「こんな言葉、誰が見る?」——たぶん、同じ場所にいる誰かが見る。
「自分の機嫌すら取れない人間の言葉に、重みなんてあるのかな」
そんな一文を見かけて、胸の奥がきゅっとなりました。誰かに対して言っているようで、たぶん——自分に向けた何か、なんじゃないかと思った。「ちゃんとしてない自分は、語る資格がない」みたいな前提が、透けて見えたから。
でも私は、そこで思ったんです。
重みって、そんなに必要かな。立派さって、そんなに大事かな。
私が読みたいのは「大した人」の話じゃない。完璧に整った言葉でもない。うまくいかない日があって、情けない気持ちが残ってて、それでも投げずに書かれた、等身大の文章。
たぶん、私が惹かれてるのは“重み”じゃなくて“体温”なんだと思います。整ってない日がある人の言葉は、軽いんじゃなくて、リアル。むしろ、そこにしか出てこない言葉がある。
そして最近、こうも思うようになりました。
等身大って、いちばん強いのかもしれないって。
等身大って、変に大きく見せることもしないし、逆に小さく見せることもしない。
おごるでもなく、卑下するでもなく。
誰かの顔色をうかがって、忖度して形を変えるでもなく。
ただ、「いまの自分はこうです」って、そのまま置く感じ。
これ、簡単そうで、結構むずかしい。
強がるほうが楽なときもあるし、
先に自分を下げておいたほうが安全なときもある。
「ちゃんとしてるように見せる」って、案外いろんな場面で身についてしまうから。
でも、弱さも強さも込みで、今の自分を認めて、しかもそれを言葉にして出せる人って。
私は本当にすごいと思うんです。
“認められないこと”で苦しくなってる人が多い中で、
「そうなんだよね」って自分に言えるのは、立派さとは別の強さだと思う。
自分の機嫌が取れない日って、ある。疲れて、焦って、余裕がなくて、誰かの一言に刺さって、ひとりで反芻が始まって。「こんな自分でいいのかな」って、心が縮こまる。
でも、そういう日を生きてる人の言葉って、ちゃんと届くんですよね。“できてる側”の正論より、同じ場所で踏ん張ってる人の一行が、先に助けになることがある。
だから私は、等身大を信じたい。重みがあるかどうかより、逃げずに書かれたかどうかを信じたい。「今日はうまくできない」って自覚しながら、それでも言葉を置いた人の誠実さを、軽いものにしたくない。
もし今、あなたが「ちゃんとしてないから書けない」「整ってからじゃないと出せない」そんなふうに思っているなら。
整ってない日の言葉にも、役目があります。むしろ、そこにいないと書けないことってあると思う。立派じゃなくていい。今日のあなたから出てきた文章で、十分だと思う。
もしどこかひとつでも引っかかったら、スキだけ置いていってもらえると嬉しいです。
また読みたいと思っていただけたら、フォローもぜひ。
よければ、等身大のまま書いていく話と、「全部私のせいだ」に飲まれそうな日に読む話も置いておきます。
できていない私が、書く理由。
『私のせいだ』その思い込みは、本当に事実なのか?
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