【創作大賞2025応募作・ミステリー小説】サウザンド・ティアーズ⑤ ~うまくいってるなんて思えた事は一度もない。ただ、涙を流さずに生きるだけで精一杯だ。
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慶次朗は隣の部屋に入った。
この部屋は広く、長机がロの字に置いてあった。
その窓際の対角で、山野辺が警官と書類を見ながら、話していた。
城田は部屋の隅にあるコーヒーメーカーからコーヒーを注いでいたが、慶次朗が入って行くと、そちらを向いた。
「花房さん、気が済みましたか?」
「ええ。姉と二人にしていただき、ありがとうございました」
警官相手に、話をしていた山野辺が慶次朗の方を見た。そして、城田へ向き直った。
「なんだい、刑事さん!どういう事だ?肉親だとそんなえこひいきすんのかよ?俺ん時は、絶対に二人にはしてくれなかったのに…」
「それは違いますよ、山野辺さん。あなたは今、遺体引き取りの手続きをしていたでしょう?その間、花房さんはやる事がないはずなので、お姉さんとの別れをしてもらったにすぎません。ああ、花房さん、よかったらコーヒーを飲みませんか?」
「あれあれ?俺にはコーヒーもねえのか?」と、山野辺が不貞腐れたように言った。
「山野辺さん、そんな事までフテないで下さいよ。今、私は全員分のコーヒーを淹れてたところですよ」
「そうなのかい?手続きは全部終わったぜ。なあ、お巡りさん?」
「ええ、後は花房さんのサインと印鑑をいただければ完了です。花房さん、お願いできますか?」
「おお、じゃあ、兄ちゃん、俺と代ろう。俺はあっちでコーヒー飲んでるから、お前、こっちに来て、書けばいいや」
そう言いながら、山野辺は席を立ち、城田の方へ向かい、コーヒーを受け取った。
慶次朗は、山野辺が座っていた椅子に腰かけた。
その椅子は、予想通り、山野辺の体温で生暖かくなっており、しかも少し湿っていて、気分が悪く、慶次朗は思わず顔をしかめた。そんな事は全く気に掛けず、事務処理をしている警官は慶次朗の前に書類を出した。
「じゃあ、この書類の私が鉛筆で薄く丸く囲ったところ全部に氏名、生年月日、住所などを記入して下さい。後、今日は印鑑をお持ちですか?」
「いや、そんな事は聞いてなかったもので…」
「そうでしょうね。なければ拇印で構いませんよ。左の人差し指で」
そう言いながら、警官は黒いインクの蓋を開けて、を慶次朗の前に置いた。
うわ… 別に何も悪い事してねえし、前科もねえけど… でも、やっぱ、警察に指紋取られるの、何か嫌だなあ…
「早くしろよ、兄ちゃん!何か、後ろ暗い事でもあんのか?」と、背中から山野辺が言った。
「山野辺さん、変に煽るのはお止め下さい。ここからはあなたには関係のない事です。あなたの用件は全部終わっております。ここからは花房さんだけにご対応いただく事になりますので、山野辺さんにはもうお引き取り願います。」と、城田が山野辺に言った。その口調は言い返しのできないような鉄壁さを感じるものだった。
「分かりましたよ。出て行きます、出て行きますって」
山野辺は部屋を出た。
彼が出た途端、慶次朗はこの部屋の中に静寂が訪れた気がした。
響くのはただ、空調の音だけ。
それに、部屋の温度も急に下がったように感じた。
「拇印を」
目の前の警官が慶次朗に促した。
「あっ、はい」慶次朗は人差し指を出した。
書類が全部整うと、警官は部屋を出て行った。
城田と慶次朗だけが残った。
城田はさっきまで警官が座っていた椅子に腰かけた。そして、慶次朗の方を向き、「一応、本件の概要を分かっている事だけを簡単に説明しておきます」と、言った。
「お願いします」
「夕方のニュースで第一報が流れましたが、それはご覧になられましたか?」
「見ました」
「どこで?」
「歌舞伎町の立ち食いそば屋にいたんです。後輩と遅い昼飯を食ってました。そこで」
「そうですか。なら、概要から。岩沢恵美さんは、銀座線を銀座駅で下車し、地上に出ました。そして、銀座6丁目辺りの昭和通りから二筋程上がった狭い一方通行の道を新橋方面へ向かって歩いておりました。辺りは昼休みも終わってサラリーマンたちの姿も少なく、また、その道自体も何か目的でもない限りは人が沢山歩く事がない道でした。その道を岩沢さんは西向きに進み、横断歩道のない南北の道路を渡ろうとしていた時、何者かに刃物で刺されたのです。その刃物は、まだ鑑識の正式な見解は出ておりませんが、細く長い、恐らくは柳刃包丁のような形状のもので、岩沢さんは右の腰を刺されました。刃物は本当に長く、岩沢さんの体内を15㎝以上の深さで刺さったと思ってます。犯人の攻撃はそれ一度だけで、刺した後、犯人は刃物を抜き、そのまま走って逃走したと思ってます。現場周辺の防犯カメラを確認中ですが、犯人は一人で、降り始めた雨の中、傘もささずに黒っぽいブカブカのポンチョを着て、フードを被っていました、刃物は恐らく上着の中に隠したのでしょう。岩沢さんが、刺された時に、その道路を横断しようとしていた女性の会社員二人組がおりまして、彼女たちは岩沢さんの前で、車が通り過ぎるのを待っていたそうです。その後ろに岩沢さん、そして、その後ろに犯人がいたんだと思ってます。その二人組は、岩沢さんが急に倒れたので、何かと思い、振り返ると、来た道の方へ走っていくポンチョの男を確認しております。ただ、正確には男だとは断言できないのですが、彼女たちの証言や、防犯カメラのいくつかの映像から、恐らく男性だろうと思っております。彼女たちは、最初に救急車を呼びました。そして、すぐ後に、岩沢さんの身体から大量の血が流れている事に気づき、警察に通報してきたという次第です。ここまでで、何か質問はありますか?」
「あるかもしれませんが、今は分かりません。大変混乱しております」
「まあ、そうでしょうね。心中、お察しします。で、花房さんは、犯人に心当たりがありますか?」
「いや、全く…姉と言っても、実はもう7,8年は会ってないんです。最後にあったのは、恵美姉の結婚式の日で… あっ、ああ、嘘をつきました。3か月前に、姉の旦那の岩沢栄作さんが交通事故で急に亡くなった時に、葬式の席で、恵美姉と久し振りに会いました。でも、その時は姉は憔悴しきってて、まともに会話もしてません。だから、正直に言って、最近の姉がどんな暮らしぶりだったかは俺は全く知らなくて…ただ、毎年、俺と姉の誕生日の日、実は今日なんですが…誕生日にはお互いにカード付きのプレゼントを贈り合ってました。今年の分は俺は送ったけど、姉からのはまだなので、今日、家に帰ったら着いてるかもしれません」
「姉弟揃って、同じ日が誕生日なんて、珍しいですね?」
「いやそれは、俺と恵美姉は親に捨てられた子供なんですよ。まず、親父がいなくなって、暫くしてお袋もフケちゃって…両親とも訳アリなんだか知らないけど、俺と姉には住民票がなくて、戸籍も見つからなくって…だから、俺と姉の誕生日は俺らが育った児童養護施設に入所して日で、俺らは二人とも苗字を知らなくて…だから、苗字はその施設の園長先生の花房をもらったんです」
「なるほど…そういう訳ですか…でも、お姉さんにとっても、あなたにとっても、今日が誕生日なんであれば、何もそんな日にねえ、こんな目に遭わなくても…分かりました。では、今日のところはこれでお引き取り下さい。私の名刺を渡しておきますので、何か思い出しましたら、携帯までお電話下さい。また、こちらで何か出ましたら、さっき書いていただいた花房さんの電話番号まで電話させていただきます。その際は私の携帯の番号が表示されますので、登録をお願いします」
「分かりました。では、失礼します」
慶次朗は、ドアを開けた。
通路を歩き左へ曲がると、エレベーターホールだ…
慶次朗はエレベーターに乗り、一階を押した。
一階に着き、エレベーターのドアが開くと、エントランスホールに山野辺がいた。
「待ってたよ。意人(おきと)の事を話さなければならないんでな」
意人(おきと)…
恵美姉の大事な一人息子…
忘れていた…
大事な存在…
「分かりました。で、どこで話しますか?」
「あんた、車かい?」
「いえ…」
「じゃあ、送ってくよ。うちの配送用の軽のバンだけどな。雨はまだ降ってるから丁度いいだろう」
「分かりました」
「じゃあ、行こうぜ」
山野辺と慶次朗は、雨の中、外へ駆け出した。
