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「自由にしなくてはいけない」それもまた、命令だった


自分の欲求を、私はずっと審査にかけていた。

何かをしたいと思っても、

「今、それをしてよいのか」
「私には、その資格があるのか」

と、自分の中で確認していた。

誰かに我慢を命じられていただけではない。

いつの間にか、自分自身が看守役になり、欲求を監視していた。

そのことに気づいた時、かなり痛かった。

けれど、そこからもう一つ、さらに痛いことが見えてきた。

私は看守から自由になったのではなく、看守の命令が変わっただけなのかもしれない。

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自由になったつもりだった

以前の私は、

「我慢しなさい」
「義務を果たしなさい」
「欲求を優先してはいけない」

という命令に従って生きていたのだと思う。

自分が何をしたいかより、何をするべきか。

自分がどう感じているかより、何を求められているか。

外側にある基準に自分を合わせることが、当たり前になっていた。

その後、私は少しずつ、

「もっと自由にしていい」
「やりたいことをやっていい」
「自分を優先していい」

という考え方に触れるようになった。

我慢するのではなく、自由にする。

義務を優先するのではなく、自分を優先する。

私は、古い価値観から離れ、自分で自由を選べるようになってきたつもりでいた。

けれど今回、ふと思った。

私は本当に、自分で自由を選んだのだろうか。

看守が着替えただけだった

もしかすると私は、

「自由にしなさい」
「我慢をやめなさい」
「自分を優先しなさい」

という新しい命令を受け取り、そのとおりに自分を動かしていただけなのではないか。

命令の内容は、正反対に変わった。

「我慢しろ」から、「自由にしろ」へ。

けれど、

正しいとされる指示を受け取り、それに自分を合わせる。

その仕組み自体は残っていた。

看守がいなくなったのではない。

看守が「自由を勧める人」に着替えただけだった。

私は、自由まで義務にしていたのだと思う。

自由でいなくてはいけない。

我慢してはいけない。

自分を優先できる人にならなくてはいけない。

よいとされる「自分軸」で生きなくてはいけない。

「べき」の中身が変わっただけで、べきによって自分を統治する仕組みは残っていた。

反抗まで、従順にできてしまう

表面的には、以前とは正反対の行動をしていることもある。

親の価値観を捨てる。

誰かの期待に従わず、自分の気持ちを優先する。

我慢してきたことに、もう従わないと決める。

けれど、それさえも、

「反抗しなさい」
「親の価値観を捨てなさい」
「自分軸で生きなさい」

という指示に従っているのだとしたら、決定の主語はまだ自分に戻っていない。

反抗まで、従順にできてしまう。

行動は以前と正反対でも、外側にある正しさを受け取り、それに自分を合わせるという動きは同じだった。

今回見えてきたのは、

我慢することが悪くて、自由にすることが正しい、という話ではなかった。

自由か、我慢か。

従うか、反抗するか。

その選択肢よりも前に、

私は今、何をしているのだろう。

何に従おうとしているのだろう。

という、自分の現在地があった。

「私が決める」も命令になり得る

ここで、

「これからは自分で決めよう」

と結論づけたくなる自分もいる。

けれど、それもまた、新しい命令になりそうな気がする。

自分で決めなくてはいけない。

主体的でいなくてはいけない。

誰にも影響されてはいけない。

そうやって「私が決める」ことまで義務にすれば、看守がまた別の服に着替えるだけかもしれない。

だから今は、すぐに自分を変えなくてもいいように思う。

看守をやめようとも、もっと主体的になろうとも、急いで決めなくていい。


自由にしたいと思っている自分もいる。

その一方で、「自由にする方が正しい」と考え、そこへ自分を合わせようとしている部分もある。

実際には、そのどちらか一方ではなく、自分の意思と、誰かから受け取った正しさが、同じ選択の中にない交ぜになっていることも多いのだと思う。

だから、それをきれいに見分けたり、どちらかに決めたりしなくてもいい。

ただ、自分の中にいくつかの動きがあることが、少しずつ見えてくる。

まずは、そこまでで十分なのだと思う。

見えることで生まれる距離

無自覚に従っている時、命令と自分はほとんど一つになっている。

「自由にしなくてはいけない」という考えを、自分自身の意思だと思っている。

けれど、

「私は今、自由にしろという命令に従おうとしている」

と見えた時、命令と自分との間に、わずかな距離が生まれる。

まだ何も変えていない。

従うとも、従わないとも決めていない。

それでも、自分と命令が同じものではなくなる。

そのこと自体が、これまでとは違う場所に立つことなのだと思う。

外からもらった自由は、仮設の橋だった

だからといって、過去に誰かから、

「自由にしていい」
「自分を優先していい」

と言ってもらい、その言葉に従ったことを、間違いだったとは思わない。

当時の私は、誰かから許可をもらわなければ、古い命令の外へ出ることもできなかった。

外から渡された自由は、偽物だったのではない。

不自由から、自分で選ぶ場所へ移るために、一度必要だった仮設の橋だったのだと思う。

その橋を渡ったからこそ、今、

自由にすることさえ、誰かの指示に従っていたのかもしれない。

と気づく場所まで来られた。

橋を渡っている途中に、誰かの言葉を借りる時期があってもよかった。

その時の自分には、それが必要だったのだと思う。

まず、私は今、何をしているのだろう

旧来の看守は、「我慢しろ」と言った。

新しい看守は、「自由にしろ」と言った。

今の私は、そのどちらかに急いで従う前に、

私は今、何をしているのだろう。

と、自分の動きを見ようとしている。

我慢しようとしているのか。

自由でいようとしているのか。

どちらかが正しいと思い、自分をそこへ向かわせようとしているのか。

すぐに答えを出さなくても、自分の現在地が見えるだけで、命令との関係は少し変わる。

何を選ぶかは、そのあとに生まれることなのかもしれない。

今はまず、自分が何をしているのかを知る。

それだけでも、自分との関係は、すでに少しずつ変わり始めているのだと思う。


よければ一言だけ。いまのあなたにいちばん近かった一文、どれでしたか。(読むだけでももちろん大丈夫です)


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欲求が浮かぶたびに、私は「それをしてよい資格があるか」を審査していました。誰かに従う奴隷役だけでなく、自分を取り締まる看守役までしていたことに気づいた話です。




「これからはこうしよう」と自分を動かす前に、「私は今、何をしているんだろう」と現在地を見る。自分を変えることより、まず自分の動きを知ることについて書いた記事です。

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