【創作大賞2025応募作・ミステリー小説部門】サウザンド・ティアーズ② ~うまくいってるなんて思えた事は一度もない。ただ、涙を流さずに生きるだけで精一杯だ。
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ケイがトイレから出てくると、エントランスからウェイターがケイの元に駆け寄ってきた。
「ケイさん、ヤバいっす」
「どうした?」
「銀座の峯田さんが来られてますが、急ですよね?」
「ああ、俺のところには何も連絡は入ってないな。指定席、空いてないのか?」
銀狐こと、峯田幸代は、この店の唯一の窓際の席を指定席にしているのだが、生憎今日はどの席にも客が入ってる。
「指定席どころか、今はカウンターのスツール以外は全部埋まってます。それで、峯田さん、エントランスでムッチャ怒ってて。メロウさんも今、店にいないんっすよ。メロウさんの客の代官山の山崎さんを迎えに行ってて…」
「マジか…じゃあ、俺が応対しよう。指定席はいつ空く?誰が座ってるんだっけ?」
「桂木女史っす」
「桂木さんかあ、ヤバいなあ。まあ、なんとかするよ。桂木の席にレイとルミーをつかせてくれ。二人にはなあ、十分に盛り上げろと俺が言ってると伝えてくれ。桂木さんはムチャクチャ強いから、二人でテキーラ勝負に持ち込んでおいて欲しいんだ。それで一時間は潰せるはずだからな。俺は狐を宥めてからそっちに行くから」
「じゃあケイさんは、暫く店外ですか?」
「仕方ねえだろう。一時間ぐらい銀狐とデートしてくるよ。じゃあ、俺は狐を迎えてくるから、後は宜しく」
「分かりました。でも、他の客はどうしますか?」
「それはメロウさんが戻ったら、彼と相談してくれ。俺はとにかく銀狐のご機嫌を取らないと…今晩の売上に響くからな」
そう言って、ケイはエントランスへと向かった。
そこには、スーパーホワイトのパンツスーツにレンズがデカいサングラスをかけた峯田が立っていた。スーツは彼女に似合っており、とても還暦を過ぎてるとは思わせないほどだ。
「だから、何度も言ってるじゃない。どうして、私の席がないのって?あんたはすぐに席を用意すればいいのよ。早くなさい!」
彼女は横で膝まづいて言い訳をするウェイターを見下ろし、ガミガミと言っていた。
その彼女にわざとらしいぐらいに自分の姿が見えるように、ケイは正面から明るい声で話しかけた。
「さっちゃん、遅いよお」
「ケイ、さっきはブッチしてごめんねえ。私、雷が苦手で…」
峯田は、これまでウェイターにガミガミ言ってたのとは、全く違う猫なで声で話した。
「知ってるよお。でも、さっちゃん、来る時は先にメールくれないと、今は席が一杯なんだよ」
「ええ、そうなの?みんなケイ推しばかり?じゃあ私、帰ろうかな」
「帰る?そんなつれない事言うなよ。俺さあ、さっちゃんにブッチされて、晩飯食ってないんだよ。このビルの前にあるパスタ屋でジェノベーゼ、食べに行かない?」
「ジェノベーゼ?ケイちゃん、私がジェノベーゼが好きなの覚えててくれたの?」
「勿論さあ。俺はさっちゃんの事だけに関心があるんだから」
「まあ、相変わらず調子の良い事ばかり言って…いいわ、行きましょう」
そう言って、峯田は身体を反転させてドアの方を向いた。
ケイは、峯田の腰に手を回し、ドアを開けようとした。
「ケイさん、ちょっと待って下さい。電話です」
カウンターから固定電話の子機を持って、別のバーテンが飛び出してきた。
「電話?どこから?」と、ケイが訊くと、バーテンは、ケイの耳元で誰にも聞こえないように小声で言った。「それが…東京中央署だそうです。急ぎだとか…ケイさん、忙しそうなんで、メロウさんに対応してもらおうと思ったのですが、メロウさんも今、外に出てて…代官山の山崎先生が来られるって言うんで、メロウさん、通りまで迎えに行ってるんです。だから…ケイさん、何かしたんですか?」
「メロウさんがいないのはさっき聞いた。東京中央署からなんて、俺には何だかさっぱり分からんし、今のところ、全く身に覚えはないな。電話貸せ」そう言って、ケイは子機を受け取った。
「もしもし…」
「花房さんですか?」
電話の向こうに切れそうな刃を連想させる冷たい声がした。
ケイはいっぺんに身構えた。
そりゃそうだろう。誰だって、警察には厄介にはなりたくない。まして、それが冷たい声の持ち主の警官ならもっとそう思うだろう。
「そうですが…あなたは?」
「私が名乗る前に、確認をさせて下さい。花房さん、ご本名をフルネームで教えて下さい。それから生年月日も」
「ええ、面倒臭いなあ…」
「大事な確認なんで、ご協力お願いします」
声の持ち主は、声のトーンとは違って、物腰は柔らかかった。
その腰の低い調子にケイは少しだけ、心を許す気になった。
「ちょっと待って下さい。場所を変えますから」
ケイは、受話器を押さえ、峯田へ「ちょっと待ってて」と言った。
「ええ?早くしてね」と、峯田はまた、不機嫌になりながら答えた。
「分かった」そう言って、ケイは通路の奥のドアの事務所へ向かった。
ケイはドアを閉めてから、受話器を耳に当てて話し出した。
「すみません。さっきのところじゃ、客がいたりしたもんですから。俺の名前は花房慶次朗です。生年月日は1999年7月29日です」
「ほう、7月29日。今日がお誕生日ですか?お誕生日、おめでとうございます。さてと、確認が取れました。今は仕事中ですか?」
「そうです。ホストクラブなんで、今の時間はかき入れ時なんです。刑事さん、用件を早く言って下さいよ」
「それは失礼致しました。あっ、まず、私は東京中央署の城田と言います。単刀直入にお聞きしますが、岩沢恵美さんはあなたの実のお姉さんですよね?」
岩沢恵美?
恵美姉?
意外な名前が出てきたので、ケイはすっかり狼狽えてしまった。
警察の口から聞く可能性が一番ない名前だ。
「そ、そうですが…恵美姉がどうかしましたか?人身事故をやっちゃったとか?それとも何かの犯罪を犯したとか?」
「いや、お姉さんは被害者です。今日の午後に銀座で通り魔に刺されました」
銀座で?蕎麦屋で見たあの事件?
あの被害者が恵美姉だと言うのか?
「刺された?恵美姉が?何で?」
「何でかはまだ分かりません。何せ、犯人は全くの通り魔のようで、無差別殺人の可能性があります」
「殺人って、恵美姉は死んだのですか?」
「ええ、残念ながら…そこで、申し訳ないのですが、花房さんに身元の確認をお願いしたいのです。後は、遺体の引き渡しの手続きもありますので…今日、これからこちらへ来れますでしょうか?」
「恵美姉が、死んだ?そんなバカな…おかしいっすよ。恵美姉に限って、刺されたりする訳がないんだ」
「ご家族にとっては信じられない事でしょうが、岩沢恵美さんに間違いありません。所持品の中の免許証などで確認済みなので…残念な事です。お悔やみ申し上げます」
「そんな…急に悔やまられても…おれは、まだ何が何だか…」
「そうでしょうねえ。心中お察し申し上げます。で、何時頃、こちらに来れますか?」
「今すぐ、行きます」
「分かりました。では、お待ち致します」
「峯田さーん。ケイは忙しそうだから、俺と今晩、アフターに出かけませんか?代官山にいい店があるんですよ」
エントランスで、不機嫌顔でケイを待っている峯田を宥めてもらうべく、ウェイターがレイを呼んだ。レイはすぐに峯田の元に来て、一生懸命、峯田のご機嫌を取っていた。
レイは、ケイをサポートしている?
いや、逆だ。レイは、ケイの太い客を横取りする事を狙っているに過ぎない。
ドアが開き、血相変えたケイが飛び出してきた。
「ケイ、遅いわね。行くわよ?」峯田がケイの腕を取ろうとした。
その手をケイは振り払い、「ごめん、急用ができて行けなくなった」と、峯田に言うと、峯田の顔が明らかに怒っている顔になり、振り解かれた手でもう一度、ケイの腕を握った。
「どういう事?ケイ!雨の中、わざわざ来た私に相手する暇も席もないっていうの?どういう店?この店は!」峯田は、さっきまでウェイターにガミガミ言っていた声の倍ぐらいの大声で言った。
彼女の声は店内中に響き、それまで賑やかだった店の中が一瞬にして、水を打ったように静まり返った。
その時、ケイの中で、プツンと音がした。
線がキレた。
「うるせえ、ババア!急ぎの用だと言ってるだろう!お前、金持ってたら誰でもお前の言うなりになると思ってるんだろうが、俺はそうじゃねえ。とにかく、俺は行く!お前とは付き合えねえ。じゃあな」
と言って、ケイは腕を握っている峯田の手を腕を思い切り振って、振り解いた。
その反動で、峯田は後ろへのけぞり、尻もちをついた。
「痛―い!ケイ、何すんのよ!助けて、誰か…肩が痛いの…救急車呼んで!」と、峯田が怒鳴った。
倒れた峯田を店中のホストやウェイターが、取り囲んだ。
その中をケイは突っ切って、エントランスのドアを開けた。
外に出ると、メロウが客の山崎先生と帰ってきてるところに出くわした。
「ケイ、どうした?」とメロウが訊いた。
「ちょっと、急用で店を空けなくてはならなくなりました」
「店を空けるって、今日はお前のバースデーだろう?」
「うるせえなあ!そんな事、言ってる場合じゃねえんだ!道を開けろ!」と、ケイは怒鳴り、メロウを押しのけて、エレベーターに乗った。
メロウは、一緒にいた山崎先生の両腕を取り、「ぶつかった?大丈夫?」と訊いた。
山崎はメロウの目をうっとりと見ながら、「大丈夫」と言った。
メロウは、その目線を外し、山崎にハグしながら「ケイの野郎!」と罵るような小声で言った。
