一人芝居「おうちのじかん」を過ごして表現者の孤独を考える|岩手県陸前高田市
表現者とは押し並べて一人芝居をしている孤独な存在なのかもしれない。闇に囲まれた空間で、家と人々の営みが表されては消え、消えては表される様子を前に、独り考えを巡らせていた。
文学も。音楽も。絵画も。彫刻も。陶芸も。書画も。アニメーションも。舞踊も。朗読も。服飾も。ライティングも。映像も。独りの表現者が、たった独り主演者として見る者聞く者知る者を魅せる表現だ。
誰かと共に一つの作品を創り上げる機会は数多あろうが、一つ一つの表現を生み出している表現者は常に独りである。共創とは孤独の集合であり、泡沫の夢のような交わりがあるに過ぎない。
孤独だから表現者になるのか、表現者になるから孤独になるのかは定かでないけれども、孤独を避けながら表現を実現するのは困難、いや不可能なのだろう。集合とは常に離散と共に暮らし、孤独を抱えている。
アーティスト・イン・レジデンスは、異日常的な環境に滞在しながら制作や制作に伴う活動をする事業とされる。もしかするとその本質は、日常に在る関係性を断ち切り孤独に返るところにあるのかもしれない。
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泊まれる古本屋山猫堂に一人芝居「おうちのじかん」を観ようと思い立ち寄った。
10日振りに訪れた岩手県陸前高田市にある泊まれる古本屋山猫堂は、普段よりも暗闇に包まれ、静まり返っていた。光が差し、オーナーの越戸 氏の姿が目に映る。間もなく、アーティスト・イン・レジデンス「モグAIR2025」報告会の最後が告げられた。
空き家を扱った事業、空き家から出てきたものを扱ったお店、そして空き家をテーマにした「モグAIR2025」。空き家というワードによって脳が埋め尽くされた直後、アーティスト・青木 氏の話が始まった。
『演劇も音楽や本、テレビ、映画同様に共感を強くできると体感している。この街(陸前高田市)で作品を創り、この街の人々と感情の共感をしていきたい。今夜、共感を体感していただきたい』
青木 氏の退出と共に主演の大橋奈央 氏が登場する。舞台の幕が開く。独りの存在、その喜怒哀楽を表現する一人芝居が始まる。光差す、その言葉を体現したような満面の笑み。躍動するような希望を感じられる幕開けだった。
大橋 氏を通じて目にする家の孤独が癒えていく様子は、かつて誰もが求め、当たり前に在った団欒を想起させる。家とは本来そうした温かな場であり、存在なのだろう。独りを感じさせない一人芝居が、そうした本来の家の姿を見せつける。
大橋 氏の一挙手一投足、一言一言に家の持つ温かみを震撼させられる。全身に怖気が走るほどだ。眩しく輝く光。柔らかくひらめく真っ白な服。配られる花々。ぐにゃり躍動する表情。高らかに弾む声。その全てが温かな風となって体を打つ。
冷えた空間に吹く温かな風は、強く強く強く心を震わせた。
朗らかな声が続く。家の中、家の周りで繰る日常の様子が、来る日も来る日も巡る光景が闇の中に浮かぶ。それを人は平和と感じるのかもしれないし、退屈と感じるのかもしれない。どちらにせよ一つの幸福の形には違いない。
しかしながら幸福は長く続かない。声色が変わり、声が途切れ、空気が転じていく。眩しかった光は姿を暗ませ、希望が失望へ、そして絶望へと変じていくように、心のざわめきを掻き立てながら、一人芝居は暗転していく。
闇が落ち、闇に堕ちる。
家は驚きを湛えながら人の変化を捉えられずに、ただただ事態の変化に囚われていく。まるで変化に乗れなかった人々が置き去りにされ、取り残されていくかのごとく、家は釈然としないままに呆然と立ち尽くし、崩れ落ち、朽ちていく。
その様子を前にして、『かつて希望の象徴だった家が、気付けば寂しさの象徴になってしまった』そんな想いを独り抱く。人が減っていく時代にあってそれは自然で、それは必然なのだろう。一人芝居は、まさにそんな家の現実を顕実にしているようだ。
しかし立ち込めた霧が晴れるように、空を覆う雲が流れ去るように、月日の経過、時の流れによって、再び事態は変わって行く。明転。誰も居なくなった家にも人は訪れる。一人、また一人と。光差す。
そこはかつての家ではなくなってしまったけれど、家には違いない。家である限り、人がやってくればまたやり直せる。建て直せる。それもまた家の在り様であり、家の力と言える。一人芝居は、そんな一筋の希望を垣間見せる。
希望の光が差し込んだ舞台に、温かな拍手が鳴る。一つ、また一つ、そうして数えきれないほどの音で舞台が満たされる。まるで、家が再び温かさを、賑やかさを取り戻したような空間が出来上がる。一人の芝居が、孤独から解放されたかのような時間が訪れた。
「おうちのじかん」を過ごし、家という存在を通じて表現者の孤独を垣間見ながら、表現者という存在と一人芝居の重なりを感じていた。表現者とは、常に芝居を迫られている。
空墟な箱となった家のように、ただの一人の人間としては求められない表現者は、表現者という芝居をしなければ孤独な存在だ。一方で表現という芝居をしている限り、その孤独からは解放される。
その解放が真の救いかどうかは定かでないけれど、表現を続けている限り、孤独は癒されるのだ。それを現実逃避だと言う人間はいるかもしれない。けれど表現しなければ誰からも求められない現実に抗うのは逃避だろうか。
置き去りにされ、忘れ去られ、取り残された家が崩れ落ちて朽ちるしかないように、誰からも求められない人間が孤独を受け入れてしまえば崩壊して朽ち果て破滅するよりない。そんな現実に抗うのは現実逃避だろうか。
家に人が集まり希望が生まれるように、孤独な表現者が表現によって希かな望みを得られる可能性は僅かかもしれないけれどあるはずだ。生きていて良いのだと思える道が細く淡く儚くも見出せるだろう。「おうちのじかん」はそんな希望をも感じさせてくれる一人芝居だった。
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