【創作大賞2025応募作・ミステリー小説】サウザンド・ティアーズ㉚~うまくいってるなんて思えた事は一度もない。ただ、涙を流さずに生きるだけで精一杯だ。
■
「しかし、君が思ってた結果と違う事になったのに、お見舞いだなんて、悪いねえ」
「いや、テレビに映ってた里崎さんがあまりにやつれてたもんですから。でも、今日はスッキリしてて、安心しましたよ」
次の日の午後、慶次朗は里崎のオフィスに、手土産のお菓子を持って来た。言ってるように、里崎がやつれてたので、少し心配だったからだ。
しかし、今目の前にいる里崎は、健康そのものだった。
髭はきれいに剃っていたし、パウダーブルーのポロシャツは清潔感を感じさせた。
今日は10月の二週目だが、朝から気温が高くて、昼間は半袖のポロシャツが快適そうだった。
「まあ、昨日まで大変だったからねえ。三日連続で、あの家の近くで張り込んでいたんだ。裁判があるので、詳しくは話せないけどね」
「話さなくても、あの無精髭が物語っていましたよ。で、今日来たのは、お見舞いもそうなんですけど、この件に対する経費のお支払いの事が気になってて… テレビで、里崎さん、何度か、この調査は吉岡さんの事務所から依頼を受けたって、言ったでしょう?あれ、どういう意味なんですか?」
「ああ、あれは… この件、結構早い段階でね、僕は蓮田をマークし始めて、それを調べるうちに警察や事務所の悪事が分かってきてさあ。それで、吉岡さんに相談したら、この事案を吉岡さんが引き受けるって言い出してね。彼は、桜井さんの弁護士になって、民事で戦うつもりみたいなんだ。警察や、事務所を相手取ってね。それで、吉岡さんと作戦を立てて、蓮田逮捕の生中継から始まって、その後の記者会見まで行く事にしたんだよ」
「ええ?じゃあ、あれは全部、吉岡さんのシナリオなんですか?」
「いや、シナリオは僕だね。彼にはアシストしてもらったって、感じかな。この件さあ、花房君のお姉さんの一件とは、全く関係がないと思うんだ。蓮田っていう推しが引き起こした行き過ぎ、やり過ぎな事件なだけで、お姉さんの件に、蓮田が関わる余地がないんだ。だから、僕としては君には請求できないと思ったんだよ」
「それで、里崎さんが損をしないのなら、僕はそれでいいですけど…」
「大丈夫だよ。金の方のシナリオは、吉岡さんが周到に立ててるはずだから安心してくれ。吉岡さん、6チャンネルのあの番組に定期的に出てるんだけどね。昨日の件は、吉岡さんは番組プロデューサーに直接連絡して、6チャンネルの独占にしてさあ。それで恩売って、すごいのはギャラまで発生させてるんだ。だから、多分、大丈夫だ」
「分かりました。安心しました。でも、この結論って、色々考えさせられちゃいました。俺、ちょっと前までホストやってたんで、俺にも「推し」が沢山いたんで…」
「ああそうか…そうだねえ。「推し」とか言ってるうちは、ビジネスなんだ。でも、少し過ぎると「情」が出てくる。「情」ってのは、面倒だよね。「友情」があって、「愛情」になって…困るのは、こっちは何も思ってなくても、相手に一方的に芽生えたりするんで、一切制御できない事だね。で、さらに厄介なのは「情」を超えちゃうと、「欲」になっちゃう事だよな。色欲とか、独占欲とか、こうなると、どうしようもなくなる。これこそ本当の制御不能だよね。だけど、「推し」から「情」の間が、幅広くって、グレーゾーンで、不透明だからねえ。ここの間で、何とか理性を保てれば「欲」に走らずに済むはずなんだが、中々そうはいかないね」
「だとすると、里崎さんは蓮田にも「若干の言い分がある」と思っているという事ですか?」
「いや、そうは思ってない。アイツはどうしようもない変態だよ。罪もない女の子を監禁して、あの蔵で、アイツ、何したと思う?」
「えぐい事ですか?」
「アイツさあ、あの蔵の中に、彼女たちが出てるライブ会場をそっくり再現してて、毎晩、そこで、蓮田が満足するまでライブをやらせてたらしい。彼女が歌って、踊って、蓮田は客席でオタク踊りをやって。それを毎晩、二人ともへとへとになるまで。後は、左手だけを拘束して、普通に食事をさせて、トイレや風呂も、普通に使わせてたんだそうだ」
「それこそ、独占欲ですね」
「そうだ。だから、この件は、君のお姉さんの件と、切り離すべきだと思う」
「分かりました。ありがとうございました。最後に一個、言っていいですか?」
「何だい?」
「記者会見の最後に、里崎さんタンカ切ったでしょう。あれ、カッコ良かったっす」
「ああ、あれね。勢いだね。思わず言っちゃったみたいな…」
「杉並西署とか、事務所の社長とかが、名誉棄損で訴えてきたりしたら、どうするつもりなんですか?」
「そのために、吉岡さんがいるんだよ」
「なるほど…」
慶次朗は、里崎のオフィスを出た。
慶次朗は、意人の習い事に間に合わせて、3時には会社に戻った。
バイクで会社の門を入って行くと、出て行く望とすれ違った。
水曜日と土曜日に、望が外出する姿は、普通に見かけるようになったので、何の違和感も感じなかった。
むしろ、彼女が外出する姿を見て、曜日を確認するぐらいだ。
彼女の出て行く時間は不定期なので、朝から昼のどの時間からでも出かける。
しかし、何時に出かけても、彼女は大体9時までに帰ってきて、遅くても食堂で夕飯を一人で食べる事を慶次朗は知っていた。
今日の彼女は、ベージュのジャケットに、アイボリーのパンツを着て、黒いリュックを背負っていた。
ただ、中に着てるシャツは、今日も赤だ。
基本的に出かける時の彼女は、地味で目立たない。
望は、戻ってきた慶次朗を気にする素振りも見せずに、表の通りへと歩いて行った。
慶次朗は、バイクを止めながら、小声で「いってらっしゃい」と、言った。
今日は、土曜日だ。
