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【創作大賞2025応募作・ミステリー小説】サウザンド・ティアーズ③ ~うまくいってるなんて思えた事は一度もない。ただ、涙を流さずに生きるだけで精一杯だ。


慶次朗はタクシーで東京中央署へ向かった。署に着くとエントランスで待ち受けた警官の運転でパトカーで帝央大学病院へ向かった。
法医学棟の入口で慶次朗が降りると、暑いのにきちんとスーツを着たスタイルの良い中年男性が彼を待ち受けた。

「花房さんですか?」
「そうです」
「私、電話を差し上げました中央署の城田です」
「連絡していただき、ありがとうございました。で、姉は今どこに?」
「地下の霊安室です。お連れしますので」

城田はそう言うと、慶次朗と一緒にエレベーターに乗り込んだ。
病院らしく、エレベーターはストレッチャーが乗れる奥行きがあるものだった。
先に乗った慶次朗は、中途半端な位置で止まれず一番奥の壁に寄りかかった。後から乗った城田は手前に建ち、B3のボタンを押した。

エレベーターが動き出すと、慶次朗は城田を観察し始めた。
何故なら、城田が何も話さないからである。

城田は50手前のイケおじタイプだった。
背は恐らく175㎝+-だろう。
節制をしているのか、それとも胃下垂なのか、中年太りはしておらず、逆に痩せ気味である。
猫背にはなっていないので、恐らくは自分を鍛える派なんだろうなと思い、胃下垂説はいったん取り下げる方向にした。

エレベーターが止まり、ドアが開いた。
城田が先に出て廊下を歩いた。
慶次朗は城田の後に続いた。
廊下はすぐに突き当り、左右どちらかに曲がらなければならなくなった。


恐らく左だ。


慶次朗は、二択を迫られる場合、いつも先にそれを察知して、自分の判断を決める事にしている。そして、それが当たった場合は「今日は良い日」と思い、外れた場合は「ツキがない日なので、慎重に行動する事」と思うようにしている。
だから、今回も城田がどっちに曲がるのかを予想した訳である。
元はと言えば、これも恵美からの教えだった。

恵美はこれで小さな幸福を見つける事ができ、そのお陰で幸せに生活できると慶次朗に教えた。


予想に反して、城田は右に曲がった。そして最初のドアの前に立った。


外れた… そりゃそうだよな。今の俺がツイてる訳がない。
恵美姉の教えとは言え、こんなところでまで…
全く習慣ってヤツは恐ろしいな


城田はドアを開けた。そして、「花房さん、お入りください」と、重々しい声で言った。
慶次朗は、その声に気後れしたせいか、おどおどとしながら部屋の中に入った。


部屋は、白い蛍光灯が眩しいぐらいに明るかった。
それと、もうもうと焚かれている線香の煙が部屋中に立ち込めていた。

部屋は狭く、数歩歩くと、すぐに白い布を掛けられた寝台の前に立つ事ができた。
慶次朗は、後ろに城田が立っているのは気配で分かった。それとは別の人の気配もなんとなく感じたが、それは誰なのかは分からなかった。

「花房さん、布を取って、顔をご覧いただき、確認をお願いします」
「分かりました」

慶次朗はスッと布を左手の指で摘まみ、顔を見た。

恵美姉が目を閉じていた。
顔を拭かれたせいか、化粧っ気のない恵美姉の顔を見るのは久し振りだったが、確かに恵美姉に間違いない。

「どうですか?」と城田が訊いてきた。
すると、ドアの横の壁伝いに置いてある椅子から男が立ち上がってきた。慶次朗も城田もそちらには無警戒だったので、二人して怯み、そちらを向いた。そこには作業服のジャンパーを着た中年男性が立っていた。男の顔は憔悴しきっており、眼鏡の奥の泣き腫らした眼は真っ赤だった。

「そんなん恵美に決まってるだろう。さっき、俺が泣きながら確認したじゃねえか?おう、刑事さん、さっきからあんたさあ、どうにも鼻持ちならねえなあ。さっき俺が「岩沢恵美です」って、言ったよなあ。なのに、こいつを呼んでまで確認させる必要があんのかよ?」
と、男は息巻いたように城田に指を指しながら言った。

「山野辺さん、まだここにいたんですか?それについてはさっき説明したでしょう?あなたじゃダメなんですよ。赤の他人のあなたではね。だから、実の弟である花房さんに仕事中にも関わらず、わざわざ来てもらってるんですから。すいませんが、邪魔はしないで下さい」
「おいおい、邪魔だと?言ってくれるじゃねえか。俺はただ、一刻も早く恵美の身体を家に連れて帰りたくて待ってるだけだ。大体さあ、こいつが仕事中だって言うんなら、こっちだって、会社に帰りゃあ、まだなんぼでも仕事は残ってるんだよ。何せ、俺んとこは弱小運送屋だからな。社長の俺が一人で何役もやらなきゃあいけない。しかしな、可愛い恵美が死んだとあっては、そんな事言ってる場合じゃねえんだ。それに、刑事さん、こいつの仕事は何かを知ってるか?ホストだよ、ホスト!そんな女騙して、金を巻き上げる事ばっかりやってるヤツの言う事なんて信じられねえぜ」

そうだ。こいつは山野辺佐紀彦だ。
山野辺佐紀彦は、恵美の亡くなった亭主である岩沢栄作が勤めていた山野辺運送の社長だ。

山野辺は見た目、50代後半から60代。背は高く、細い。
メタルフレームの眼鏡のせいか、いつも冷たい視線でものを見ている感じがする。

山野辺は、岩沢を実の息子のように可愛がっていたそうで、栄作と恵美の結婚式では主賓を務めたほどだ。
慶次朗は、山野辺とこれまで二回、会っている。
一度目は今言った栄作と恵美の結婚式で、二度目は、栄作の葬式の席で。
そして、その二回とも山野辺は慶次朗を「女を騙すクソ野郎」と決めつけて毛嫌いした。
そんな事を言われると、慶次朗だっていい気はしない。ただ、ホストである慶次朗は、そんな風に毛嫌いされる事についての耐性はできており、今まで山野辺がちょっかい出してきていた事のすべてに対して、上手くいなしてきた。

しかし…


今日は違う。

目からは今にも火を噴きそうだ。

「何を!このクソ親父が!」
慶次朗は左腕を振りかぶり、山野辺へと突っかかろうとした。
咄嗟に城田が山野辺の前に立ちふさがった。
慶次朗の動きは止まらなかった。
慶次朗の左の拳は、城田の右側頭部に当たった。
慶次朗は続けて右を出した。
この拳は、城田を超えて、山野辺の左目に当たり、かけていた眼鏡が飛んだ。
パンチを食らった山野辺は気を失った。
慶次朗は、三発目を出そうともがいたが、慶次朗の攻撃はそれまでだった。
城田がガッチリと羽交い絞めしたからだ。

「花房さん!お止めなさい!お姉さんの前ですよ!」と、城田が怒鳴った。
それを聞いて、慶次朗は我に返った。
そして、慶次朗はへなへなとその場にしゃがみ込んだ。


虚脱感


慶次朗は、身体中の全部の関節がグニャグニャになった気がした。


動け…ない…


城田は、殴られた山野辺を隅のパイプ椅子に座らせ、外にいる警官に医者を呼ぶように言ってから慶次朗の方へ向かった。
そして、床に這いつくばっている慶次朗の左の脇に手を入れて、すごい力で慶次朗を引っ張り上げ、自分の正面に慶次朗を立たせた。

「花房さん、しっかりしろ。あんたがしっかりしないと、お姉さんはいつまでもここにいる事になるよ。あんたが確認さえしてくれれば、お姉さんは家に帰れる。だから…」
「分かりました…」

慶次朗は寝台の前に立ち、もう一度恵美の顔を見た。

まるで寝ているみたいだ。
酷い目に遭った筈なのに、安らかな顔で寝ている。
悲しみはまだ来ない。
ショックもまだ感じない。
ただただ、違和感だ。
こんなところにいる事自体が不思議でしょうがない。
なんだ、これは?

「間違いありません。姉の岩沢恵美です」
城田は安心した。そして、いつもの事務的な調子に戻して話し始めた。
「分かりました。結構です。では、別室でご遺体の引き渡しの手続きをしたいと思います。なお、ご遺体は自宅に運ぶとの事を山野辺さんから聞いております。ご自宅は、山野辺運送の寮だそうですが、それに間違いはありませんね?」
「ええ、間違いないと思います。僕は一度も行った事はありませんが、姉からはそう聞いておりましたので…」
「分かりました。その事があるために、山野辺社長には残っておいていただいたのです。では、この後の手続きには山野辺社長も同席されます事をご了承いただけますか?」
「結構です」
「手続きの前に、あなたと山野辺さんの傷の治療をしましょう。私も殊の外、頭が痛い」
そう言われて、慶次朗は急に左手がジンジンと痛み始めた。

城田はそれを見逃してなかったようだ。

「あんた、サウスポーかい?」
「ええ、右では何もできません」
「じゃあ、これから何日かは不自由かもな。あんた、いいパンチだったが、当たりどころが悪かったよ」
「刑事さんが石頭なのが良くなかったですよ」
「それはしょうがないさ。俺らはなあ、頭だって鍛えてるからな」
「頭も鍛えられるんですか?」
「ああ、トレーニング方法がある。折れてないといいけどな。もうすぐ医者が来るから、隣の部屋で待とう」
「分かりました」

山野辺は既に警官に運ばれていた。
慶次朗は城田に身体を抱かれながら、ドアへと向かった。
左手の痛みが徐々に酷くなってきた。

慶次朗と城田は後を歩いた。
三人は救急センターで治療を受けた。
幸いみんな骨折などしておらず、軽傷で済んだ。
山野辺は既に目の周りに青タンができていた。
城田は見た目は普通そうだった。
そして、慶次朗は湿布を貼り、ネットのサポーターで拳を包まれた。

一時間ほどで、三人は
霊安室に戻ってきた。
残った用事を済まさなければならない。

慶次朗と城田は、恵美がいる部屋に入った。
山野辺は隣の部屋で、警官相手に書類作成仕事にかかった。

慶次朗は、もう一度恵美の前に立った。すると、左の拳の痛みがぶり返してきて、ジンジンと痛んだ。
その痛みが感情を取り戻させた。

慶次朗は城田を振り切り、もう一度寝台へ向かった。
そして、恵美の身体にしがみつき、号泣した。

城田は、静かに部屋を出た。


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