「これしたい。でも……」とためらう時、私の中で起きていたこと
何かを「これしたい」と思うたびに、私の中では、すぐに「でも」が続いていた。
「これしたい。でも、やるべきことをやってから」
「これが欲しい。でも、今はお金を使わない方がいい」
「少し休みたい。でも、先に責任を果たさなくちゃ」
したいことが浮かぶと、そのすぐ後ろから、
「その前に、やることがあるでしょう」
という声が追いかけてくる。
私は長い間、これは自分が真面目だからだと思っていた。
欲求よりも義務を優先する。
やりたいことより、やるべきことを先にする。
自分は、そういう責任感の強い人間なのだと思っていた。
けれど、よく見てみると、私がしていたのは、単なる優先順位の調整ではなかった。
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「やるべきこと」が終わっても、許可は出なかった
欲しいものがあったとしても、生活を圧迫するほど高いわけではない。
誰かにお金を借りるわけでも、必要な支払いを後回しにするわけでもない。
それでも、
「今でなくてもいい」
「もう少し貯めてから」
「もっと頑張ってから」
と、すぐに待ったがかかる。
やるべきことを終わらせたら、したいことをしてもよい。
十分に働いたら、自分のためにお金を使ってもよい。
責任を果たしたら、休んでもよい。
そういう話なら、いつかは条件を満たせるはずだった。
けれど実際には、ひとつ条件を満たしても、また次の条件が出てきた。
もう少し貯めてから。
もう少し働いてから。
ほかにやることがなくなってから。
誰にも迷惑をかけない状態になってから。
条件を満たすたびに許可へ近づくのではなく、合格ラインそのものが遠ざかっていく。
そこで私は、何を確認しようとしていたのだろうと思った。
本当に見ていたのは、今が適切な時期かどうかだけではなかった。
「私は、自分のしたいことを通してよい人間なのか」
その資格を確かめようとしていたのだと思う。
「したい」だけでは、理由として足りなかった
私の中では、「したい」という気持ちだけでは、行動する理由として不十分だった。
行きたいから行く。
欲しいから買う。
疲れたから休む。
それだけでは、許可が下りない。
必要だから。
役に立つから。
十分に頑張ったから。
先に責任を果たしたから。
誰にも迷惑をかけないから。
欲求の外側に別の理由をつけて、ようやく検討の席に載せられる。
「したい」という気持ちそのものには、行動を起こすだけの資格がないように扱っていた。
そして、私の中で最も重く見られていたのは、
「これを通したら、わがままな人だと責められないか」
ということだった。
欲求を持つこと。
それを口にすること。
実際に叶えようとすること。
他人の事情を無視して押し通すこと。
本来は、それぞれ別のことだと思う。
けれど私の中では、自分の希望を通そうとした時点で、
「わがままなのではないか」
という疑いがかかっていた。
何をするかを検討する前に、それをしたいと思った私の人格が問われていた。
許可を出すための審査ではなかった
私は、自分の欲求を通してもよいか、毎回審査していた。
けれど、その審査は公平なものではなかったのだと思う。
現実的に可能か。
負担は大きすぎないか。
誰かにどの程度の影響があるか。
そうしたことを見ながら、通すか見送るかを決める審査ではなかった。
私が確かめようとしていたのは、
「わがままだと責められる可能性が、本当に一つもないか」
ということだった。
けれど、責められないことを完全に証明するのは難しい。
働いても、もっと働けると思える。
貯めても、もっと貯めるべきだと思える。
責任を果たしても、別の責任が見つかる。
誰にも迷惑をかけない状態を目指しても、人と関わって生きている以上、誰かに何らかの影響を与える可能性まではなくせない。
だから、条件が足りなくて不合格になっていたのではなかった。
最初から、合格条件を満たせる構造ではなかった。
欲求を認めるための審査ではなく、却下しておいた方が安全だと確認するための審査だったからだ。
私は、自分の欲求を通してよいかどうかを、終わりのない資格審査にかけていた。
そして、その審査官も自分だった。
私は、看守役まで引き受けていた
私は以前から、自分には「奴隷マインド」のようなものがあると思っていた。
自分の希望より、誰かの都合を優先する。
言われたことに従う。
我慢することを当然だと思う。
だから私は、奴隷役を引き受けてきたのだと考えていた。
けれど今回、もうひとつ見えたものがあった。
私は、従う側にいただけではなかった。
自分を取り締まる看守役まで、自分で引き受けていた。
誰かに「わがままだ」と責められる前に、自分で欲求を却下する。
希望が外へ出る前に、内側で処理してしまう。
外側から止める人がいなくなっても、その役割だけは私の中に残っていた。
むしろ、外側の看守がいなくても同じ秩序が保たれるように、私自身が看守役を引き継いでいたのかもしれない。
これは、私にとって、かなり痛い気づきだった。
私は自由を奪われる側にいただけではなく、自分の欲求が外へ出ないように、自分で見張ってもいたからだ。
けれど、そこで看守役の自分を、さらに責めたいわけではなかった。
足枷に見えても、防具だったのかもしれない
欲求を先に却下しておけば、誰かに否定されるところまで行かずに済む。
希望を表に出さなければ、「わがままだ」と責められる可能性も下げられる。
我慢する側にいれば、少なくとも、欲求を持ったことで責められる危険には近づかずに済む。
そう考えると、この看守役は、私を苦しめるためだけに生まれたものではなかったのだと思う。
幼い頃の私は、自分のしたいことを通すより、周囲から責められないことを優先した方が安全だと感じる場面があったのかもしれない。
何が直接の原因だったのかまでは、今の私にはわからない。
ただ、誰かに取り締まられる前に、自分で自分を取り締まることが、安全を確保する方法になっていた可能性はある。
今の私には足枷のように見える。
けれど、かつての私にとっては、外側から受ける痛みを減らすための防具でもあったのだと思う。
私が見つけた現在地
私は、したいことが浮かぶたびに、
「今、それをしてもよいか」
を検討しているつもりだった。
けれど実際には、自分の欲求を通してよい「資格」があるかどうかを、自分自身に問い続けていたのだ。
私の中には、欲求を終わりのない審査にかける仕組みがあった。
しかもその審査には、最初から合格ラインなど存在しなかった。
私は奴隷役だけでなく、その欲求を取り締まる看守役まで引き受けていた。
今すぐ足枷を外すところまで、話を進めなくてもいい。
まずは、自分の中で何が起きていたのかが見えた。
今回、私がたどり着いたのは、そこだった。
よければ一言だけ。いまのあなたにいちばん近かった一文、どれでしたか。(読むだけでももちろん大丈夫です)
▼あわせて読みたい
欲求を審査する看守役の奥には、「責められないように、先に自分を抑えておく」という防御がありました。説明や全力、相手への服従という形で表れていた、その仕組みについて書いた記事です。
「仕方ない」と受け入れていた時、私は譲ることを選んでいたのではなく、自分の希望を最初から選択肢から外していました。したいことが浮かんでも、自分の中で消してしまう動きにつながる記事です。
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