小説『ドリップアウト』|第二話:完璧という呪い
粉々に砕かれた人生でも、その一滴は踊る。
完璧主義、イジメ、偽り。そして、二度のうつ病。
僕の人生は音を立てて粉々に砕け散った。
呼吸の仕方も忘れるほど、分厚く、
乾いた壁に閉じ込められた日々。
その暗闇の先で見つけた「踊る一滴」とは。
まるで、珈琲ができるまでのような人生の物語。
主人公:一ノ瀬純 / 友人:広瀬徹 /
カフェのマスター:堀隆文
『ドリップアウト ―実体験に基づく物語―』
※この作品は、筆者の実体験をベースにした、
セミフィクションの私小説です。
一部、プライバシーや物語の構成上、
名称の変更や脚色を加えていますが、
綴られている感情の多くは
僕の身に起きた真実に基づいています。
第二章:テロワール
‐2歳‐
「純は、本当に手のかからない子だったわね」
母が満足そうに、何度も繰り返したその言葉。
それは僕にとっての勲章であり、
同時に、自分を押し殺すために自分自身にかけた
「最初の呪い」でもあったのだろう。
今、思い返すと、その言葉を向けられるたび、
僕はどんな顔をして、どんな気持ちで飲み込めば
正解だったのだろう。
どれだけ歳月をかけても、
この答えは今も分からないままだ。
僕はどうやら、
いわゆる「イヤイヤ期」がなかったらしい。
欲しいおもちゃが買ってもらえなくても、
公園から帰りたくなくても、
僕は地べたに寝転んで泣き叫ぶことはしなかった。
泣きそうになると、
決まって父の無表情な顔が浮かぶ。
あるいは、困ったように眉を下げる母の顔。
それを見るくらいなら、
我慢する方がずっと楽だったのかもしれない。
本能的なものだったのだろう…。
「純は、本当にいい子ね」
そう言って頭を撫でられるたび、
僕は自分の心の中に、
小さな消えない「空洞」ができていった。
‐3歳‐
保育園の先生は、いつも母に言っていたそうだ。
「純くんは本当に手がかからない、いい子ですね。
お友達とも元気よく遊んでいますよ」
母は嬉しそうに僕の頭を撫でていた。
その手の温もりが、
この時の僕が理解していた「正解」だと思う。
園庭を全力で走るのが好きだった。
三歳の僕が見る園庭は、
どこまでも広く、どこへでも行けるような
自由な光に満ちていたはずだ。
勢い余って派手に転び、
膝から血が流れてことがあった。
それでも僕は泣かなかった。
「痛かったねー」 心配そうに顔を覗き込む先生に、
僕は涙を堪えてニッコリ笑い
「平気だよ」
と強がったのをかすかに覚えている。
絆創膏を貼ってもらいながら、
褒めてくれる先生の顔を見るのが、
膝の痛みよりもずっと心地よかったと思う。
痛みという自分の感覚を、
誰かの笑顔という「外の感覚」で塗りつぶす。
それが僕にとっての歪な達成感だったのだろう。
‐4歳‐
友達が泣いていれば頭を撫でに行き、
先生が困っていれば真っ先に駆け寄る。
「純くんは本当に頼りになるわね」
その言葉をもらうたび、
抑えきれない喜びを両手で隠していた記憶がある。
自分が良いことをしていることが、誇らしかった。
周囲の期待を先回りして、
誰かが望む「理想の自分」を差し出す。
「次はどうすれば褒めてくれるかな?」と、
クイズの正解を次々に当てていくような快感が、
幼い僕の心を占めていく。
かけっこでも、僕は常に一番だった。
笛の音と共に地面を蹴り、風を切る。
視界の端で流れていく景色はどこまでも明るく、
ゴールテープの先で待つみんなの声援だけを
目指して走った。
一番になり、褒めてもらうたびに嬉しかった。
だから、走るのが好きだった。
自分が「完璧」でいる限り、
世界中の誰もが僕を大好きでいてくれる。
そんな、温かな光の中に守られているような
全能感を感じていたのだろう。
‐5歳‐
お遊戯会では主役になり、
リレーではアンカーを走った。
母も先生すらも、僕を見て誇らしげに笑っている。
その期待を背負うことは、
僕にとって最高に心地よかっただろう。
けれど、その完璧な世界に亀裂が入った記憶を
鮮明に覚えている。
リレー本番で、僕はバトンを落とした。
カランッ…
と乾いた音がして、
僕の手から一瞬で期待が消えた。
頭の中が真っ白になった。
心臓が耳元で激しくバクバクと鳴り、
周囲の景色が急速に狭くなる。
僕の世界から色が消え、
地面に転がるあの「バトン」だけが、
冷たくこちらを覗いているように見えた。
叫び出したかった。
僕のせいで負けそうになったから……、
泣き出しそうだった。
でも僕は、
こちらを試すように覗くそのバトンを拾い上げ、
無我夢中で走り続けた。
そして、拳一個分の差で何とか1位になった。
ゴールした後、悔しくて泣いている友達を横目に、
僕はひどく安堵していた。
――負けたら、完璧じゃなくなる。
――完璧じゃなくなったら、褒めてもらえない。
そんな恐怖を抱えながらも、僕は笑顔でいた。
その「演技」が、五歳の僕にはもう、
呼吸と同じくらい当たり前になっていた。
広かったはずの園庭が、
その日、ほんの少しだけ狭く見えた気がした。
‐6歳‐
小学校の入学式。
ピカピカのランドセルを背負った僕がいた。
家族からの満足そうな視線をいまも忘れない。
世界はどこまでも明るく、
毎日が輝いて見えていた。その年の冬までは……。
冬になると、
家族からの熱い視線は、
生まれたばかりの妹に向けられた。
父も、祖父母たちも、
みんなが新しい命の誕生を心から喜んでいた。
それを見た僕は、訳も分からぬまま
「これは喜ぶべきことなんだ」
と反射的に反応して、精一杯の笑顔を浮かべた。
けれど、現実は残酷だった。
家の空気は一変した。
母の手は常に妹に取られ、
父の視線も僕を通り越してベビーベッドに向く。
僕がただそこにいるだけでは、
誰も僕を見てくれなくなった。
視界の隅に、遊び古されて汚れたおもちゃが、
ぼんやりと映りこちらを向いている。
テストで百点を取った時。
先生が僕の解答用紙をクラスのみんなに見せて、
「今回は、一ノ瀬くんだけが百点でした!」
と言った。誇らしい気持ちの裏側で、
僕は少しだけ、喉が渇くような感覚を覚えた。
――次も、百点を取れば褒めてもらえる。
気持ちがいい。
でも、それに応え続けなければ、
僕に居場所はなくなるんじゃないか…。
いつの間にか、僕は隣の席の友達の答えを、
悪びれもせず覗くようになっていた。
罪悪感なんてなかった。
百点を取ること以上に、
大切なことはないと思い込んでいたから。
繰り返されるテストの度に、
僕の視線は手元で不快に笑う綺麗な用紙と、
豪快に笑う隣のペン先しか見えなくなっていった。
六歳の僕は、
もう自分を繕うことを無意識にこなしていた。
僕の価値は「ずっと百点がとれること」
でなければならない。
そう信じて疑わなかった。
そんな僕に、孝則という親友ができた。
孝則の家は狭くて、
お世辞にも綺麗とは言えないほど
物が乱雑に散らかっていたけれど、
そこにはいつもゲームがあった。
「純、これやろうぜ!」
散らかった部屋で、孝則とコントローラーを握り、
画面の中で競い合ったり、敵を倒していく。
僕の家では味わえない、埃っぽくて自由な空気。
ゲームの画面に熱中している間だけは、
誰かの顔色をうかがうことも、
次のテストの心配をすることも忘れていられた。
あの薄暗い部屋の、
発光するモニターだけを見つめる時間は、
視界を極限まで狭め、小さな世界に没入できる
唯一の休息だったのかもしれない。
‐7歳‐
僕は「演じ分ける」ことを覚えていた。
学校では、誰かが見ているところで
真面目に掃除をする「立派な生徒」を演じ、
家では教科書を広げて
熱心に勉強する素振りを見せ、
父と母の「立派な子」を演じる。
けれど、隣にいる妹が、
何もしていないのに熱い視線を独占している。
その光景を見るたび、
胸の奥に黒いモヤモヤが溜まっていった。
それから、僕は外へもあまり出なくなり、
ろくに勉強もしなくなった。
しかし、テストの点はいつも満点だった。
父と母は言った。
「純は、できる子だから……」
その言葉を浴びるたびに、僕は心から喜んだ。
けれど、その言葉は喜び以上に「呪い」となって
僕を縛りつけていく。
僕はすっかり努力を捨て、何もせず成果を出すこと
――効率よく「正解」をかすめ取ること――
を求め続けるようになった。
放課後、孝則の家へ行けば、
破れた障子の隙間から差し込む光の中で、
毒々しい色をした炭酸飲料を飲みながら、
ゲームのボタンを乱暴に叩く。
乱雑に絡まるコード、埃を被り、
積まれ崩れたカセット。
狭い部屋で、魅力的に発光する画面だけが
僕の視界を覆い尽くしてゆく。
――どちらが本当の僕なんだろう。
そんな疑問が何度か浮かんだが、
答えなんてどうでもよかった。
誰かが喜ぶ「僕」であり続けていれば、
この「幸福な世界」で満足に過ごせるのだから。
もうこの時から、
自分を守るために自分を殺す術を、
僕は完璧に仕上げつつあった。
あの出来事が、起きるまでは……。
―― 8歳
僕が必死に積み上げてきた「できる子」という
完璧に思えたメッキは、
音を立てて剥がれ落ち始めた。
(つづく)
【あとがき】
最後まで読んでいただき、ありがとうございます。
この物語は、僕が僕自身を取り戻すための、
そしてどこかで同じように息苦しさを感じている
誰かのための「人生」の記録です。
少しずつ、ゆっくりと綴っていこうと思います。
※この作品は実体験をベースにした私小説です。
画像制作や構成の一部にAIを活用しています。
追記:2026年1月30日
いつも温かい応援をいただき、
本当にありがとうございます。
想像以上に多くの方から反響をいただき、
僕自身、驚きと喜びでいっぱいです。
この物語を、一過性のものではなく
「長く、広く」継続し、
より多くの人の居場所にしたいと思いました。
当初予定していた
第二話以降の1週間限定公開を変更して、
運営方針を以下のように
アップデートさせていただきます。
【公開ルールについて】
第一話〜第五話: 常に「完全無料」で公開
第六話以降: 公開から、1週間限定で「無料公開」
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【私小説「ドリップアウト」今後の展開】
第1話:落ちる一滴
第2話:完璧という呪い(本記事)
第3話:焼き払った日(2026年1月31日更新予定)
……以降、毎週土曜日に更新予定(全11話)。
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