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【シロクマ文芸部】五月病

五月病、だった。
何もやる気が起きない。
顔を洗っても、会社に向かっても、身体の内側に泥のような重さが溜まっているような気がする。

上司に呼ばれて、言われた。
「地下五階の診療所、行ってみなよ」
地下五階。聞いたことがあった。
噂のような、都市伝説のような話で、誰もはっきりと語らない場所がある、と。

普段は使わないエレベーターで、社員証をかざす。
扉が開いたとき、空気がひやりとした。
電灯は薄暗く、廊下はひっそりと静まり返っている。受付には、誰もいなかった。

診察室に入ると、そこにいたのはカエルだった。
立派な白衣を着て、机の向こうで、げこ、げこ、と喉を鳴らしている。
冗談かと思ったが、名前を名乗ると、器用に電子カルテをいじりはじめた。

「五月病はね、五月だから起こるんだよ」
低く、湿った声。
「だからね、六月になれば治るんだ。君も早く六月になれるよう、がんばろうね」

薬が出た。
渡された小瓶を飲み始めると、身体が軽くなっていった。
泥のような重さが、少しずつ溶けていくようだった。

頭が冴える。書類の処理も、会話も、すらすらと進む。
「調子いいですね」と言われて、笑顔を返す。
笑うことすら、億劫だったはずなのに。

一週間ほどすると、喉の調子が変わってきた。
声が少しかすれる。電話の声が聞き取りにくいと言われた。
でも、それ以外は完璧だった。声ぐらい、どうということもなかった。

同僚のひとりも、診療所に通っていた。
「なんかさ、最近、身体が透けてる気がするんだよね」
ほがらかに笑う彼の手の甲が、確かにほんの少し、透けて見えた気がした。

でも、彼も言っていた。
「体調がいいから、続けちゃうよね」

それからしばらくして、彼を見なくなった。
雨の日にふらっと会社から出たきり、連絡がつかないという噂を聞いた。
窓の外を見ると、今日も雨が降っている。
何となく、そこにいるような気がした。
窓辺に弾ける水音が、彼の声のように聞こえた。

僕の声はほとんど出なくなった。
でも、不便は感じなかった。会社ではメッセージアプリでのやりとりが多いし、仕事は順調だったから。

ある日、診察室で医者が言った。
「よかったね。君も、あと一歩で、六月になれる」
その目は、横に細く揺れていた。

それからの日々は早かった。
雨の日が続く。
朝の通勤はぬかるみを踏んで歩くような感覚。
でも、気分は悪くなかった。

鏡の中で、日ごと横に長くなっていく瞳孔。
手足の関節がゆっくりと柔らかくなり、膝を曲げるのが楽になった。
肺の奥に広がる水の匂い。
ある朝、喉がふるえて、げこ、と声が漏れた。
悪くない音だった。

僕は診療所に通い続けた。
いつの間にか医者は消えており、机の上には畳んだ白衣が置かれていた。
袖を通し、席に着く。
椅子は湿っていて心地いい。小瓶を並べる作業も、昔からやっているかのようにしっくりと手に馴染んだ。

ある日、初々しい新人が診察室を訪れた。
うつむき加減で、小さな声で言う。
「最近、やる気が出なくて……」

僕は静かにうなずき、小瓶を手渡す。
「大丈夫。がんばって、六月になろうね」



夢の中で、懐かしい顔たちに出会う。
紫陽花の下でじっとしている彼女。
雨を吸ってふくらんだ土の匂いがする彼。
降りしきる雨粒になった同僚は、窓を叩いて何かを伝えている。
皆それぞれ、思い思いの六月になっていた。

僕らはもう、五月には戻らない。

(1358文字)

前回のお題はこちら⇩


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