【短編ホラー】LUNA ーネオンテトラは夢を見ないー④
第4章 偽りの聖域
病院の待合室の硬い椅子が、緋室蓮耶の体温と気力を奪っていく。黒川の襲撃は、単に協力者を失ったという事実以上の意味を持っていた。計画は筒抜けだったのだ。エデン・インダストリーという敵は、物理的な城壁ではなく、この街の隅々にまで張り巡らされた神経網そのものなのかもしれない。蓮耶は、巨大な蜘蛛の巣の真ん中で、ただ無力にもがいている一匹の蝶に過ぎなかった。
もう、逃げ出すべきだ。常識が、生存本能が、そう警告する。この街は深すぎる。人の手でどうにかなる領域を、とうに超えている。
しかし、脳裏をよぎるのは、失踪者リストに並んだ虚ろな目をした人々の顔。そして、無数のチューブに繋がれ、かろうじて命を繋いでいる黒川の姿。ジャーナリストとしての矜持が、ここで逃げることを許さない。何より、自分もまた「資格」を持つ獲物なのだ。遅かれ早かれ、光は自分を喰らいに来る。ならば、せめて牙の一本でも折ってから喰われてやる。
蓮耶は立ち上がり、病院を後にした。ホテルの部屋に戻ると、彼は全ての機材をベッドの上に広げた。超小型のウェアラブルカメラ、指向性マイク、そしてデータハッキング用のカスタム端末。それはあまりにも無謀な、たった一人の特攻準備だった。

その時、控えめに部屋のドアがノックされた。
蓮耶は息を殺し、ドアスコープを覗く。そこに立っていたのは、三日月灯だった。いつもの広報担当の完璧な笑顔はなく、雨に濡れたような不安と、奥底に秘めた強い決意がその表情に浮かんでいた。
罠か。蓮耶は身構えながら、チェーンをかけたままドアを少しだけ開けた。
「……何の用だ」
「黒川刑事のこと、ニュースで見ました」灯の声は震えていた。「そして、わかったんです。これはもう、目を逸らしていい問題じゃないって」
彼女は、アストラル・ドームでの一件からずっと考えていたのだという。父の言葉、蓮耶の警告、そしてネオンの中に見た、冷たい母の幻影。バラバラだったピースが、黒川の襲撃という報せで、ひとつの恐ろしい形を結んだのだ。
「私、見たんです。ネオンの中に、亡くなった母を。でも、あれは私の母じゃなかった。何か……冷たい別の何かが、母の姿をしていた」
彼女は蓮耶を真っ直ぐに見つめた。
「父が、この街が、本当は何を目指しているのか、それを知らなければならない。それがどんなに恐ろしいことであっても。……だから、私に協力させてください」
蓮耶は迷った。これが、敵が仕掛けた新たな罠である可能性は高い。だが、彼女の瞳に宿る真摯な光は、本物のように見えた。そして何より、この絶望的な状況で差し伸べられた彼女の手は、蓮耶にとって唯一にして最後の希望の綱だった。
蓮耶はチェーンを外し、ドアを開けた。
「罠だとしても、もう構わない」
灯を部屋に招き入れた蓮耶の言葉に、彼女は黙って首を振ると、一枚のカードキーをテーブルに置いた。プラチナ製の、重厚なカード。そこには『CEO: Soichiro Mikazuki』と刻印されていた。
「父のIDカードです」彼女は言った。「これがあれば、最下層にあるサーバー管理区画まで行けるはずです」
二人はホテルの部屋で、煌坂市の詳細な地図とエデン・インダストリーの設計図を広げ、侵入計画を練り始めた。深夜、清掃業者用の通用口から侵入し、CEOのIDを使って中央エレベーターのロックを解除。一気に最下層のサーバー区画を目指す。それは、絶望的な暗闇の中に灯った、あまりにも眩しい一筋の光だった。読心術に長けた巨大な敵を欺くには、その娘である灯の協力が不可欠。まるで、そうなることが運命であったかのように、全ての条件が揃った。
決行の夜。
煌坂市のネオンが眠りを知らぬ輝きを放つ中、蓮耶と灯はエデン・インダストリー本社の裏手、通用口の前に立っていた。深夜のビルは不気味なほど静まり返り、内部から漏れる青白い非常灯の光だけが、二人の緊張した顔を照らしている。

灯がIDカードを認証パネルにかざすと、重厚なセキュリティドアが空気の抜けるような微かな音を立てて開いた。二人は息を殺し、巨大な聖域の胎内へと足を踏み入れる。
中央エレベーターで、二人は地下へと向かった。ゆっくりと下降していく数字のパネルだけが、時間の経過を告げている。ガラスに映る互いの顔は青白く、言葉はなかった。ただ、互いの存在だけが、この無謀な賭けを支えていた。
『B7F』
最下層でエレベーターのドアが開く。そこは、上層階の洗練された空間とは全く違う、無機質な世界だった。むき出しのパイプが壁や天井を蛇のように這い回り、分厚いコンクリートの壁がどこまでも続いている。空調の音に混じって、無数のサーバーが発する低い唸りが、地鳴りのように響いていた。

一番奥に、ひときわ巨大で厳重な円形の扉があった。潜水艦のハッチを思わせるその扉には、ただ一言、こう記されている。
『LUNA MAIN CORE』
「……この、先ね」
灯がかすかに呟いた。蓮耶は固く頷き、最後の覚悟を決める。
彼は、震える灯の手に、自らの手を重ねた。その温もりが、偽りでないことを祈りながら。二人で認証パネルに手をかざすと、重いロックが解除される金属音が、地下深くへと響き渡った。
