【創作大賞2026応募作・ファンタジー小説部門】Slit ⑩
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午後1時に、私は会社に着いた。
台湾出張の報告をするために、自分の席に寄らず、真っ直ぐに大町取締役の部屋を訪ねると、生憎大町取締役は不在だった。
平の取締役は、自分が統括するフロアの片隅に、四畳半ぐらいの広さの個室があるのだが、部屋の前の壁はガラスになっており、ブラインドで閉じられていなければ、中にいるかどうかはすぐに分かる。
大町さんの部屋は、今はブラインドは開いており、消灯しているため、不在が一目で分かった。
大町取締役の部屋の角線上に桜井局長のデスクがある。桜井さんに、大町取締役の動静を聞こうかと思い、桜井さんの席を見ると、席に座っている桜井さんの横で、迫田部長が相談者用の椅子に座っているのが見えた。二人は何やらひそひそ話をしているようだった。
くわばらくわばら
触らぬ神に祟りなしだ。
私は桜井さんの元に行く事を断念し、自分の席へと向かった。
桜井局長は、私が今務めている制作三部の部長を7年もやっていた人だ。ずっと、昇進できずにいたのだが、今年念願の局長になった。
迫田部長は、制作一部の部長で、部長在任が5年となる最古参の部長だ。
この二人は、私が三部の部長に昇進してからずっと、私に嫌がらせをしてきてる存在だ。
二人とも、どうも私がジャンプアップした事が気にくわないようだ。
それに気がついてから、私はこの二人に極力近づかないようにしている。
特に今日は、役員などへ報告がある事は分かってたので、普段着慣れないスーツ姿でネクタイまで締めている。いつもの私は管理職とは言え、現場仕事を優先している関係で、カジュアルな格好を続けているので、スーツ姿を二人に見つかってしまえば、茶化されるに決まっている。二人ともいつもスーツを着て出社しており、カジュアルな服装の私に時折嫌味を言ってきたりしてるからだ。だから、尚の事、出来るだけあの二人には会いたくなかった。
いつもは、桜井さんは局長なので全く無視という訳にはいかないのだが、桜井さんと話す時は、出来るだけ迫田さんが席を外しているタイミングを狙ったりしてたりする。
それぐらい、あの二人への接触には気を遣っている。
その二人がひそひそ話…
絶対に良い話ではない。
そんなところへのこのこと割って話に行くのは、全くのやぶ蛇だ。
二人は、顔を突き合わせて小声で話し合っているので、私が出社した事に気づいてないようだった。
桜井さんには、迫田さんがいなくなってから、出張報告をしに行けばいい。
そう思って、私は桜井局長からは見通せない私の席に座り、PCを開いた。
社内イントラで、大町取締役の動静を確認しようと思ったからだ。
大町取締役は、自分が元いた日葉新聞社へ行ってるようで、帰社は三時予定となっていた。
それを確認していると、私の部下の葛西君がやって来た。
「鵜塚部長、おかえりなさい」
「ああ、葛西さん、留守中、ご迷惑をお掛けしました」
「ご迷惑だなんて、そんな。何もないですよ。それより、部長、今ちょっと話せます?」
「何だい?」
「ここじゃ、何なんで、打ち合わせブースでもいいですか?」
「ああ、構わんが…そうだな、外の自販機でコーヒーでも買って飲もうか」
「いいですね」
そう言って、私たちはCR本部の正面のドアを出て、エレベーターホールまでの短いスペースにある来客用の打ち合わせブースに向かった。
ブースの端の自販機で、私は二人分の缶コーヒーを買って、席についた。
「何だい?何かトラブルでもあったのかな?」
私は葛西君に缶コーヒーを手渡しながら訊いた。
大体において、席ではなく打ち合わせブースまで呼び出されるような類の話は良い話である事は少ないからだ。
「いや、今朝から急に噂が出回ってるんですが、CR本部は、近々リストラがあるんですか?」
あっ、そうだったなあ…
あの噂で持ち切りになったのは、この頃だったか…
この噂は、二、三か月も燻ぶってた筈だ。
そうか、この火種は今日からだったか…
「いや、今のところ、局長からも本部長からもそんな話は聞いてないけど…どうして、そう思うんだい?」
「いや、ここのところ、大町本部長の動きがキナ臭くて…先週金曜日は午後からずっと新聞社で、そのまま直帰でしたし、週明けの今日は午前中は佐伯社長、島田常務と打ち合わせで、午後からはまた新聞社だそうで、これは何かあると思うのが普通じゃないですか?」
「それは考え過ぎじゃないか?何か、新聞社との間で協議する案件でも発生してるんじゃない?」
「でも、大町さんって、リストラ担当役員ですよね。うちに来る前に新聞社から日葉マガジン社に取締役で降りられて、マガジン社のリストラを実行した人だと聞いてます。彼は新聞社で経営企画とか管理部門だけを渡り歩いてた人でしょう?そんな人がCR本部長だなんて、リストラをやりに来たとしか思えないじゃないですか?」
「それは大町さんがうちの本部長に着任した時の挨拶で、「マガジン社を出た後に新聞社に戻ろうと思ったら、自分が戻れる席がなかったので、うちに厄介になる事になった」と言ってたのが、本当の事なんじゃないかい?」
「ええ?鵜塚さんは、随分楽天的ですねえ。僕にはそんな風には思えないんですけど…」
「そう言われてもなあ…今のところ、僕は何も聞いてないので、残念ながら何も答えは持ってないよ」
「じゃあ、部長が何か聞かれたら、僕にも教えてもらえませんか?」
「分かった。僕は三時にちょっと出かけなきゃならんので、これでいいかな?出張中のデスクワークが溜まってるんで、出かけるまでに出来るだけ消化しておきたいんだ」
「分かりました」
私たちは打ち合わせブースを出て、それぞれの席に戻った。
私は席に座る前に、もう一度桜井さんの席を見た。
桜井さんはまだ迫田さんと話をしていた。ひそひそ話は終わったようで、比較的大きな声でゴルフの話をしてるようだった。
私はまた、二人に見つからないように自席につき、一時間ほど、集中してデスクワークをした。
月末が近くなってきてるので、会社に報告する書類仕事ばかりだ。さっさと片付けなければならない。
二時半になった。
私は銀座四丁目のカフェで待ち合わせをしてるので、出かけた。
席を離れる時、また桜井さんの席を見ると、桜井さんはまだ迫田さんとゴルフ話をしていた。
あの人たちも、ひそひそとリストラの話をしていたんだろうな…
そう思いながら、私はオフィスを出た。
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約束した地下のこじんまりとしたカフェに三時に着くと、待ち合わせてた斎藤君はもう既に来ていた。
私は彼の前に腰掛けた。
「待たせたのかな?」
彼の前には空になったコーヒーカップがあった。
「いや、自分の都合で早めに来ただけです」
「そう、僕もコーヒーを頼むけど、君はもう一杯飲むかい?」
「ええ、飲みます」
私は、店主にコーヒーを二つオーダーすると、すぐにコーヒーは供された。
私は一口、コーヒーを飲んだ。
熱い!
でも、香り立つ美味いコーヒーだ。
彼もコーヒーを一口飲んだ。
切り出していい頃だ。
「それで、君の最終的な判断を聞かせてもらえるだろうか?」
「ええ、よく考えた結果、鵜塚さんからのオファーにお応えしようと思います」
「本当に?」
「ええ、本当です」
「そりゃ、良かった。うちの上も喜ぶよ。ありがとう。じゃあ、年明けから移籍という事で話を進めてもいいかな?」
「大丈夫です」
斎藤誠二は、フリーの売れっ子CMクリエイターだ。
しかし、彼は二年ほど前に、多忙の余り身体を壊し、この一年は前線での仕事をストップしていた。
そして、体調が戻り、いよいよ復帰するとなった時、彼はフリーであり続ける事に不安を感じた。
フリーの身は、自分に何かあった時に、収入も仕事量も、全く0ベースになってしまうからだ。
最初は、自分が元いた制作会社に戻ろうかとも思ったらしいのだが、それでは仕事量をコントロールするのが難しいと感じ、そこで大学の先輩である私に相談してきたという訳だ。
しかし、実際に話を前に進めようとすると、彼に躊躇いが起きた。
彼が今まで仕事をしてきた広告業界トップ2広告会社である伝聞社から受けてきたナショナルクライアントの仕事は、残念ながらうちの会社で続けてやる事はない。
親会社の日葉新聞社は全国紙だし、日葉メディアホールディングスグループ各社も全国媒体なのだが、日葉広告社は、あくまで日葉新聞社専属の、元はと言えば新聞広告を中心に取り扱ってきた会社なので、彼のようなCMや動画広告の取り扱いはまだまだ少ないのが現状だ。
その事に、彼は引っ掛かった。
うちからすると、確かにうちはナショナルクライアントのCM制作の取り扱いは弱いので、彼がうちに来てくれる事で、それを梃子に営業していこうという腹積もりができる。
だが、最終段階で彼は止まってしまった。
我が社は、彼に急いで答えを出すように迫りたがったが、躊躇った彼に、私は答えを急がせなかった。
担当役員である大町取締役からは、年内にもうちに入ってもらうようにと、何度もプレッシャーを受けた。しかし、それを私はのらりくらりとはぐらかし、今日まで返事を保留してきた。
それが今、彼の口から「うちのオファーを受ける」と返事を聞いた。
実にめでたい。
待って良かった。
心の底からそう思うと同時に、ホッとした気分になり、少し身体の力が抜けそうになった。
いかんいかん。
すぐに、佐伯社長に早速伝えなければならない。
そのためには、大町本部長とまず話をしなければ…
「じゃあ、うちの経営陣に報告した後、管理部門に条件面を詰めさせてから、僕からまた連絡するよ。そんなに時間はかからないと思うが、今週いっぱいは時間をくれないか?」
「結構です」
「じゃあ、僕は早速経営陣に報告しに行くから」
そう言って、私は伝票を取り、支払いをしてから店を出た。
会社に戻ると、大町取締役は在席していた。
僕がノックすると、ガラス越しに大町さんは僕の顔を見て、入ってこいとジェスチャーした。
「鵜塚君、台湾出張、ご苦労さんだったね。上手くいったかい?」
「ええ、撮影はお陰様でバッチリ上手くいきました。それより、斎藤君の件で、報告があります」
「斎藤君か!彼から最終の返事が聞けたのか?」
「ええ、うちに来るそうです」
「そうか、でかした、鵜塚君!じゃあ、管理本部長の久島さんに言って、早速待遇面などを詰めさせるよ」
「好待遇でお願いします」
「勿論だ。任せておきたまえ」
「それで、本件を佐伯社長にもお伝えしないといけないと思うのですが…」
「社長か?社長とは、今晩一緒に出掛ける用があるから、車の中で私から伝えておくよ」
「社長からは私から直接報告せよと言われてますが、それはいいのでしょうか?」
「大丈夫だ。それより、鵜塚君、絶対に斎藤君の逃がしちゃならんぞ。もし逃げられるような事があったのなら、それは事だからな」
「分かりました。彼とはコミュニケーションを絶やさないようにします」
「頼んだよ」
私は大町さんの部屋を出た。
大町さんは自分のデスクに戻り、どこかに電話をかけ、明るい調子で笑いながら話を始めていた。
今晩も佐伯社長と一緒?
まあ、その後の成り行きを知ってる私には驚く事もない。
そうか…A界で取締役になった私に降ってきた災厄は、今日が始まりだったんだ…
そう思いながら、私は自席に戻った。
急いで、残りの書類仕事を終わらせなければならない。
そして、今日は8時までに家に戻らなくてはならない。
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私は何とか8時10分に家に帰り着いた。
玄関で瑤子が出迎えてくれたので、私は早速彼女に訊いた。
「学校、どうだった?」
「それがねえ、拍子抜けなの。担任の塚口っていう若い女の先生と面談したんだけど、彼女にはどうも瑞希の様子がおかしいんじゃないかと見えてたようでね。どうも、クラスの中でいじめられてるんじゃないかと思ったらしくて、学校内ではナーバスな話だから、色々と聞いたり出来ないので、家で私が瑞希から何か聞いてないかを聞こうと思ったらしいの。それで、私が呼ばれたんだけど…私がね、学校に着いた時に、たまたま瑞希と廊下で会っちゃって、それで瑞希も一緒に、塚口先生と会う事になってしまって…さっき話したいじめの件はね、その時、急に先生が話し出した事で、私はそれまで何も知らなくて、横にいる瑞希に問い質したら、瑞希は「そんな事はありません」って言って。それで、話はおしまいになっちゃったの。あなた、瑞希に何か変化を感じた事ある?」
「いやあ、僕には分らないなあ。僕は大体、殆ど瑞希に会ってないだろう。だから、変化があったとしても気づかないよ。瑞希は今はどうしてるんだ?」
「英会話スクールよ。あの子、急に高校になったら留学したいって言い出してね。先月から通い始めてるの」
「そうなのか…何時に帰ってくるんだ?」
「今日は月曜日だから、普段は私も遅い事が多いから、授業が終わった後で、友達とマックとかで晩ごはん食べてもらってるの。だから大体9時半ぐらいに帰ってくるんだけど、今日はうちで晩ごはん食べなさいって言ってあるから9時前までには帰ると思うわ」
「そうか…じゃあ、待つか…」
「先にごはん食べる?」
「君は?」
「私は瑞希を待つわ」
「じゃあ、僕もそうするよ。先に風呂に入る。長い事湯船に浸かってないので、湯を溜めて入る」
「じゃあ、お湯を入れるわ。あなたは着替えてきたら」
「ああ、そうするよ」
私は自分の部屋に入り、スーツを脱ぎ、部屋着のジャージに着替えた。
そして、ボーっとした。
拍子抜け?
じゃあ、これは分岐ではないのか?
それなら、分岐は何なんだ?
ひょっとして、リストラ話が始まった事?
斎藤君がうちに来る事が決まった件?
困ったな、何も分からん…
瑤子が「湯が溜まった」と言ってきたので、私は風呂に入った。
ゆっくり浸かって出てくると、瑞希は戻ってきていた。
私がダイニングテーブルに座ると、久し振りに三人での夕食が始まった。
今晩のおかずは、私も瑞希も大好きな瑤子の得意料理のタンシチューだった。
彼女はこれを大きな鍋一杯に作り、鍋料理のようにその鍋をテーブルのセンターに置く。
私たちは、その鍋からお代わりを何回も取る。
タンシチューを食べる時、うちの家族は寡黙になる。
自分の皿を早く空けて、お代わりを取りたいからだ。
瑤子も瑞希も何も言わないので、仕方なく私が切り出した。
「瑞希」
「何、パパ」
「学校でいじめられたりしないんだよな?」
「ああ、昼間の面談のアレ?そんなん、ある訳ないじゃん。うち、お嬢様学校だよ」
「まあそうだけど…大丈夫なんだな?」
「大丈夫だよ。食べるので忙しいから、もういい、その話?」
「ああ…」
瑞希はお代わりをした。
会話を強制終了された私は、仕様がないので自分の皿を平らげるべくスプーンでタンを掬った。
食事の後、瑞希は部屋に戻った。
瑤子はキッチンで後片付けを始めた。
何もない私は、誰にも何も言わず自室に戻った。
私のデスクチェアーの背もたれにグレーのバスタオルがかかっていた。
もう移動?
まあ、そうだな…
このままじゃあ、何も分からんもんな…
そう思い、私はグレーのバスタオルを手に取った。
私はスリットに吸い込まれた。
