【ホラー小説】デッドエンド・シンドローム #4
第4章:ゴースト・イン・ザ・ヘッドホン
週明けの月曜日、神宮寺はチーム全員をミーティングルームに集めた。澱んだ空気の中、彼は意気揚々と、プロジェクトの遅れを取り戻すための「切り札」だと称して、一人の青年を紹介した。
「今日からデバッグチームに参加してもらう、音無律くんだ」
音無律。色素の薄い髪に、病的なほど白い肌。彼の顔には、まるで生まれ落ちてから一度も感情を宿したことがないかのように、完全な無が張り付いていた。そして何より異様なのは、彼の耳を常に塞いでいる、物々しいノイズキャンセリングヘッドホンだった。彼は一言も発さず、ただ深々と頭を下げただけだった。その動きですら、プログラムされた機械のように正確だった。

音無律がプロジェクトに参加したその日から、オフィスの空気は一変した。彼の席はフロアの隅に用意されたが、そこだけがまるで真空地帯のように、周囲の喧騒から切り離されていた。聞こえてくるのは、彼の叩き出す、一切のリズムの揺らぎも、ためらいもない、無機質なタイピング音だけだった。

そして、バグ報告のレッドリストは、驚異的なスピードで消化されていった。
だが、樹はその「修正」の内容に、新たな恐怖を覚えていた。
これまで報告されていた「プレイヤーの個人的記憶を悪用する」というバグは、確かになくなった。その代わり、ゲームの恐怖は、より巧妙で、悪質で、人間の倫理観そのものを攻撃するようなものへと「進化」していたのだ。
あるテスターは、ゲーム内で出会う生存者の少女から「パパ、どうして私を見捨てたの?」と、過去に離婚して会えなくなった娘と全く同じ声、同じ言葉で問い詰められ、プレイ中に嘔吐した。別のテスターは、飢えたクリーチャーから逃げるために、忠実な犬のキャラクターを囮にして見殺しにしなければならない選択を強制され、三日間にわたって不眠に陥った。
これはバグ修正ではない。恐怖の「調律」だ。音無律は、このゲームの悪意を、より効果的に、より破壊的に増幅させている。
「音無くんは、一体何者なんですか」
樹は、再び神宮寺に詰め寄った。神宮寺は、まるで高名な音楽家が自らの楽団の首席奏者について語るかのように、誇らしげに口元を歪めた。
「彼はデバッガーじゃない。言っただろう、切り札だと」
神宮寺は一歩、樹に近づき、声を潜めた。
「彼は『調律師』だよ。このゲーム――この壮大なシンフォニーに紛れ込んだ不協和音を、完璧なハーモニーへと調律してくれる。最高の恐怖を奏でるためにね。だから、手塚くん。彼の仕事には、触れるな」

その言葉は、もはや警告ではなく、脅迫だった。
樹は、音無の正体を自力で探ろうとした。人事データベースにアクセスするが、彼のファイルは存在そのものが抹消されていた。入館証のログを辿っても、彼の記録は神宮寺のゲストIDに紐づけられているだけで、それ以上の情報は一切ない。音無律は、まるでこの世に存在しないゴーストだった。
その夜─
時計の針が午前3時を回り、フロアのほとんどの人間がデスクに突っ伏して意識を失っている中、樹だけが執念でコードを追い続けていた。ふと、いつも彼の耳についていた機械的なタイピング音が、止んでいることに気づく。

樹が顔を上げると、音無の席はもぬけの殻だった。しかし、サーバー室の分厚いドアの向こうから、微かに人の気配がする。胸騒ぎを覚えながら、樹は息を殺してドアに近づき、覗き窓から中の様子を窺った。
そこに、音無律は立っていた。
彼は、壁一面に設置されたサーバーラックの、無数に明滅するLEDライトを、ただじっと見つめていた。それはまるで、指揮者がオーケストラの奏者一人一人を見つめるような、陶然とした眼差しだった。

そして樹は、信じられない光景を目にする。
音無が、いつも彼の耳を外界から遮断していたヘッドホンを、ゆっくりと首にかけたのだ。
静寂。ヘッドホンから、音楽が漏れ聞こえてくる様子は一切ない。
彼は音楽を聴いているのではなかった。
その瞬間、樹は理解してしまった。音無律は、このサーバー群――開発者たちの苦悩、疲弊、恐怖、そしてプレイヤーたちの絶望がリアルタイムで流れ込み、データとして渦巻いているこの奔流――そのものを「聴いて」いるのだ。
彼の口元には、これまで樹が決して見たことのなかった表情が浮かんでいた。
それは、至高の芸術に触れたかのような、恍惚の笑みだった。

それは、人間の感情ではなかった。自らが作り出した作品の完璧な響きに満足する、創造主の表情だった。
樹は、声にならない悲鳴を喉の奥で押し殺し、その場から後ずさった。ドアの金属の冷たさが、手のひらに嫌な感触を残す。
音無律は、人間じゃない。
彼は、神宮寺の狂気が呼び寄せた調律師などではない。
彼は、このゲームという地獄が生み出した、ゴーストそのものなのだ。
樹は、自分が対峙している恐怖の正体が、人知を遥かに超えたものであることを、この夜、初めて悟った。
