【創作大賞2026応募作・ファンタジー小説部門】Slit ⑭
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「バンニン、バンニン!」
ピコ
2025年11月28日(金)
印字されてしまった。
今まで気にしてなかったが、年月日が印字される時に、ピコっと音がするらしい。
さっきの場面にもう一度戻りたくて、私はバンニンを呼んだのだが、その声は届かなかったようだ。
大体、一度入ったところにもう一度入れるのかどうかでさえ分からない。
だが、あれは確かに瑞希だった。
何故、あそこに瑞希が現れたのか、それがどうにも気になる。
今日が終わってヒズミに戻ったら、その事をバンニンに訊いてみよう。
いや待てよ…バンニンにも分かる訳ないか…
スポッ
放出された。
「鵜塚局長、鵜塚局長」
えっ、僕を呼ぶのは誰?
「局長、寝てらっしゃるのですか?」
私は、自分の状況を俯瞰してみた。
ここは佐伯社長の秘書室だ。
私は待合用のソファに座り、肘掛けに左肘を乗せ、顎を手に載せて、ボーっとしていたようだ。
呼んでるのは、秘書の田中女史だ。
「鵜塚さん、寝てます?」
私は、慌てて居住いを直し、田中女史の方を向いた。
「ああ、いや…ちょっと色々と考え事をしていたもので…」
こんな放出のされ方は、乱暴だな。
しかし、私はこの制御の仕方を知らないから、どうしようもない。
「佐伯社長の電話が終わられたようです。社長室にお入り下さい」
「あっ、はい」
あれ、社長室に呼ばれるって、何だったっけな?
まあ、いいわ。
私は、田中女史がドアを開いたので、社長室に入った。
佐伯社長は、自分のデスクに座り、PCで何かを確認しているようで、私が入ると、「ちょっと、そこに座って待ってて」と言い、デスクの前の応接セットを指した。
私は、社長が指を向けた席に座った。
佐伯社長は61歳だが、銀髪は豊かで、きちんと整えられている。
背は175㎝の私より少し低いので、多分172、3㎝ぐらいだと思う。
彼は体調への気遣いも怠ってないようで、太っておらず、シャークスキンのスーツを寸分の隙もなく着こなしている。
「鵜塚君、待たせたね」
私が社長の身なりを観察している時に、佐伯社長はPCの画面から目線を外し、私を見た。
「いえ、大丈夫です」
「君の次の予定は、どうなってるのかね?」
そう言いながら、佐伯社長は私の前に座った。
「デスクワークですから大丈夫です」
私はこの後のスケジュールを確認してなかったが、咄嗟にそう答えた。
「そうか…でも、勿体つける話でもないので、手短にいこう。大町君が今月末を持って、期中ではあるが、うちの役員を退任する事になった」
えっ?
私は思い出していた。
この瞬間は、私は経験していた。
確かに、私は佐伯社長に呼ばれた。
そこで、私は取締役就任の内示を受けた筈だ。
その時は大町取締役は病気による長期療養のために、11月末をもって、休暇となり、そのまま来年3月の期末で退任すると聞いていた。
退任後は、彼の体調が回復してから親会社のどこかにポストを割り振られる予定だとも聞いた。
「あの、期中退任とは異例だと思うのですが、理由は何でしょうか?差し支えなければ教えていただければと思います」
「ああ、もうすぐメディアにも報道されるから、先に伝えておくと、先週、彼は未成年者との不純異性交遊、いわゆるパパ活で、容疑で警察から任意同行を求められ、明日には逮捕状が出る見込みなんだ」
ええ!
だが、すぐに鶯谷で目撃した彼と若い女を思い出した。
あれって、2024年12月だったよな…
一年近く、関係を続けてたのか?
でも、こうなるといよいよあの場所に瑞希が現れたのが気になる。
ひょっとしたら、それが大きなカギを握ってるのかも…
「逮捕状ですか?」
私は少しは腑に落ちてるのを社長に気取られないように、多少芝居じみた声で訊いた。
「そうだ。但し、うちの顧問弁護士が動いてて、相手方と示談の交渉に入っているから、起訴はされない見込みなんだがね」
「そうですか…それで、私は何を?」
「いや、他でもない。君に大町君の後釜に座ってもらおうと思ってるんだが、異存はないよな?」
ああ、やっぱりそう来るんだ。知ってるけど、知らないふりをしないといけない。
「ええ?私は転勤した桜井局長の後を受けて、今年局長になったばかりですが…」
「桜井君が転勤?君は寝ぼけとるのかね?彼は今年の初めに懲戒解雇になったじゃないか。迫田君と一緒に…」
桜井局長が懲戒解雇?迫田さんも一緒に?
「ああ、そうそうそうでした。パワハラ案件ですよね…」
私は何もわかってないのだが、あの二人ならと思い、当てずっぽうで塩を送ってみた。
「そうだ…浅野君には気の毒な事をした。でも、彼があんなに克明な告発状を残して飛び降り自殺をするなんて、誰も思わなかっただろう」
浅野君… 浅野啓太郎君。やる気のある若手だ。
そう言えば、僕がいたA界でもいつの間にか彼の存在は無くなっていた。
今、彼の名前を聞かなければ、僕は忘れ去ったままだったろう。
なかった事になる
バンニンは、そう言ってた。
そういう事なのか…
「まあ、そういう事で、私は局長を拝命してまだ一年も経っておりません。ですから、本部長は流石に時期尚早かと…」
「嫌なのか?」
「嫌という訳ではありませんが…」
「では、決まりでいいな。まだ、取締役会にかけてないから、暫くは他言無用で頼むよ」
「承知しました」
「君も奥さんの事があって、プライベートでも色々と大変だと思うが、宜しく頼むよ」
奥さん?瑤子が何をした?
「ええっと…社長、今、何とおっしゃられました?」
「君の奥さんだよ。うちのグループの月刊ビジネス情報の記者だろう?冴島瑤子だったかな?」
そう、瑤子は記者名では旧姓の冴島を使っている。
「いや、私、最近仕事が忙しくて、夜中に家に寝に帰ってる有様で、頭がよく回ってないのですが、うちの家内は、何をしでかしたのでしょうか?」
「ええ?君の奥さんは取材先で粗相をして、日本有数の商社、あけぼの物産の専務を怒らせてしまったんじゃなかったか?それで、君の奥さんは責任を取って依願退職したと聞いたが…」
瑤子が…取材先で粗相?
それで依願退職?
そんな筈は…
いや、このB界ではそうなんだろう。
「ああ、その事ですか…まあ、本人のミスですから仕方ない事です」
「そうか、割り切れてるならそれでいい。まあ、退職金はもらえたのだから、それで納得する事だな」
「そうですね。では、私はこれで失礼します」
私は社長室を出た。
エレベーターホールへ行くと、まるで足拭きマットのように、グレーのタオルが敷かれていた。
私は両足で踏んだ。
スリットが現れ、私は中に入っていった。
