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小説『ドリップアウト』|第五話:琥珀色の扉

粉々に砕かれた人生でも、その一滴は踊る。


完璧主義、イジメ、偽り。そして、二度のうつ病。
僕の人生は音を立てて粉々に砕け散った。
呼吸の仕方も忘れるほど、分厚く、
乾いた壁に閉じ込められた日々。
その暗闇の先で見つけた「踊る一滴」とは。

まるで、珈琲ができるまでのような人生の物語。


主人公:一ノ瀬純 / 友人:広瀬徹 /
カフェのマスター:堀隆文

『ドリップアウト ―実体験に基づく物語―』
※この作品は、筆者の実体験をベースにした、
セミフィクションの私小説です。
一部、プライバシーや物語の構成上、
名称の変更や脚色を加えていますが、
綴られている感情の多くは
僕の身に起きた真実に基づいています。




第四章:ストリッピング

-19歳-

高校を卒業すると同時に、
僕の「たまり場」には誰も来なくなった。

分かっていたことだ。

場所がなくなった瞬間に散っていく、
砂のような関係。

けれど、もう僕は絶望していなかった。

僕は親に土下座をして、
徹と同じ介護の専門学校へ行くことを
認めてもらった。

必死に貯めたバイト代で運転免許を取り、
新しい世界へ飛び込んだ。

………
……

 
そこから始まったのは、
徹と過ごす、純度の高い毎日だった。

いつしか僕たちは、
「親友」と呼べる関係になっていた。

僕が今、こうして存在していられるのは、
徹の影響があったからだと言っても過言ではない。
  
徹は、僕の閉ざされた世界に、
新しい色を次々と持ち込んできた。

心を揺らす音楽、
知らない誰かの人生を追体験する映画。


そして――コーヒー。


喫茶店を巡り、豆の香りに包まれながら、
僕たちは言葉を交わした。

徹は普段は大人しく、
自分から口を開くことなんて滅多にないくせに、
好きなことの話になると、驚くほどよく喋る。


「いいか? 純。
コーヒーには『総評』っていうのがあってね。
苦味と酸味……あとはボディ。
分かりやすく言うとコクみたいな感じかな。
それとフレーバー。これがまた深くてさ、
ベリー系とかナッツ系とか、
豆によって全然違う香りがするんだよ。
あとは、アフターテイスト。
飲み込んだ後に、鼻に抜ける余韻が……」


目の奥までキラキラと輝かせ、
無邪気に、そして早口に語る徹。
  
その姿を見て、僕は親友として心から嬉しかった。


――けれど同時に、ほんの少しの悔しさがあった。


自分だけが知らない世界を彼が持っていること。

まるで教えを請うような自分の立ち位置。

僕は、徹に追いつきたかった。

隣に並んで、もっと対等に、もっと深く、
この琥珀色の世界を語り合いたかった。

だから僕は、
自分だけの「内緒の行きつけ」を見つけた。

地元の駅から少し離れた路地の奥。

ランチとコーヒーが自慢の、その店は

『かむかむ』

という少し変わった名前だった。

そこで僕は、一人のマスターと出会った。

「親友に隠れて、コーヒーを極めたいんです」

僕の子供じみた対抗心を、マスターは

「いいですね」

と静かに笑って受け入れてくれた。

カウンター越し、一対一の秘密の特訓。

マスターは、注ぎ方を教えながら言った。


「一ノ瀬くん、コーヒーサーバーに一滴一滴落ちる雫を見るのが、僕は好きなんですよ。踊っているように見えるでしょ」


粉々に砕かれた豆から、凝縮された雫が生まれる。

トンッ、トンッ……

と静かに水面を揺らしながら、
油分を含んだ雫たちが、輪の上を踊る。

「……本当だ。踊ってる」

僕は、思わず言葉をこぼす。

優しく頷いたマスターは、
何かを思い出したように言葉を繋いだ。

「そうだ。一ノ瀬くん。コーヒー豆の知識をつけたいなら、僕よりも詳しい人を知っているよ。いつかここに行ってみるといい」

マスターはそう言うと、棚からおもむろに、
一枚の店の名刺を僕に手渡した。

僕はというと、
水面にこぼれる琥珀色から目が離せないまま、
手元に差し出された名刺を指先で受け取り、
そのまま財布の隙間へと滑り込ませた。

トンッ、トンッ……

その滴る雫の鼓動に耳を傾け、
一滴一滴が踊るたびに、未来への不安も、
過去の汚点も、徐々に洗い流されていく気がした。

徹が導いてくれた「コーヒー」という趣味は、
僕にとって、自分を保つための大切な
「安らぎの儀式」になっていった。


-20歳-

この年、『かむかむ』は突然、その幕を下ろした。

噂によれば、マスターが体調を崩し、
そのまま還らぬ人になったのだという。

あまりにも唐突な幕切れに、
僕はかける言葉を失った。

徹に
『かむかむ』に通っていたことを打ち明けると、

「だから、いつの間にかコーヒーに詳しくなってたのか……。残念だったな」

と、彼なりに不器用な言葉で僕を励ましてくれた。


「じゃあさ、
今日は知らない店を新規開拓しないか?
適当に歩いて、最初に目に入った喫茶店に入る。
どう?」


それが徹なりの優しさだということは
分かっていた。

学校帰り、
僕たちは通ったことのない道をあてもなく歩いた。

………
……



やがて目に飛び込んできたのは、ひどく古びた、
お世辞にも綺麗とは言えない一軒の喫茶店。

看板には、重々しい文字で

『皇琲郷』

と書かれている。

「……見るからに、ヤバそうだな」

僕たちは顔を見合わせ、思わず吹き出した。


「よし、ここにしよう!」

徹が暖簾をくぐろうとしたその時、
僕は足を止めた。

「ごめん、金あったかな……」

確認するために財布を開いた、その時だった。

財布の奥に眠っていた「あの日の一滴」が、
ツーっと一直線に、雫のように滑り落ちた。

白い紙片がアスファルトの上で、音もなく踊る。

「なんだ?」

拾い上げると、
それは『かむかむ』のマスターがくれた、
あの一枚の名刺だった。

ずっと、財布の奥で眠っていた約束。

そこには、今まさに僕たちの目の前に
ある店の名が刻まれていた。



『皇琲郷』



「徹ぅぅぅーーー! ここだ! ここだよ!!」

「えっ、何!? ……
え、うわ、怖っ! 怖すぎるだろ!!」

僕らは叫んだ。

「は、はっ……っ!?#%&$@!!? ★*※!」

夕暮れの路地裏、あまりの衝撃に僕たちは
二人で言葉にならない声を上げた。

運命という一滴が、
今、僕たちの足元で跳ねた気がした。


混乱して震える手で
『皇琲郷』の古びた扉を押し開ける。

カラン、

と乾いた音が響く店内にいたのは、
背の高い一人の男だった。

彼はタバコをふかしながら、
カウンターの奥で仁王立ちしていた。


「……いらっしゃい」


その圧倒的な貫禄に、
僕たちは思わず身を縮めて席に座る。

差し出されたメニューを開くと、
そこには三十種類を超えるコーヒーの銘柄が、
びっしりと書き連ねられていた。

徹は、いつものように
目の奥をキラキラと輝かせながら、
聞いたこともない珍しい銘柄を注文する。


「ザイール…」


(……どこだよ。)  

喉元まで出かかったツッコミをグッと堪え、
僕は唇を噛みしめて窓の外を見た。


僕はといえば、この空気に圧倒されて、
無難なブレンドを頼むのが精一杯だった。



………
……




しばらくして、
店主が若干足を引きずりながら、
片手で器用にコーヒーを運んできた。

僕は勇気を振り絞り、声をかけた。

「あの……
『かむかむ』という喫茶店のマスターに、
ここを教えてもらって……」

先ほど、店の前で起きた奇跡のような出来事を
一気に話した。

すると、あんなに不愛想だった店主の顔が、
ふっと和らいだ。


「そうか。あいつの紹介か」


彼は、静かに、そして温かく笑ってくれた。

店内に漂う深い焙煎の香りが、
少しだけ軽くなった気がした。

第二の行きつけができた瞬間だった。

今度は、自分一人だけの秘密じゃない。

親友の徹と一緒に通う、僕たちの「場所」だ。


「しょっぺぇー。
醤油みたいな味だわ…ザイール(笑)」


(……失礼だろ。)
  
口先まで出かかったツッコミをグッと堪え、
僕は歯を食いしばりながら
窓から見える遠くの空を眺めた。


―― 21歳
どこまでも続くバイパスの先。
その向こう側へ進む未来に期待している
自分がいた。

その時の僕はまだ知らない。
この一冊の本が、
未来の自分を繋ぎ止める命綱になることを。
 
(つづく)


【あとがき】
最後まで読んでいただき、ありがとうございます。
この物語は、僕が僕自身を取り戻すための、
そしてどこかで同じように息苦しさを感じている
誰かのための「人生」の記録です。
少しずつ、ゆっくりと綴っていこうと思います。
※この作品は実体験をベースにした私小説です。
画像制作や構成の一部にAIを活用しています。


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【私小説「ドリップアウト」今後の展開】
第1話:落ちる一滴
第2話:完璧という呪い
第3話:焼き払った日
第4話:剥離の時期
第5話:琥珀色の扉(本記事)
第6話:車窓からの展望(2026年2月21日更新予定)

……以降、毎週土曜日に更新予定(全11話)。

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