小説『ドリップアウト』|第一話:落ちる一滴
粉々に砕かれた人生でも、その一滴は踊る。
完璧主義、イジメ、偽り。そして、二度のうつ病。
僕の人生は音を立てて粉々に砕け散った。
呼吸の仕方も忘れるほど、分厚く、
乾いた壁に閉じ込められた日々。
その暗闇の先で見つけた「踊る一滴」とは。
まるで、珈琲ができるまでのような人生の物語。
主人公:一ノ瀬純 / 友人:広瀬徹 /
カフェのマスター:堀隆文
『ドリップアウト ―実体験に基づく物語―』
※この作品は、筆者の実体験をベースにした、
セミフィクションの私小説です。
一部、プライバシーや物語の構成上、
名称の変更や脚色を加えていますが、
綴られている感情の多くは
僕の身に起きた真実に基づいています。
第一章:カッティング
-34歳 -
二〇二二年
一ノ瀬純。独身。大手メーカーの支店長。
そして、明日は誕生日。
「自分へのご褒美」という名目で、
今夜は自分を甘やかすことにした。
ずっと気になっていた、
都内でも指折りの高級レストランに来ている。
前菜を口いっぱいに頬張り、
エビとマッシュルームのアヒージョを食す。
熱せられたオイルの中で、
ガーリックがほんのり香る。
マッシュルームを口に含んだ。
……味が、しない。
まるで束になった輪ゴムを噛んでいるみたいだ。
「ふふっ……」
思わず笑いが漏れた。
高いからって、美味しいとは限らないんだな…。
「店で一番高い赤ワインをお願いします」
店員を呼び、淡々と告げる。
店員が手慣れた様子で銘柄や
ヴィンテージの説明を添えてくれるが、
その名前すら、今の僕の耳をすり抜けていった。
ただ、グラスに注がれる液体を一点に見つめ、
店員が去ると同時に、それも数秒で飲み干した。
血のような色が、空のグラスに虚しく残った。
メインは奮発して牛フィレのステーキだ。
待つ間、目の前に並べられたカトラリーを
じっと見つめていた。
その冷たい塊が、スパンコールのように
グラグラと輝き、視界の端で火花を散らす。
一点を見つめていると、
周囲の客の顔が溶けて消えていくようだった。
……
ふと、我に返ると、
いつの間にかステーキが目の前に運ばれていた。
味も分からぬまま頬張り、
ものの数秒で胃に流し込む。
隣の席からカチャカチャと
ナイフと皿がこすれる嫌な音が響いてきた。
耳障りだな。力みすぎなんだよ。
それくらいスマートにできるようになってから、
こういう店に来ればいいのに……。
苛立ちで指先が震えた。自分の心の狭さを、
口にかすかに残る牛の匂いとワインの苦味で
無理やり塗りつぶす。
次に届いたのは、デザートのティラミスと、
大好きなコーヒー。それらを交互に口へ運ぶ。
飲み終えたコーヒーの濁りがカップの底で
足掻いている。
僕はそれを眺め、ただじっと、
逃げ場を失っていくさまを見つめる。
……
余韻に浸っていたのか…、
気づけばしばらくの間、爪をいじっていた。
さっさと会計を済ませて
逃げるように店を後にする。
…………
帰りの電車は、なぜか混んでいた。
今日は、一分一秒も無駄にしたくない。
カバンを両手で抱えながら
押し込まれるようにして、
窮屈な箱の中に何とか収まり、扉が閉まる。
入口の窓に映る縮こまった自分の姿を
見ているうちに…
自分と目が合い、思わず目を背けて我に返った。
気づけば、降りる駅だ。
………
家に帰ると僕を待っていたのは、
寂しく散らかった狭い間取りと静寂…
リビングの50インチテレビに、
お気に入りのミュージカル映画を映し出す。
画面の中では、
極彩色の衣装に覆われた踊り子たちが、
軽やかなステップで人生の美しさや希望を
歌い上げている。
僕はそれを眺めながら、
冷蔵庫にあった最後のビールを煽った。
久々に観るミュージカルだからか、
酔っているからか、
今の僕にはギラギラとボヤけて
上手く映像を直視できない。
歌声が大きく響く。ダンスがグルグルと弾ける。
画面の中が賑やかになればなるほど、
僕の座るソファの周りだけが、
ゆっくりと床に沈んでゆく…
……
気づくと、手に握ったチャンネルを見つめたまま、
映画はいつの間にか終わっていた。
「久々の映画は、集中できないな……」
………
最後に、いつもはシャワーで済ませるけれど、
今夜は特別に湯船を張った。
贅沢な一日の締めくくり。
たっぷりのお湯に肩まで浸かり、目を閉じる。
「最高の人生か……」
先ほどの映画のセリフを
自分に言い聞かせるように、独り言が漏れた。
大手メーカーに勤め、
年収はそこそこ、ある程度の生活。
その肩書きは、今の僕には重すぎて、
仕事を思い出すたびに呼吸が止まる。
心臓に重りでもついているかのように、
視線がゆっくりと底へ引きずられていく。
湯船に浸かれば、
この胸のつかえと筋肉の緊張も
少しは和らぐだろうと思った。
本当に、思い残すことは何ひとつない…
……いや、もう、何も残っていないんだ。
僕は、新品のカミソリを手に取った。
視界が、急激に絞り込まれていく。
点けっぱなしのテレビの音も、
口に残るビールの匂いも、
すべてが遠い世界の出来事のように溶けていく。
僕の目には今、ステンレス製の刃に反射する。
鈍い銀色の光が無機質に映る。
視線が自分の手元へと寄る。
さっきレストランでも無意識にいじっていた
親指の爪。
その付け根にある、白く小さな半月型の模様。
視界が極限までに絞られる。
世界から色が消え、
ただ「無」に近い白と銀だけが、
僕の視界を支配した。
………
「――そろそろ、やるか」
僕の人生は、ずいぶん前から脆く崩れ去り、
粉々になっていた。
その冷たい刃先が、僕の薄い皮膚に触れた瞬間。
漆黒の一滴が床に落ちていく…。
第二章:テロワール
‐0歳‐
目に刺さるような、暴力的な夏の光。
一九八八年八月。 真っ白な産院の天井。
モノクロに映るこの世界が、
僕が最初に見た景色だった。
僕は、その光の中で産声を上げた。
自分自身の叫び声が、
遠い耳鳴りのように聞こえていただろう。
後になって母から何度も聞かされた。
「純が生まれた日、
耳が痛くなるくらい泣いていて、
看護師さんの声が聞き取れなかったんだよ」
父が僕の指に触れ、
「真っ直ぐに、純粋に」と願って
「純」と名付けたことも、後に母から聞かされた。
祝福。期待。無垢な願い。
人生の最初のページには、
そんな眩しすぎる言葉たちが並んでいた。
あの日、僕を包んでいたはずの夏の熱気は、
今、どこへ消えてしまったんだろう。
‐1歳‐
「居間に集まった親戚たちの真ん中でね、
純はよちよちと歩いてたよ。
転びそうになると、
みんなが『おっと!』と手を出して。
純が笑うと、部屋がパッと明るくなるのよ」
母か祖母が話してくれた、僕の記憶の原風景。
赤ん坊の僕には、
その居間はあまりにも広すぎただろう。
囲んでいる大人たちは見上げるほどに大きく、
その隙間から差し込む光はどこまでも明るい。
世界は祝福に満ちていたに違いない。
僕は、本能的に気づいていたのだと思う。
僕が笑えば、みんなも笑う。
だから僕は、期待に応えるように、
無邪気な子供として真っ直ぐに歩いてみせる。
でも、ふと視界の端。遠く離れた部屋の隅。
父は一人でビールを飲んでいたらしい。
きっと目が合っただろう。
感情の読み取れない、無機質な視線。
僕は一瞬、動きを止める。
その時、父は、ほんの数ミリだけ口角を上げる。
それを見て、僕は夢中になって
また次の一歩を踏み出す。
それが、僕の「演じる人生」の始まり。
最初の一歩だったのだろう。
誰かの期待を読み取り、
誰かの喜びのために自分を差し出す。
そんな歪な正解を積み重ねた先が、
手首の皮膚に冷たい刃を立てた自分に
繋がっていくのだと、
あの眩しい光の中にいた誰が予想できただろうか…
―― 2歳
世界に少しずつ「色」がつき始めた頃、
小さな消えない「空洞」ができていった。
(つづく)
【あとがき】
最後まで読んでいただき、ありがとうございます。
この物語は、僕が僕自身を取り戻すための、
そしてどこかで同じように息苦しさを感じている
誰かのための「人生」の記録です。
少しずつ、ゆっくりと綴っていこうと思います。
※この作品は実体験をベースにした私小説です。
画像制作や構成の一部にAIを活用しています。
追記:2026年1月30日
いつも温かい応援をいただき、
本当にありがとうございます。
想像以上に多くの方から反響をいただき、
僕自身、驚きと喜びでいっぱいです。
この物語を、一過性のものではなく
「長く、広く」継続し、
より多くの人の居場所にしたいと思いました。
当初予定していた
第二話以降の1週間限定公開を変更して、
運営方針を以下のように
アップデートさせていただきます。
【公開ルールについて】
第一話〜第五話: 常に「完全無料」で公開
第六話以降: 公開から、1週間限定で「無料公開」
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【私小説「ドリップアウト」今後の展開】
第1話:落ちる一滴(本記事)
第2話:完璧という呪い(2026年1月24日更新予定)
……以降、毎週土曜日に更新予定(全11話)。
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