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家を築くために知るべき結婚・教育の在り方とは何か|鶴見俊輔「家の中の広場」読書感想文

鶴見俊輔による「家の中の広場」を知ったのは、泊まれる古本屋「山猫堂」の聡明なスタッフの方を通じてだ。本書について話を交わす中で、どうしても読みたくなり、探して取り寄せた。本書の印象としては、「世代か世代へ」に掲載されている話が鮮烈だった。

秩序が家の中にできるということは、うらがえして考えれば、家の中では、おたがいが殺そうと思えばたやすく殺せる間柄にあるということである。
日本の家をとってみると、部屋に鍵がかかるようになっていないし、家の中の誰かが、他の誰かを殺そうと思えば、体力のあるなしにかかわらず、殺すことができる。
家というものは、いつ家人に殺されてもよいという気分にむすばれた場であると言える

鶴見俊輔「家の中の広場」

殺伐とした狂気を感じられる文章であるが、本文章は何も家の危険性を説いたものではない。いつ殺されてもおかしくない家という世界の中で、それでも互いに助け合って共同生活をしている。つまり家とはお互いを育てる場であり、その場を成り立たせるためにお互いに働く親和力がある世界だと説いているのだ。

家というものに対するこの指摘は、目から鱗が落ちる思いだったのもそうだが、従前全くとして考慮した経験を持たないが故にハッとさせられたものである。それは平和な世界のみを生きてきた筆者にはない、戦中といういつ殺されてもおかしくない時代を生きた世代だからこその指摘であり、価値観の相違だと感じた。

家が互いを育てる場であるといった指摘も、改めて言葉にされると納得感のある指摘である。一方で現代の家はどうだろうか。夫婦一つとっても、一方の不満を並べ立て、罵り合うような場面が多く見られ、互いを育て合うという概念が欠けているようにも思われる。本書の言葉に則るならば、それは家を築き上げられていないことになるのでなかろうか。

翻せば、結婚相手として選ぶべきは、互いに助け合い、互いに育て合える関係性を築ける親和力のある相手となるようにも思われる。もちろん、寝首を搔いて来ず、殺そうとして来ないような相手を選ぶべきだろう。それはそれとしても、夫婦というのは冷静に考えて特殊な関係性である。

母と子、父と子の間には血縁が存在するけれども、母と父の間には何もなく、言ってしまえば赤の他人である。本書の言葉を借りるならば、性の欲望で結びつき、生殖した間柄でしかない。そうしたか細く薄い繋がりから、親和力の働く家を築き上げる共同パートナーになる必要がある。

非恋化・非婚化が進む現代において、結婚に対して面倒臭いといった声がある。それは何も愛し合った相手との関係性を継続することに対する感情だけを理由とする声ではないにせよ、親和力の働く家を共に築き上げなければならないなどと理想を追い求めれば求めるほどに面倒臭いと思う感情は膨らむのだろう。

一方で、そうした面倒臭さを超えた先に、互いに助け合い、育て合える、親和力のある家で人生を歩める未来があり、それは独り孤独に歩む未来に比べれば、深い安心感と独りでは得られなかった多くの体験、感動がある。それは金を払えば手に入れられるものではなく、家だからこそ得られるものだ。

未亡人にむかって独身を守ることをすすめる旧来の立場に対して、山田わかは断乎、再婚をすすめる。彼女が家庭を大切とする理由は、家庭が、野蛮なる男性を女性とおなじ文明人のレヴェルまでひきあげる場所であり得るからだ

鶴見俊輔「家の中の広場」

本書においては、別の角度から結婚の薦めめいた話が見られる。それが上記の山田わかに纏わる話である。昨今は何かと優れた理想の相手との結婚が志向されがちであるが、前述の通り家とは互いを育てる場である。優れた理想の相手との結婚によって薔薇色の未来を手に入れる妄想が進むのは想像に難くないが、翻せば、それは自身が劣っており、育ててもらう側になることを意味する。

そこに対等の関係を望むのは極めて難しい。下手すれば生殺与奪の権を握られた関係性になる可能性がある。繰り返しになるが、家とは互いを育てる場である以上、対等の関係性であるのが本来の在り方であり、自分より優れた理想の相手を志向するよりも、互いに対等に話し合え、育て合える関係性を築ける相手の方が好ましいのでなかろうか。

能書きがけたたましく長くなってしまったが、鶴見俊輔による「家の中の広場」は、教育に主眼が置かれた話が多い一方で、ここまで書いたような家を通じて結婚というものについて考えるきっかけを与えてくれる。本書の存在を教えてくれた山猫堂の博識なスタッフの方には感謝するばかりである。


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AI時代を生きる人々が考えるべき学校教育について示唆を得る|鶴見俊輔「家の中の広場」読書感想

鶴見俊輔による「家の中の広場」は、教育に関しても示唆に富んだ内容になっている。とりわけ学校教育に対する提言は、従来の学校教育が大きな変化に晒されている現代を先取っているかのようであり、1982年に刊行された本書の先見の明に驚かされる。

その入学試験が、大量の受験生を短い時間で「客観的に」さばくために、○×式の答を出す質問をするようになると、教育のなかみは、機械的になってしまう。機械に似せ自分をつくりなおすことで、機会に似た正確さをつくるという方向をめざすことになる。

鶴見俊輔「家の中の広場」

とりわけ上記の指摘は、AIの利用が前提になってきている社会において、重要な示唆をもたらす提言であり、学校教育を根幹から見直す必要性を思考させる。何せ、従来の正答を追いかけるだけの学校教育の在り様では、人間を劣化AIへと教育する程度の意味しか持たなくなってしまうのだ。

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