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【創作大賞2026応募作・ファンタジー小説部門】Slit ㉚


家に着くと、カウチに足を伸ばして横座りしたまま、何もせずに過ごした。

新橋で痛む足を引きずりながら地下鉄の階段を下りていくのが億劫で、側道にいたタクシーに乗って、町田まで帰ってきた。
片道1万5千円以上を覚悟しなければならない距離なので、いつもなら絶対にしない事だが、私は精神的にやられてて、身体も疲れ切っていたので、躊躇う事無く、タクシーを使った。

不思議な事に、宮西と話してる間、左足の痛みがどんどん酷くなっていった。
今では太腿の大きな血管が脈打つのを感じ、一回毎に足が重くなり、鈍い痛みが増してきている。
額には脂汗が滲み、背中はもう汗でびしょびしょになっていた。

タクシーの運転手は寡黙な人だったので、余計な会話をせずに済んだのが幸いだった。

首都高も東名も目立った混雑はなかった。そして、町田街道も空いていたので、1時間程で私は家に帰り着いた。


カウチに座ってから、何時間が経つのだろう?


あまりに強烈な事を聞かされてばかりだったので、正直私の頭の中は混乱していた。
聞いた話を時系列に整理し、検証しなければならない。
それは分かっている。
しかし、頭は一切回らない。
それどころか、聞いた話全部を受け付けようとしない。

私は何も考えられず、さりとて別件に意識を振り向ける事も出来ず、ボーっとして、同じ姿勢を保ったまま、ただ座っていた。
ちょっとでも動くと吐きそうだった。

じっとしてると、足の痛みは徐々に引くと思ってたが、そうはならなかった。
むしろ、脈の音はますます大きくなり、それに従って、痛みは大きくなり、足は重くなっていった。

この痛みは本当に不快だ。
いっそ、足なんてなくなってしまえばいいのに…
そうもいかんか…

ここはリアルワールドだ。
スリットを潜り抜けて、色んなワールドへ行ってた時とは訳が違う。


シンパン!

天井の白い壁紙を見ながら、身体に影響が出ないように小さな声で呼んでみた。

誰も答えない。

そりゃそうだ。

私は諦めた。


窓の外を見た。


夕焼けの時間だ。空は厚い雲に覆われてるが雨が降る予感はしない。雲の隙間から弱々しくオレンジの光が向かいのマンションを照らしている。湿度は高いが、何となく肌寒い。もうすぐ、梅雨明け前の夕闇の時間を迎える。


時計を見た。6時半。


大坪さん…


大坪さんの私用携帯番号は知ってる。
彼はまだ、働いてるだろう。

私の今の精神状態でも、辛うじて大坪さんとなら電話で話せるだろう。
但し、大坪さんがさっき宮西から聞いたようなスタンスなら、もう無理だ。


どうしよう…


いきなり、核心を突くような問いかけをして、彼が宮西が言ったような事なら、ブチっと電話を切ればいい。
それなら出来そうだ。
やらなければ、少しも前に進めない…

私はスマホを取り出し、大坪さんに電話を掛けた。
大坪さんは出なかった。

彼の事だ、きっと掛け直してくるだろう。
そう思って、私はスマホをローテーブルに置きかけた。
すると、スマホが鳴った。
大坪さんではない、見た事が無い携帯番号が表示されている。
ちょっと怖いが、私は電話に出た。

「鵜塚か?」
「なんだ、宮西じゃないか…僕とは二度と会いたくないんじゃなかったっけ?電話で話すのも嫌なんじゃないのか?」
「ああ、それはそうなんだが、俺はあんまり嫌過ぎて、お前の名刺をシュレッダーしてしまったんだよ。だから、メールが出来なくなってて…ショートメールを打とうかと思ったんだが、面倒臭いんで、電話したんだ。今、話せるか?」
「自宅だよ。大丈夫だ。警察が何か言ってきたのか?」
「ああ、さっき帰っていったところだ。お陰で俺は会社を早退する羽目になってしまったよ。警視庁の小畑という中年男性の刑事と部下らしい若い男が二人でやってきた。若い方は名乗りもしねえし、小畑が話してる間中、ずっと黙っていた」
「それで、大町さんの件はどうだった?」
「大町さんはLSDの過剰摂取による幻覚症状で自宅マンションのベランダから自分で飛び降りたという事でまとまっていきそうだ」
「それで、彼にクスリを売った元ホストは?」
「ああ、色々分かった。町田にあるホストクラブの元ホストで、タナカミキオという名前らしい。源氏名はハルト。ヤツの勤めてた店は瞳の店から500mも離れてなかったようだ」
「それで、そいつは瞳さんやうちの瑤子にクスリを売ってたという証言をしてるのか?」
「ああ、それに瞳に頼んで瞳の店で、興味のある客を見つけたり、常連になった客には瞳から買わせたりしてたようだ」
「そうか…残念な事だな…」
「残念?もっと残念な事があるぜ。大町さんは瞳と一回も会っていない。大町さんはお前の嫁さんからしか買ってない事が分かってきてるみたいだ」
「ええ…そんな…」
「な、言っただろう。お前はいつも自分の方は絶対に悪くないと思い込んでるみたいだが、悪かったんだよ。残念だったな。俺は瞳とはとっくに離婚してるから関係ねえ事なんだがな。お前は配偶者だろう。色々と詰められるぜ」


絶句した。


言葉を出そうにも、息苦しくて声が出せない。


さっき、宮西から概要を聞いてしまったので、家に帰る道すがらからずっと覚悟するように自分に言い聞かせてたはずだった。

しかし、どうしても自分の中で消化しきれず、まだ受け止められなかった。

何か喋らねば、宮西に更に厳しく突っ込まれる…

だが、言葉が出ない…

しかし、涙は出てきた。

気づかれたくない。

だが、涙はどんどん溢れてくる。

息が苦しい。

嗚咽してしまった。

「何だ、お前、泣いているのか?」
「クー…」

言葉にならない。

「まあ泣くのは仕方ないな。ショックだもんな。その小畑って刑事は、明日か明後日にはお前を訪ねると言ってたぞ」
「わ…分かった…」


それだけを何とか振り絞るようにして答えた。


「し、知らせてくれて…ありがとう…じゃあ…」
「いや、待ってくれ。用件はもう一つあるんだ」
「何だ…」
「お前、大坪さんに連絡取ったか?」
「電話したが、つながらなかった…もうじき、コールバックがあるだろう…」
「そうか、じゃあ、昔の同僚として忠告しておいてやる。大坪さんから電話があったら、お前はその電話を取るな。彼が間違い電話だと思うまで絶対に取らない方がいい」
「何でだ?」
「あの人は気づいてるからだよ」
「気づく?」
「浅野君の自殺の件だよ。あいつ、会社のチャットで大町さんにだけ遺書を送ってただろう。あの時、自分が死ぬに至ったのは「部長の性だ」と言わんばかりの内容だったそうだ。お前は全文を見たか?」
「いや、見せてもらってない…だが、確かに「部長」と書いてあったとは聞いてる」
「その「部長」は、お前の事だよ。浅野は桜井さんが部長になった後も桜井さんには「桜井さん」としか呼んでなかったそうだ。浅野が「部長」と呼んでいたのは鵜塚、お前だけだったんだよ」


胸が張り裂けそうになった。


息が出来ず、首の血管が詰まっていくのを感じた。


そんな…


浅野君…


「大坪さんは、たぶんお前はまだ療養中だと思ってると思う。下手すりゃ、お前が意識を取り戻したことですら知らないかもしれない。だから、電話が掛かってきてもお前は取るな。これが俺からの忠告だ」
「あり…が…とう…」
「どういたしましてだ、鵜塚、残念だったな。じゃあな」


電話が切れた。


宮西、アイツ…

ヤツは私が苦しい声を出すのを聞きたくて、わざわざ電話したのだ。間違いない。

私はそんなに恨まれなくてはならないのか?

苦しい…

私はL字型のカウチにずれ込むように横たわり、浅く息をした。

そして、意識を失くさないように気を付けた。

まだ、やられてる場合ではない。
へこたれていられない。
瑞希のために…


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