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【ホラー小説】デッドエンド・シンドローム #5


第5章:空っぽのアトリエ

金曜日の朝、白石志津は会社に来なかった。
メッセージアプリのステータスは既読にすらならず、何度かけた電話も、彼女の明るい声で録音された留守番電話サービスに繋がるだけだった。几帳面で、誰よりも責任感の強かった彼女の無断欠勤。その事実が、樹の心臓を冷たく締め付けた。

音無律という非人間的な存在を知ってから、樹はオフィスの中で完全に孤立していた。誰にも相談できず、一人で恐怖と戦っていた。志津だけが、彼の唯一の繋がりだった。歪んでいく日常の中で、彼女の「大丈夫?」という一言だけが、かろうじて彼を現実世界に繋ぎとめていたのだ。

その最後の糸が、今、ぷつりと切れた。

樹は、神宮寺の刺すような視線を背中で感じながらも、仕事を放り出してオフィスを飛び出した。夕暮れのオレンジ色が、高層ビルのガラスを不気味な色に染めている。電車を乗り継ぎ、彼女が住む郊外の街に着く頃には、空は深い藍色に沈んでいた。

彼女のアパートのドアは、オートロックではなかった。チャイムを鳴らしても、返事はない。樹は祈るような気持ちで、ドアノブに手をかけた。
カチャリ、と軽い音を立てて、ドアは開いた。鍵がかかっていない。
隙間から漏れ出してくるのは、部屋の明かりではなかった。複数のモニターが放つ、青白い光。そして、耳にこびりついて離れない、『LAST ASYLUM』の、あの陰鬱な環境音だった。

「志津さん……?」

声をかけながら、部屋に足を踏み入れた樹は、絶句した。
そこは、彼女が住んでいたはずの、明るく片付いた部屋ではなかった。狂気の芸術家が作り上げた、異様なアトリエだった。

壁という壁に、彼女が描いた『LAST ASYLUM』のキャラクターや背景アートのスケッチが、隙間なく貼り付けられている。それはまるで、悪魔を祀る祭壇のようだった。そして、美しいはずのそれらの絵は、ことごとく汚されていた。優しい表情をしていた生存者の少女の目は黒く塗りつぶされ、口元には赤いペンで歪んだ笑みが描き足されている。美しい風景画には、無数の×印が、まるで爪で引っ掻いたかのように乱暴に引かれていた。

締め切られた部屋には、彼女が好んで使っていたフローラル系の香水の残り香と、埃っぽい匂いが混じり合い、甘く不快な香りが満ちていた。

そして、その部屋の中央。
白石志津は、そこにいた。
PCチェアに深く身を沈め、頭にはVRゴーグルを装着したまま、彼女は微動だにしなかった。両腕には、自分の爪でつけたのだろう、無数の赤い引っ掻き傷が痛々しく走っている。彼女の唇が、かすかに動いていた。意味をなさない、音の断片を、ただ虚ろに紡いでいる。

「志津さん! しっかりして!」
樹は駆け寄り、彼女の肩を掴んだ。その肩は、氷のように冷たかった。VRゴーグルを外そうと手を伸ばした、その時。

「やめて……」

志津が、うわごとのように言った。焦点の合わない瞳が、ゴーグルの隙間から一瞬だけ樹を捉える。

「……行かなきゃ……あっちの……きれいな世界に、行かなきゃいけないの……邪魔しないで……」

その瞳には、もはや樹の姿は映っていなかった。彼女の精神は、もうここにはない。あの忌まわしいゲームの世界に囚われ、完全に飲み込まれてしまっていた。樹が守りたかった、救いたかったはずの彼女の笑顔は、もうどこにもなかった。

絶望が、樹の心を黒く塗りつぶした。
悲しみは、なかった。怒りも、湧いてこなかった。ただ、すべてが終わってしまったという、絶対的な虚無感だけが、彼を支配した。

だが、その虚無の底で、一つの冷たい感情が、静かに形を成し始めた。
それは、怒りよりも冷徹で、悲しみよりも重い、決意だった。

志津をこうなるまで追い込んだ、神宮寺。
その狂気を増幅させ、完成させた、音無律。
そして、すべての元凶である、ゲーム『LAST ASYLUM』。

もう、ためらっている時間はない。これ以上の犠牲者を出す前に、すべてを終わらせなければ。この手で、すべてを破壊しなければならない。

樹は、虚ろなまま呟き続ける志津に背を向け、静かに部屋を出た。ドアを閉める直前、彼女が最後に呟いた言葉が、彼の耳に届いた。

「……お前の、せいだ……」

樹は、何も感じなかった。
アパートを出て、夜空を見上げる。渋谷の方角の空が、街の光を反射して、病的なオレンジ色に染まっていた。その中心で、ひときわ高く聳え立つ、ネクスト・ディメンションが入る高層ビル。最上階の、神宮寺の社長室の窓だけが、まるで地獄を見下ろす悪魔の目のように、煌々と輝いていた。

樹は、ポケットの中で強く拳を握りしめた。
これから為すことは、ハッキングでも、内部告発でもない。

戦争だ。

彼は、たった一人で、創造主を名乗る悪魔に、戦いを挑む覚悟を決めた。

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