ! あたしだったら、妹と2人っきりで、妹の面倒見るなんてできないもん! 
 まぁ、うちのはもう中学生だから、まだいいかもしんないけど……」
 感心している優を、空は少しうざったそうに見て、目を逸らした。
「すごいなぁ、空くん。家事したり、月ちゃんと遊んだり、学校行ったり……。
 あたしなんか、ただ学校行って、写真撮って……それだけでも、もっともっと時間欲しいなぁって思うのに」
「──学校は行ってないんだ」
「え?」
 空が急ぎ足で角を曲がる。優がそれを追う。
 背の高く足の長い空の歩幅は、小柄な優とはかなりの差がある。
 角を曲がった所で空は優を待ち、優に合わせてまたゆっくりと歩き
だす。
 駅に近いせいか、雨だというのに人気《ひとけ》はある。
 車が何台も走っていた。電灯が光っている。
「オレ、朝と昼はバイトしてるんだ」
「じゃ、高校は……」
「辞めた。じーちゃんとばーちゃんが行けってうるさかったから、入るだけは入ったんだけど……。
 オレ、勉強って嫌いなんだ。
 世話になってばっかいられないし、そのうちちゃんとした会社に入るつもり」
「……」
「月がまだ小さいし、できるだけそばにいてやりたいから、残業とかやんなきゃなんねーとこはヤだけど」
「空くんって……」
 優が言う。どこか少し途惑っている様子だ。
「月ちゃんが、本当に好きなんだね?」
「……そっかな」
「うん。なんか空くんってすごいと思う」
「そんなことねーよ。須崎さんのほうが、ちゃんと学校行ってて、カメラマンなんて夢があって、それがんばってて──そっちのほうが、ずつとすげーよ」
「そ、そうかな? あ、そうだ。空くんさ、空くんには、夢とかってあるの?」
「え? あー……うーん」
「空くんが月ちゃんのこと好きなのはわかるけど、あたしだったら、何か自分のためだけに、自分のやりたいことをできない──なんてのはヤだなぁ」
「オレは別に。月と一緒にいられるだけで幸せだから」
「……そんなもんかな?」
 優にはよくわからない。
「あ、でも趣味とかってあるでしょう?」
「うーん……。オレは月といられればそれで満足だから」
「でも、月ちゃんが寝た後とか、なんか自分の好きなこととかやったりするでしょう?
 月ちゃんと一緒でも、TV観たりとか、本読んだりとか……。
  空くんって、なんとなくスポーツとか似合いそうな感じするけど……?」
「まー、TVも観るし、まんがとかも読むけど。
 オレにはやっぱ月のほうが大事だから」
「じゃあ、空くんにとっては、月ちゃんが──夢なの……?」
「さぁ?」
 そんなことを話しているうちに、優の家の前まで来てしまった。
「じゃあ、服、今度の日曜にでも返しにくるから」
「あ、うん。また、あの公園で……!」
 優は、雨のなか傘を差して帰っていく空を見つめた。
 ──なんだかいい絵になりそうだなぁ……。
 とか思いながら。

 その夜。
 優はベッドの中で、月のことを考えていた。
 あの背中が──どうしても忘れられない。
 思い出すとまた涙が出てくる。
 ──……あれは、同学年の子にやられたって感じじゃなかった。それも1度や2度のことじゃない? もっと年上……? 上級生? まさか、先生……?
 優はなかなか眠れなかった。

 月が鏡を見ている。
 空が新しく買ってきた姿見だ。
 華奢な体に、緑のポロシャツを着、紫色の半ズボンを穿いていた。
 まだ包帯の取れない右手で、硬そうな黒髪をしきりに撫でている。
「おーい、月!」
 空の声。月は振り返る。空が部屋へ入ってくる。
 黒のブルゾンを着ている。茶色の猫っ毛の間から、青のバンダナが覗いていた。
「公園行くぞ」
「……うん」
 月はもう一度だけ、鏡を睨んだ。

 空が、月を連れて公園へ来ると、もうそこには優が来ていた。
 日曜だというのに、彼らの他に誰の姿もない。
 ブランコに座っていた優が、笑顔で駆け寄ってくる。
「ハイ、これ」
 紙袋を、空は手渡した。受け取った優は、その中を覗き込む。アイロンのよくかかった、この間、月が着ていた服──。
「ありがとう」
 髪を掻き上げて、優は言う。白いブラウスに、ピンクのスカート。いつも通り、首に下げたカメラ。
 相変わらず、月は優によく懐いている。やっぱり、母親が恋しいのだろうか? そんなことを思って、空は少しだけ落ち込む。
 でも、月がすごく楽しそうにしているから、空はそんな考えを振り払い、彼女と一緒になって月と遊んだり、2人が笑い合っているのを見て、目を細めたりする。
 優はまたたくさん写真を撮ってくれる。空は優に断って、そのカメラを貸してもらって、月と優のツーショットを撮ってみた。
 たぶん、月が喜ぶはずだと思ったから。
 月もまねして、空と優のツーショットを撮りたいとせがんだが、空はそれはやめさせた。

 空が3人分の缶ジュースを買いに行った隙に、月は訊いた。
「優ちゃんは、兄ちゃんのことが好き?」
「──えぇっ⁈」
 滑り台から降りたばかりの優は、驚いた声を上げた。
 顔を赤くして、月を見下ろす。
「兄ちゃんと結婚する気ない?」
「えぇぇっ⁈ な、なに言ってんの、月ちゃん⁈」
 優は笑い飛ばしたが、月は本気だ。
「兄ちゃんを、幸せにしてあげてほしいんだ」
 月は時々大人びた表情をする。優は途惑ってしまう。
「月ちゃん……」
「──イヤなら、いいよ」
 月は優に背を向けた。
 優は途惑ったまま、考える。
 ──そんなこと言われてもなぁ……。
「妹がいるんでしょう?」
 月がこちらへ顔を戻した。
「かわいい?」
「え? あ、どーかなぁ。妹っていっても、月ちゃんよりずっと大きいし……」
「──かわいい?」
「え? う、うーん……」
 優は頬を掻く。しゃがんで、月と目線を合わせる。
「誰にも内緒よ?
 ……本当はね、かわいいっていうのとは少し違うかもしれないけど、すごく、好きなの。空くんには全然かなわないけど……。
 大嫌いって思うときもあるし、よく、ケンカもするし、ウルサイって思ったりもするけどね」
 空くんにはかなわないけどね──もう一度優がそう言うと、月は俯いて、肩を震わせた。
「──月ちゃん……?」
 月が目を上げた。

 自販機のボタンを押して、ジュースを買う。3本ともコーラ。それを持って、空は公園へ引き返す。
 ──月……。
 月の顔ばかり、頭に浮かぶ。今日は、優のおかげか、とても元気そうで、少し安心したのだが……。
 ──大丈夫かな、月のヤツ……。 
 眉根を寄せて、空は思案する。
 ──……。
 長く息を吐き出す。不安げに瞬きをする。
 何か、小さく呟いて、空はいつのまにか止まっていた足を、再び動かした。

「……キライだ」
 震える声で、月が言う。
 黒い瞳から、涙が込み上げてくる。頬を伝う。
「優ちゃんなんか、大っキライだっっ!」
 月が優の胸を叩く。何度も何度も何度も──。
「えっ、ちょっ、月ちゃん?」
 小さな子供の拳だ。我慢できないこともない。
 それより優には、月の言葉のほうが痛い。
「大キライだ大キライだ大キライだ!」
「月ちゃん?  月ちゃん⁈ 月ちゃん!」
「──月?」
 空の声が響く。
「なにやってんだよ、月!」
 月を優から無理に離して、空は月を見つめる。
「どうしたんだ、月──」
「優ちゃんが悪いんだよっ!」
 月は優を指差す。 
 かたくな瞳。敵に向かって吠え続ける犬のようでもあるのに、どこか
途惑ったような、傷ついた──裏切られたような顔。
「月っ!」
 空が怒鳴る。首を振って、微しく泣き声を上げる月。
「月、謝れっ!」
「そ、空くん? い、いいよっ、月ちゃんを怒らないでっ!」
「月!」
「──優ちゃんが悪いんだっ!」
 溜め息をついて、空は優に目をやる。
「ごめん。これ……」
 空はコーラを3本とも、優に押しつけた。
「え?」
「家の人とでも飲んで。──月、帰るぞ」
 月の手を引っ張って、空が去っていく。
 1人残された優は、コーラを抱えてしゃがんだまま、瞬きを繰り返した。
 ──月ちゃん……。
 どうして……? 空くんと結婚するって言わなかったから、怒ったの……?

 マンションにつくと、月は自分の部屋にこもってしまった。
 ──どうしたんだろ、月のヤツ.....。
 息を吐いて、空は少し遅い昼食を作り出す。
 ──ハンバーグにするか。
 冷蔵庫の中を覗いてそう考える。
 材料を取り出して、タマネギをみじん切りにし、それと挽き肉やパン粉を交ぜ、平たく丸い形に繋える。
 月の分と自分の分、一つずつだ。 
 フライパンをガスレンジに載せ、油を敷き、手慣れた仕種でそれを焼く。
 ハンバーグの他にも、レタスとトマトのサラダや胡瓜の漬け物、コーンスープ、切り分けたりんご、グレープジュースと、月の好物尽くしにする。
 居間兼茶の間のローテーブルにそれらを載せ、空は月を呼びに行った。
「月、メシだぞー!」
 月の部屋のドア。中から返事はない。空は頭を掻いて、ノブに手をかけた。
 ──開かない。内側から鍵がかけられている。
「月! 月! 開けろ! 兄ちゃんもう怒ってないぞ!」
 いくらノブを回しても、ノックしても、一向に埒《らち》が明かない。 
 空は月の分だけ盆に載せて、月の部屋のドアのそばにそれを置く。
「月、メシ、ここに置いとくからなっ!」
 茶の間に戻って、1人で箸を手にする。使い込んだ蒼い箸。
 そのまま黙々と食事を取る。
 月がいないと、ひどくつまらない。
 味も匂いもあまり感じられない。
 空の目が狭まる。

 疲れた顔をした母親が、泣いている。
 ──母さん、なんて言ったの……?
 掠れた呟きは、泣き声に掻き消される。
 1人、公園のブランコの上に自分が座っている。
 足下の水溜まりに映った顔が歪んでいる。
 誰にも言えなかった言葉を何度も何度も口にした。
 決して見せなかった涙が落ちた。
 ──どうして? そんなのヤだよ──!
 気が狂ったかのように、自分が吠えている。
 頭が痛くて、体が熱くて、耳の中で何かが渦巻くような音がしていて一ー、何も考えられない。
 母が怯えた顔をしていた。
 優しかった父に、多分初めて殴られた。
 嫌われたくなかった。
 でも、抑えられなかった。
 ──ヤだよ!!

 物音に、空は顔を上げた。
 昔のことを思い出していたらしい。首を横に振る。
 どうやら月が部屋から出てきたようだ。
「月!」
 笑顔で月の元へ向かった空はしかし、途中でその足を止めた。
 耳障りな音が響く。
 月が盆をひっくり返したのだ。皿が倒れ、りんごやトマトや胡瓜などが散らばり、スープがジュースが床を汚す。
「月──?」
 月は笑っていた。笑って、空を見ていた。
 狂った獣のような、瞳。
「月、大丈夫か……?」
 空はタオルを取ってこようと思った。
 月はわざと盆をひっくり返したのだ。空の目の前で。
「……う”……」
 不意に、空は呻いて、額を押さえた。バンダナの巻かれた額の内──頭が、イタイ……。
「……兄ちゃん?」
 月の瞳が揺れた。心配そうに駆け寄る月に、空は言った。
「──オマエハ、ダレダ──?」

 あれから、月と空は公園にはやってこない。
 優はひとり、公園のベンチに座ったまま、溜め息をついた。
 頭上を仰ぐ。
 風に揺れる木々の葉から洩れる眩しい夕映え。
 静かに形を変えながら、流れていく雲。
 ──月ちゃん、まだ怒ってるのかな……?
 もう十日以上経つ。
 優は、膝に置いた拳に力を込めた。
 ──よし、決めた!
 勢いよく立ち上がる。
 ──謝りに行こう。

 マンションの前についても、優はなかなかそれ以上前へ進めずにいた。
 あと少しの、気が足りない。
 今日は、カメラの代わりに紙袋を持ってきた。優の手のひらよりも少し大きなくらいのサイズの、青と白のストライプの奴だ。
 それに目を落とし、もう一度決意を固め、2階へ向かう。
 ……たしか、203号室だったよね?
 月が教えてくれたのだ。
 203号室。表札は、「逢海」。
 ──あ、「おうみ」ってこういう字なんだ……?
 部屋のドアの前を行ったり来たりする優。
 マンションの外へ振り返ると、紺碧の夕闇。
 全くしないと、真っ暗な夜空へと変わってしまう。
 風が、髪をなぶる。頬が、冷たい。
 ──もう、月ちゃんも、空くんも、帰ってきてるよね……?
 目の前のドアを見つめ、
 ──月ちゃんか空くん、出てきてくれないかな?
 そんなことを思う。だが、願いが叶う気配はない。
 ……やっぱり、また明日にしようかな……。
 優は水色のツーピースの裾を揺らし、元来た道へ戻ろうとする──。
 その時。部屋の中から、月の声がした。
 ──月ちゃん!
 優は振り向いたが、何か様子がおかしい。空の声も聞こえる。口論している。月の声が泣いている。叫んでいる。
「もうイヤだっ! 兄ちゃんなんかキライだっっ!」
「月!」
「来ないでっ!」
「悪かった! 月! 許してくれ!」
「やだっ‼︎」
 動けずに、優はただ、耳をそばだてる。
「月! 月──……!」
「兄ちゃんなんかっ、兄ちゃんじゃない──っっ‼︎!」
 ガラスの砕ける音。
「こんな顔っ、大っキライだっっ!」
「月、大丈夫か⁈ 怪我してないか⁈」
「誰なの誰なのぼくは誰なのっ──‼︎」
「──ツキ」
 月の悲鳴。
「痛い! やめて兄ちゃんやめてーー‼︎」
「ダレダト──? ソンナコトコッチガキキタイ」
「やめてやめて兄ちゃん──‼︎」
 事態の異常さに、優は我を忘れた。
 無我夢中で玄関のドアを開ける。鍵はかかっていない。
 そのまま声のするほうへ走る。声のする部屋──月の部屋──のドアを開ける。


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