短編小説『彼女は人ではなかった。それでも私は恋をした』
― 雨の神宮で、私は彼女に出会った ―
それでも私は恋をした
第一章 雨の神宮、偶然の出会い
その日の雨は、始まりから少しおかしかった。
音がない。
アスファルトを叩く雨粒の音も、傘の布地を叩くあの規則的な音も、どこか遠くへ行ってしまったようだった。梅雨の六月にしては珍しいほど密度の薄い霧雨が、神宮の森の入り口に立つ私をゆっくりと包んでいた。
仕事が早く終わったわけでも、特別な用があったわけでもない。ただ最寄りの駅を降りたとき、いつもなら迷わず歩くはずの帰り道の角で、なぜか足が止まった。視線の先に、鬱蒼と茂る杜の暗がり。石造りの鳥居。その向こうから、濡れた土と緑の匂いが流れてきた。
引き寄せられるように、私は境内へと足を踏み入れた。
・・・
砂利を踏む音だけが響く参道は、不思議なほど静かだった。平日の夕方とはいえ、雨のせいか人影はほとんどない。玉砂利が雨に濡れて鈍く光り、石灯籠の苔が深みを増している。拝殿の屋根から雫が糸を引いて落ち、その細い軌跡が空気の中で揺れた。
ひとまず雨を避けようと、拝殿の軒下に入ったときだった。
森の奥の、少し外れた場所に、人が立っていた。
正確には、「人のようなもの」が、立っていた。
白い装束。いや、装束というより、薄い布地が体の周りで自然に落ち着いているような——そんな曖昧な印象だった。傘も持たずに雨の中に立ち、こちらへ背を向けている。黒髪がゆっくりと揺れていたが、風は吹いていなかった。
声をかけるつもりはなかった。
それなのに、私の口は勝手に動いた。
「……雨、大丈夫ですか」
間抜けな問いかけだと思った。傘もなく雨に濡れているのだから、大丈夫なはずがない。しかし彼女はゆっくりと振り返り、私の顔を真っすぐに見た。
息が、止まった。
・・・
肌が、透けていた。
比喩ではない。頬に落ちる雨粒が、皮膚の上でなく皮膚の中へ吸い込まれていくように見えた。瞳は淡い水色で、光を受けるとその奥がぼんやりと発光しているような錯覚を覚えた。睫毛に宿る雫が、水晶の欠片のように静止している。
美しかった。
ただ、それだけでは言い表せない何かが、彼女の存在にはあった。この世界の密度が、彼女の周囲だけ少し違う。空気が薄い、というよりも、空気が「丁寧に」存在している、とでも言うべきか。
彼女は少し首を傾けた。
「雨は、好きですよ」
声は低くもなく高くもなく、ただ静かに私の耳に落ちた。雨粒が水面に触れる瞬間のような、柔らかな響きだった。
「ここにいると、雨の声が聞こえるから」
私はしばらく、何も言えなかった。
彼女は微笑んだ。口元だけではなく、目も、その周りの空気も、すべてが少し緩んだような笑い方だった。
「驚いた顔をしていますね」
「あ、いや……」私は言葉を探した。「傘、持っていないみたいだったから」
「必要ないんです」彼女はまた前を向き、森の方を見た。「雨は、私を避けたりしないので」
意味が分からなかった。しかしその言葉は妙にすんなりと胸に入ってきて、否定する気になれなかった。
・・・
私たちはしばらく、並んで雨を見ていた。
名前を聞いたのは、その日の終わり際だった。そろそろ帰ろうかと思い、「また来てもいいですか」と聞いた自分に驚いた。なぜそんなことを言ったのか、今でも分からない。
「雨の日なら」と彼女は答えた。「私はここにいますから」
「瑞羽」と彼女は名乗った。雨と羽で、瑞羽。
帰り道、傘を差しながらふと思った。
彼女の足元に、濡れた砂利の跡がなかった。
第二章 重ねる時間、縮まる距離
次に雨が降ったのは、三日後だった。
朝から空が重く垂れ込め、昼過ぎには本降りになった。仕事の途中、窓の外を見ながら私は何度も時計を確認した。定時になった瞬間、自分でも驚くほど素早く席を立った。
神宮の森の入り口に近づいたとき、胸の奥がざわりと揺れた。もしいなかったら、と思った。あの日の出来事は夢だったのかもしれない、とも。
しかし瑞羽はいた。
前回と同じ場所に、前回と同じように雨の中に立っていた。白い衣が雨に濡れているはずなのに、布地は乾いたまま風に揺れていた。
「また来た」と彼女は言った。驚いた様子もなく、ただ静かに。
「来ると言いましたから」
彼女は少し目を細め、また森の方を向いた。私は隣に立ち、同じ方向を見た。梅雨の雨が木々の葉を揺らし、緑の匂いが濃く漂ってくる。二人の間に言葉はなかったが、沈黙は不思議と重くなかった。
・・・
それから、雨の日のたびに私は神宮へ足を運んだ。
瑞羽はいつも同じ場所にいた。私が来るのを待っていたのか、それとも私が来なくてもそこにいたのか、聞いたことはない。聞けなかった、というべきかもしれない。
少しずつ、言葉が増えていった。
彼女は外の世界を知らなかった。電車のこと、コンビニのこと、スマートフォンのこと。私が話すたびに、彼女は静かに聞いていた。興味があるのか、ないのか、表情だけでは分からない。しかし話が終わるたびに、
「もっと教えてください」
と言った。その言葉が、私には嬉しかった。
私も彼女に聞いた。この神宮のこと、森のこと、雨の声が聞こえるとはどういうことか。彼女の答えはいつも少し詩的で、私にはうまく理解できなかった。
「雨はね、落ちるたびに何かを覚えるんです」と彼女は言った。「土に触れた記憶、葉に触れた記憶。私はそれを聞いている」
「それって……楽しいですか」
「楽しい」と彼女はゆっくり繰り返した。「そういう言葉、使ったことがなかった。でも、そうかもしれない」
・・・
七月になると、雨の間隔が開いた。
梅雨明けが近づいているのだと、天気予報が告げていた。私にとってそれは、瑞羽に会える日が減るということを意味した。晴れた日に神宮を訪れたことが一度あった。参道には観光客がいて、石灯籠に夏の陽光が当たって白く光っていた。
瑞羽の姿は、どこにもなかった。
当然だと分かっていた。彼女自身が言っていた。「雨の日なら、ここにいます」と。しかし境内を一周してから帰る足は、思いのほか重かった。
次に雨が降った日、私は開口一番に尋ねた。
「晴れた日は、どこにいるんですか」
彼女はしばらく黙っていた。それから、ゆっくりと言った。
「どこにも、いないんだと思います」
その言葉の意味を、私はすぐには飲み込めなかった。どこにもいない、というのは、眠っているとか、別の場所にいるとか、そういうことではないのだろう。彼女はこの森の、雨の、一部なのだ。雨が降るときだけ、こうして形を持つ。
分かってはいた。最初から、うっすらと。
それでも胸の奥で、何かが静かに痛んだ。
・・・
梅雨の最後の日、空が夕方まで泣き続けた。
私たちは並んで、森の奥の小さな湧き水のそばに座っていた。岩の隙間から細い流れが湧き出し、苔の上を伝っていく。瑞羽はその水面をじっと見ていた。
「ここの水が、私を繋ぎとめているんです」と彼女は言った。「この湧き水がある限り、雨の日には出てこられる」
「じゃあ、水が枯れたら」
彼女は答えなかった。ただ、水面に指先を触れさせた。波紋が広がり、静かに消えていった。
私は彼女の横顔を見た。雨に濡れない肌。光を透かす瞳。この世界に存在しながら、この世界に完全には属していない人。
好きだ、とそのとき初めて思った。
思っただけで、言わなかった。夏はまだ、始まったばかりだった。
第三章 夏の終わり、消えゆく境界
八月は、雨が降らなかった。
記録的な猛暑だと、ニュースが繰り返した。アスファルトから陽炎が立ち、日差しは皮膚を直接灼く。夕立の予報が出るたびに私は空を見上げたが、積乱雲はいつも遠くで崩れ、神宮の上には届かなかった。
会えない日が続いた。
仕事の帰りに境内を通ることもあった。晴れた参道は明るく、観光客の笑い声が響いていた。それなのに、瑞羽がいない場所は、私には妙に色が薄く見えた。
彼女がいないだけで、世界の彩度が落ちる。
そんな感覚を、私は初めて知った。
・・・
八月の終わりに、ようやく雨が来た。
台風の外れた雨で、強くはないが長く続いた。私は傘も差さずに神宮へ走った。いつもの場所に瑞羽の姿を見つけたとき、足が止まった。
彼女が、薄くなっていた。
比喩ではない。輪郭が、前よりもぼやけていた。白い衣の向こうに、うっすらと木々の緑が透けて見えた。肌の透明感が増したというより、存在そのものの密度が落ちているようだった。手を伸ばせば、触れる前に霧散してしまいそうな——そんな危うさが、彼女の周りに漂っていた。
「瑞羽さん」
呼ぶと、彼女はゆっくり振り返った。顔は変わらない。水色の瞳も、静かな微笑みも。しかし何かが違う。光の屈折のような、はっきりとは言えない変化が、彼女の全体に起きていた。
「久しぶりですね」と彼女は言った。「長い夏でした」
「湧き水は」と私は尋ねた。「大丈夫ですか」
彼女はわずかに間を置いた。
「だいぶ、細くなりました」
・・・
森の奥へ歩くと、湧き水のある岩場に出た。
以前は苔の上を伝っていた流れが、ほとんど消えていた。岩の隙間から細い糸のような水が滲み出しているだけで、水面と呼べるものはもうなかった。苔が乾き始め、端から茶色く変わっている。
私はその場にしゃがんで、枯れかけた流れを見つめた。瑞羽は隣に立ち、同じように水を見ていた。
「これが、なくなったら」私は静かに聞いた。「あなたは」
「いなくなります」と彼女は答えた。「正確には、また雨になるんだと思います。どこかの雨粒に戻って、また地に落ちて、またどこかへ流れていく」
「それは……消えることじゃないんですか」
「そうかもしれない」彼女は少し考えるように目を伏せた。「でも、ここにいた間のことは、雨が覚えていてくれる気がします」
私は立ち上がり、彼女を見た。
薄れていく輪郭。透けていく白い衣。それでも揺るがない、静かな眼差し。
言わなければ、と思った。
言わなかったら、きっと後悔する。言っても何も変わらないと分かっていても、言葉にしなければ私の中で腐っていく気がした。
「好きです」
雨音の中に、その言葉は静かに落ちた。
瑞羽は、すぐには何も言わなかった。ただ私を見ていた。水色の瞳が、わずかに揺れた。
「……知っていました」と彼女はやがて言った。「でも、言葉にしてもらえると、違うものですね」
「あなたは」
「私は」彼女は一度だけ目を閉じ、また開いた。「あなたが来るたびに、ここにいられて良かったと思いました。それが、あなたたちの言う『好き』と同じものかどうかは分からない。でも、きっと同じです」
手を伸ばした。
指先が彼女の頬に触れた瞬間、ひんやりとした感触があった。雨上がりの石畳のような、清潔で静かな冷たさ。一秒だけ、確かに触れた。
それから彼女の輪郭が、少しだけ揺れた。
秋が、もうそこまで来ていた。
第四章 それでも私は恋をした
九月の初めに、大雨が来た。
台風が本州を縦断するという予報で、交通機関は朝から乱れ、街は早々に静まり返った。会社は午後から休みになった。私は迷わず神宮へ向かった。
雨は強かった。傘が何度もひっくり返りそうになり、足元の水たまりが靴の中まで染み込んだ。それでも足を止めなかった。今日を逃したら、もう会えない気がした。理由はない。ただそう思った。
境内に入ると、空気が変わった。
木々が嵐に揺れているのに、森の奥だけが不思議と静かだった。雨粒の軌跡が、そこだけゆっくりと落ちているように見えた。私は濡れた参道を走り、湧き水のある岩場へ向かった。
瑞羽は、いた。
いたが——ほとんど、いなかった。
・・・
輪郭が、雨の中に溶けていた。
白い衣も、黒い髪も、水色の瞳も、かつてそこにあった形を保とうとしながら、少しずつ雨粒に還っていた。それでも彼女は立っていた。岩場の前に、まっすぐに。
私の足音に気づいたのか、彼女はゆっくりと振り返った。
微笑んでいた。
形を失いながらも、その微笑みだけは最後まで揺るがなかった。
「来てくれた」と彼女は言った。声がかすかに遠く、雨の向こうから聞こえるようだった。
「来ると言いましたから」
初めて会った日の言葉を、私は繰り返した。彼女の目が、わずかに細くなった。
「覚えていてくれたんですね」
「全部」と私は言った。「全部、覚えています」
彼女は何も言わなかった。ただ、もう一度微笑んだ。
それから——雨が強くなった。
一瞬、視界が白く染まった。
次に目を開けたとき、そこには誰もいなかった。岩場の前に、私ひとりが立っていた。湧き水は完全に枯れていた。苔も、石も、乾いたまま雨に打たれていた。
ただ、空気だけが、やわらかかった。
・・・
帰り道、私はずっと雨の中を歩いた。
傘は途中で壊れた。どうでもよかった。雨粒が頬に触れるたびに、あのひんやりとした感触を思い出した。雨上がりの石畳のような、清潔で静かな冷たさ。
泣いているのか、濡れているだけなのか、自分でも分からなかった。
ただ、不思議と後悔はなかった。
悲しかった。会いたかった。それでも——あの夏の雨の日々は、確かに存在した。瑞羽の声も、横顔も、「好きです」と言ったときの水色の瞳の揺れも、すべて本物だった。誰かを好きになるということが、こんなにも鮮やかなことだと、私は初めて知った。
人ではないものを、好きになった。
報われない恋だと、最初から分かっていた。
それでも私は、恋をした。
・・・
翌年、神宮の湧き水が復活した。
岩の隙間から、細い流れが戻っていた。苔が青みを取り戻し、その上を水が静かに伝っていた。雨粒が水面に落ちるたびに、波紋が広がって消えた。
私はしばらくそれを見つめてから、立ち上がった。
森の出口へ向かう途中、ふと足が止まった。
気のせいかもしれない。
それでも、雨の匂いの中に、あの静かな気配がした。
私は振り返らずに、歩き続けた。
雨は、まだしばらく降り続けるようだった。
― 了 ―
登場人物
「私」(主人公): 蓮見 櫂(はすみ かい)
設定: 大学生、または都会の喧騒に少し疲れた会社員。静寂を求めて神宮の森へ通う。
「彼女」(ヒロイン): 瑞羽(みずは)
設定: 神宮の森の奥、古くからある清い湧き水(水神の眷属、または水にまつわる怪異)から生まれた存在。人には見えないはずだが、ある日「私」と目が合ってしまう。透明感があり、どこか冷たい美しさを持つ。
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