わたしのロツレチハヒ【第3話「音楽室で反論」】
音楽室はいい匂いがする。
わたしはがっしりとしたドアを開けると少し背中を反らせるように鼻から息を吸い込む。
正面には黒光りするグランドピアノが風格を漂わせている。
隅っこながらドラムセットも見えるし、奥にはサックスやトロンボーンなどが入った黒いケースで埋まる吹奏楽器専用の部屋がある。
もう一つの収納室にはクラシックギターがずらりと並び、傍らの壁に琴や三弦が置かれていた。
音楽の授業や部活動で長年使われてきた楽器たち。材質は木や真鍮のような金属、動物性のものだろう。
歴史とともに少しずつ放ってきた微粒子が床や壁、絨毯やカーテンに染みこんでいるはずだ。
防音のためにドアや窓が分厚くてしっかりしているから、なおさら匂いが充満しているのかもしれない。
邦楽部は各パートだけの練習だと和室を使うが 合奏の練習やミニ発表会は音楽室で行うことが多い。
この日は、全国大会に向けて合奏練習を行う予定だ。
わたしは他では味わえないその香りを感じたくて少し早めに入った。
運良くまだ誰もいない。
伸びをしながら思いきり深呼吸する。何度か繰り返して音楽室の空気を満喫した。
充実感と開放感に浸っていると話し声が近づいてきた。
視線を向けたところ、じんさんと副部長の美雪さんの笑顔が目に入る。
わたしは反射的に楽器収納室に入って身を隠す。なぜそのような行動をとったのか自分に対して違和感を持った。
「ボクは山本邦山と沢井忠夫のコラボが一番好きだなぁ。春の海から斬新なジャズとのコラボまで何をやってもすごい」
「そうね。沢井忠夫先生と沢井一恵先生は夫妻とも素晴らしいわ。春の海は青木鈴慕さんと宮城喜代子先生の演奏が印象深いかな」
「ああ、あの春の海はボクも鳥肌が立ったよ。青木鈴慕の入魂の音はもちろんだけど、宮城喜代子もすごい。作曲した宮城道雄の門弟だけはあるよね」
なんだか二人ですごく楽しそうにおしゃべりしている。わたしは「山本邦山先生」と「春の海」しか知らないが、邦楽の話題で盛り上がっていることはわかる。
嵐山美雪。二年生。副部長で琴のパートリーダー。母親が琴の師範と聞く。
出て行くタイミングが掴めずドキドキしていると、賑やかな話し声が近づいてきた。
「おつかれさまでーす」
あのわざとらしいほど明るい挨拶はまりなだな。ありがとうまりな。助かったわ。
田中浩二と三弦パートの倉田唯も挨拶しながら入ってきた。
わたしはどさくさに紛れて、さりげなく収納室から顔を出して声をかけた。
「おつかれさま」
「あ、かなえ。ここにいたんだ。一緒に来ようと思って探したのよ」
「へへ。音楽室の空気を吸いたくて先に来ちゃった」
うまくいった。じんさんと美雪さんはわたしに気づいていない。
収納庫に隠れていたのを知られたら、なんと説明しようかとドキドキしていたのだ。
見つからずにホッとしたものの、全く存在を認められていないようで寂しくもある。
やがて2年生と1年生の部員が揃うと、じんさんが表情を引き締めた。
「よーし、じゃあそろそろ始めよう。『湖北物語』を合せるから、パート毎にセッティングして」
「琴はまず立奏台を定位置に並べてちょうだい。三弦と尺八の人はイスと譜面台ね」
じんさんに続いて副部長の美雪さんが細かく指示する。
琴は楽器を収納庫から慎重に運び出さなければならない。そのうえ琴を乗せる台も必要なので準備が大変だ。
三弦は壁掛けから外して持ってくればよい。軽いからさほど力はいらぬ。
学校の備品には尺八がない。だから尺八パートの部員はそれぞれ自前の楽器を持参するのだ。すでに手の中にあるから、全体のイスと譜面台を準備することになる。
さらに琴と三弦は調弦が必要だ。とくに琴は13弦や17弦を合せるため時間がかかる。
わたしは調弦している姿を見るのが好きだ。準備の手を止めると叱られそうなので、気をつけてこっそり覗く。
三弦はギターのチューニングと似たような合わせ方をしている。弦は三本しかないが、それぞれ耳を頼りに調律するから難しそう。
琴は絃を支える白い柱を移動させるから所作が独特だ。箏柱(ことじ)を動かせば音程が変わる。素早くあわせていく所作は見ていて飽きない。
なんて暢気に構えているわけにはいかない。尺八も少し離れたところで吹きながら音程を確かめる。
実は練習前に各自で音出しをして尺八と体を温めておかねばならない。そう考えれば準備が一番大変なのは尺八かもしれない。
「じゃあ、まずはやってみよう。『湖北物語』を合奏するのは初めてだから全体の感じをつかむように」
じんさんはそう告げて自らも尺八を構えた。
『和楽器のための組曲「湖北物語」』は琴の13弦と17弦、三弦、尺八の編成による現代邦楽曲だ。演奏時間は17分ほどになる。
いつものことながら最初の合奏では残酷な現実を突きつけられる。
わたしは演奏を続けることに精一杯で、全体の音を意識する余裕などなかった。
自分のパートでさえミスばかり。もし一人で吹けと言われたら、不甲斐なさに顔から火が出ただろう。
「だいたいわかったな。こんな感じだ。徐々にまとまるようにしたいから、個人練習をしっかりやっとくように」
じんさんも予想はしていたのだろう。合奏を終えて細かくダメ出しすることもなく淡々と話す。無表情だからかえって不気味に感じる。
尺八パートはとくにテンポとメロディーがずれていたので心中穏やかではないはずだ。わたしは彼の立場を思って申し訳なさからうなだれた。
だが人間は何を考えているかわからない。
「今度の全国大会はこの『湖北物語』で目指そうと思う。副部長とも相談して座奏でやることにした」
その瞬間、わたしは丸まった背中を真っ直ぐに戻した。
じっと前を見る。
頭の中で脳細胞が侃々諤々のせめぎ合いをはじめたときの症状だ。
脳細胞の仕事ぶりは早い。しかもAIではできそうにない決断を下す。
答えは1.5秒で出た。
「わたしは反対です。正座しながら演奏してパフォーマンスが上がるとは思えません。それにこれまで先輩達も全国大会で座奏してませんよね」
まるで時間が止まったかのようだ。空気の流れがまったく感じられなかった。
「かなえ。さすがだよ」
隣でまりなが囁いた。
ようやく時が動いた。
空気も流れている。
わたしは慣れ親しんだ音楽室の匂いを味方につけ、臨戦態勢を整えた。
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