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正しさに囚われる社会は個性を奪う|Bungakuサロン 中島敦「山月記」|泊まれる古本屋山猫堂 in 岩手県陸前高田市

学校の国語のテストでは正しさを求められるけれど、文学の解釈は自由で正解はない。そんな想いを抱く時間だった。

『正しさの時代っていうのと近いかもしんないけど、ちゃんと理解してなきゃとか、そういうのってやっぱり今すごいあるから。でも、それを突き詰めてくと、結局個人の差ってなくなるじゃないですか。

だからBungakuサロンをやった時に、調べてくる必要はなくて、勘違いした理解とか、その人が勝手に思ったこととか、それを持ち寄るのがやっぱり面白い』

『違いが分かればいい。俺はこう思ったけど、あっちでは俺こう思ったよっていう人がいた。おおっていうのあればいいなと思って』

泊まれる古本屋山猫堂 Bungakuサロン「山月記」

何かと正解や正しさが求められる昨今だけれども、誰もがその正解や正しさの枠に自分を当てはめてしまうと、そこに個性や個人の差は生じなくなってしまう。多様性が失われ、絶対正義のみが許された画一的な世界が誕生するだろう。

2026年5月30日に岩手県陸前高田市の泊まれる古本屋山猫堂でBungakuサロンが開催された。そのアフタートークにおいて、オーナーの越戸 氏、スタッフの木津谷 氏、ゲストの横道 氏の3名と参加者が交わした対話の中で、正しさを求められる社会が度々テーマとして現れる。

文学作品を通して、今我々が暮らしている社会の歪みが垣間見られた形だ。それは文学作品が持つ力の新たな一面に触れた心持ちにさせられる瞬間でもあった。ただ読むだけではなく、思考し、解釈し、他者の解釈を通じて深堀りする。

文学作品にこのような魅力があったのか。Bungakuサロンは、そんな気付きを与えてくれたのだ。折しもそれは、対話を大切にする泊まれる古本屋山猫堂を体現しているかのような気付きでもあった。


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中島敦「山月記」を題材に一人芝居を通じて文学を掘り下げた夜|Bungakuサロン in 泊まれる古本屋山猫堂(岩手県陸前高田市)

煌々と燃える焚き火の煙が漂う中、俳優の横道毅 氏が机の前で声を上げる。山河を駆け抜け街まで通るような声が、辺り一帯に響き渡る。呼応するかのようにカエルたちの声がBGMを奏でた。

袁傪、そして李徴へと演じる役を変え、虎と化した李徴として、横道 氏が物語を進めていく。ときに舞台を駆け、ときに舞台で蹲り、ときに兎を食した事実に嘔吐し、ときに慟哭する。

鬱蒼と茂った木々を照らす陽の光が傾き、夜の訪れを斜陽とともに感じられる中、横道 氏の声と表情、言葉と動きだけが視界を埋め尽くし、脳を占有する。山猫堂の庭が、袁傪と李徴が再開した山中道へと転じていくようだった。

あたかもその場に、我が身を虎へと転じて旧友と語る李徴が顕現しているかのような迫真の演技を前に、観客たちの間を漂う空気が張り詰めていく。カエルの鳴き声がどこか遠くに感じるほどに、横道 氏の声以外の音が消えていく。

横道毅 氏「山月記」

張り詰めた空気を破ったのは、山月記を演じ終えた横道 氏を称賛する大きな拍手だ。20分もの時間が刹那に思えるほど、山月記を克明に映し出した演技は、その場にいた誰もが称えずにいられない素晴らしい内容だった。

”正しさ”の在り処を「山月記」の掘り下げとともに探る

続くアフタートークでは、山猫堂で偶然見つかった虎のオブジェの話から始まり、横道毅 氏が今回の題材として「山月記」を選書した経緯、李徴という人間の人物像について、「山月記」はなぜ虎だったのか、劇中歌について、正しさを求める社会についてなど、様々な切り口で「山月記」を深堀りした。

『今、全部正しくなきゃみたいな時代じゃないですか? SNS とかだと全部正しくないとダメって。それが有名人であれ。歌が上手いだけじゃなくて、考え方も正しくないとダメ。一個ミスっただけで、そんな人だと思ってませんでしたみたいな。それはすごい息苦しいですよね』

『酔ってね、飲んでね。不用意な書き込みしたりとかあるわけですよ。あと例えば SNSなんか見て、好きだったアーティストがなんか言ってとかあるんだけど、とりあえず分離して考えようと。あなたの歌は好き。あなたの曲に罪はないから。あなたの人間性については、おや? と思うかもしれないけど、この曲は好きかなとか』

泊まれる古本屋山猫堂 Bungakuサロン「山月記」

とりわけ考えさせられ、印象に残ったのは、”正しさ”についての話だ。冒頭の繰り返しになるけれど、文学作品、あるいは文学作品に限らず、森羅万象、その多くの事物について、一意的な”正しさ”はおよそ存在していない。

誰もが反対する戦争でさえ、その反対が正しいかは、立場や解釈によって変わる余地を有している(もっともそれが戦争を肯定する材料になるかどうかは疑わしさがある)。

たとえば学校の国語のテストでは、文学作品の登場人物の心情を回答させる問題が多々見られ、そこには明白な正しい回答めいたものが設定されているけれど、文学作品の解釈は読者一人一人に委ねられているため、一意的な正しさは存在し得ない。

よって、本来的に物語を読んで何を感じようと、何を考えようと、それは個々の自由だ。そして個々人が何を考えようと間違いではない。なぜならば、”正しさ”など存在していないからだ。

「山月記」に関して、もしかすれば中島敦は”正しい解釈”を有しているかもしれない。だが、中島敦は「山月記」の読者が持っている”正しい解釈”を有しない。繰り返しになるけれど、結局のところ一意的な”正しさ”は存在しない。

だから『正しくなければならない』が蔓延る昨今の社会、SNSが台頭するとともに大きな力を持っている現代は、存在し得ないものに囚われ、存在し得ないものを追い求めている。

それはある種、『臆病な自尊心と尊大な羞恥心』によって生じる妄執めいているし、終わりのない自傷のようだ。誰一人幸せにならない傷の付け合いをありもしない”正しさ”の御旗のもとに繰り返し続けているのだから、人間とは何と愚かだろうかと思わずにいられなくなる。虎の方がマシだと思いそうになる。

泊まれる古本屋山猫堂で行われたBungakuサロンは、”正しさ”を超越したところで対話を繰り返し、文学作品を深堀りする時間だ。「山月記」をテーマに”正しさ”の在り処について語り合った今回は、Bungakuサロンの好さを存分に味わえた時間だったように感じる。


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