【創作大賞2025応募作・ミステリー小説】サウザンド・ティアーズ㉖~うまくいってるなんて思えた事は一度もない。ただ、涙を流さずに生きるだけで精一杯だ。
■
また数日が過ぎた。
慶次朗はまだ、バイクの運転の許可が出ていなかったので、地下鉄を乗り継ぎ、約束の10時に間に合うように、神谷町駅を出た。
地上に出ると、外はまだ暑くて、とても午前10時とは思えない蒸し暑さと、日差しだった。
10分程歩いて、目的のビルを見つけた。
このビルは基本的にはマンションのようで、自動ドアを開けるためには、インターフォンを押す必要があった。
慶次朗は教えられた603のボタンを押した。
「どちら様?」
「黒崎さんの紹介で来ました。花房と言います」
「どうぞ」
自動ドアが開いた。
慶次朗はエレベーターに乗った。
慶次朗は6階で603を見つけると、すぐにドアが開けられ、事務所に通された。
事務所の中は、窓を背に大きなデスクがあり、その後ろには座り易そうな黒っぽい皮のライティングチェアがあった。
入口の方には依頼人用と思われるカウチと、一人掛けのソファ。
部屋の中の空気は清潔でとても涼しく、仄かにコーヒーが香っていた。
BGMはボーカル入りのボサノバがかかっている。
慶次朗は、晴れた優雅な午前中を演出しているみたいだなと思った。
しかし、この部屋の持ち主は、どこかに行ってしまっていて、慶次朗はどこに座ったらいいのかが分からない。
だから、彼は立ったまま待ってる事にした。
右の引き戸が開き、マグを二つ手にした男が出てきた。
「どうぞ、お掛け下さい」と、男が言った。
「どこに?」と、慶次朗が訊いた。
「デスクの椅子は僕用だから、それ以外なら、どこにでも。コーヒーはブラックでいいかい?」
「ええ、ありがたいです。もらいます」
男は、慶次朗にマグを手渡した。
そして、自分の席に座り、マグからコーヒーを一すすりした。
少し悩んだ後、慶次朗は一人掛けのソファに腰掛けた。
いきなり男が話し始めたので、慶次朗は持っていたマグを下げ、飲むのを中止した。
「黒崎さんからは連絡をもらってます。僕は、探偵の里崎紘志朗と言います。但し、人捜し専門だから、お間違えの無いように」
「里崎さんが人捜し専門だって事は、黒崎さんから聞いてます。人を捜して欲しいんです」
「詳しく話を聞きましょうか。その上で、調査料などの経費の話をしましょう。でも、まず、コーヒーを一杯味わってから。どうぞ、飲んで下さい」
「ありがとうございます」
慶次朗は、コーヒーを飲んだ。
美味いコーヒーだった。
「美味いっすねぇ」思わず、慶次朗は口に出た。
「そうでしょう…良かったら、何杯でも出しますので、遠慮なさらずに」
「ありがとうございます」そう言って、慶次朗はコーヒーをまた、飲んだ。
そして、慶次朗はようやく話しを始めた。
■
「と、言う事はだ。今、君が僕に話してくれた今回の依頼内容をここでいったん整理してみよう。まず、君は、君が一度も会った事がないこの写真の地下アイドルを捜したいという事だね。」
いつの間にか、里崎の口調は熱を帯びて、フランクになっていた。
「そうです」
「この若い女性の本名を君は知らないし、年齢も知らない。ただ、リンちゃんという芸名と、彼女が所属するグループのラブリンズという名前だけが分かっている」
「そうです」
「彼女が行方不明になってもう一か月以上が経っている」
慶次朗は頷いた。
「彼女は高円寺にある地下アイドル専門の芸能事務所クリームパフェに所属していて、彼女は行方不明になる前の日に、事務所から50万円を前借した。そして、その金について、事務所は杉並西署に、彼女が犯人とする盗難届を出している」
「その通りです」
「と同時に、彼女の捜索願も事務所が出していて、現在捜索してるのは同じ杉並西署である」
「そうです」
「君、花房慶次朗君の実の姉である岩沢恵美さんは、そのリンちゃんのトレードマークをあしらった傘を差してるところに、通り魔に刺されて死んだ」
「ええ」
「お姉さんの死と、今のリンちゃんの失踪は何か関係があるのではと、君は睨んでいる」
「そう」
「だから、君はリンちゃんを捜し出したい。そして、彼女からお姉さんを殺した犯人のヒントを導き出したいと、思っている」
「そうです。お願いできますでしょうか?」
「いや、これは難問だよ。でも、頼んできたのが黒崎さんだろう。僕は歌舞伎町で人を捜す時は、必ずと言ってもいいぐらい黒崎さんに世話になってるんだよ。だから、彼には借りがあると思ってるし、その借りは返さなければならないと思ってる。しかも、僕と黒崎さんの共通の知人である吉岡弁護士からも後押しの電話をもらってるんだよ。吉岡さんはね、僕の事務所と黒崎さんの店の顧問弁護士をしていてね。加えて、僕にとって、吉岡弁護士事務所は大事なお客さんでもあってね。彼の事務所は時々だが、僕に美味しい仕事を回してくれるんだよ。だから、僕の立場としては、今回の案件は請けざるを得ないんだ。但し、調査費等の経費はキッチリといただきたいので、もし、それが君にとって高いようであれば、残念ながら、今回はなかった事にさせてもらいたいんだが、どうだい?」
「因みに、どういう取り決めで、おいくらぐらいですか?」
里崎は、条件と金額を伝えた。
パッと聞いた時点で、慶次朗はリーズナブルなのでは?と、思った。
「分かりました。里崎さん、その条件と金額で正式に仕事をオファーさせていただきます」
「えっ?値切ってきたりしなくても大丈夫かい?」
慶次朗は、相変わらずのデニムとTシャツ姿だったので、安く見積もられたのはしようがない。
でも、彼は歌舞伎町で一、二を争うホストクラブのナンバー2だった男なので、それなりの蓄えはある。
だから、里崎が言ってくる金額は、杉並西署が一カ月以上も見つけられないリンを見つけてもらえるのであれば安いと思った。
「値切る?黒崎さんに紹介してもらった里崎さんを値切るなんてな事はしませんよ。でも、出来るだけ早く仕事にかかって下さい。できるだけ早く結果が欲しいんです」
「分かった。じゃあ、後、コーヒーを二杯飲んだら出かけるよ」
「まずはどこへ?」
「事務所と杉並西署だね。後、報告は情報が入り次第、随時、電話連絡なので、了承して欲しい」
「電話なんですね」
「そう、必ずこっちからかける。そっちが電話が取れなかった場合は、コールバックは不要だよ。こっちが潜んでいたい時に、バイブ音がしたんじゃ、仕事にならないからね。同じ理由で、僕はメールを使わないんだ」
「なるほど、ではお願いします。後…」
「後?」
「これから飲むコーヒーは一杯だけにしてもらえたらと思います。早く出かけて欲しいのと、少々、カフェイン摂取が過ぎるんじゃないかという老婆心からですが…」
「早く仕事にかかって欲しい事は分かった。しかし、カフェイン摂取については、こちらの勝手とさせて欲しい。僕はコーヒーなしには生きていけないんだ。後、音楽ね。音楽は仕事中にはなかなか聞けない。だからせめて、コーヒーぐらいは自由に飲みたいだけ飲ませて欲しい。分かったかい?」
「分かりました。では、宜しくお願いします」
そう言って、慶次朗はオフィスを出た。
彼が玄関のドアを閉める時、かかってる音楽がボサノバから、緊張感のある前衛ジャズに変わった。
里崎はこのアルバムを聴きながら、コーヒーを二杯飲むのだろうと、慶次朗は勝手に想像した。
