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漱石「坊っちゃん」の坊っちゃんの数年後→「彼岸過迄」森本

夏目漱石に二つの小説がある。
・「坊っちゃん」、明治39年(1906年)発表。
・「彼岸過迄」、明治45年(1912年)連載。

「彼岸過迄」を読んでいて、ふと思った。
この小説の序盤に出てくる『森本』という謎の人物は、『坊っちゃん』の主人公:坊っちゃんの、数年後未来の姿では?」と。

この2人、妙に共通点が多いのだ。
それを語ります。


1、坊っちゃんと森本の共通点

まず前提として、坊っちゃんは本人曰く二十三歳、森本は30歳代前半と思われる。数年後の姿として不整合はない。

「さあ君はそう率直だから、まだ経験に乏しいと云うんですがね……」
「どうせ経験には乏しいはずです。履歴書にもかいときましたが二十三年四ヶ月ですから

(「坊っちゃん」五)

 敬太郎はこの瘠せながら大した病気にも罹らないで、毎日新橋の停車場へ行く男について、平生から一種の好奇心を有っていた。彼はもう三十以上である

(「彼岸過迄」風呂の後・三)

(※ 著作権切れにより引用自由です。)

1(1)どちらもレールロードマン

坊っちゃんは終盤、四国の中学校教員を1か月で辞め、「街鉄(がいてつ:当時あった市街鉄道会社の通称)の技手」になる。

その後ある人の周旋で街鉄の技手になった。月給は二十五円で、家賃は六円だ

(「坊っちゃん」十一)

一方、「彼岸過迄」の一章目「風呂の後」において、主人公的存在:田川敬太郎と同じ下宿に居住する謎の男「森本」は、鉄道勤務らしい。

 敬太郎はこの瘠せながら大した病気にも罹らないで、毎日新橋の停車場へ行く男について、平生から一種の好奇心を有っていた。彼はもう三十以上である。それでいまだに一人で下宿住居いをして停車場へ通勤している。しかし停車場で何の係りをして、どんな事務を取扱っているのか、ついぞ当人に聞いた事もなければ、また向うから話した試しもないので、敬太郎には一切がXである。

(「彼岸過迄」風呂の後・三)

1(2)どちらも転職組

坊っちゃんも森本も、転職して鉄道勤務になった者である。

 卒業してから八日目に校長が呼びに来たから、何か用だろうと思って、出掛けて行ったら、四国辺のある中学校で数学の教師が入る。月給は四十円だが、行ってはどうだという相談である。

(「坊っちゃん」一)

森本は、職を転々としてきたかのように自称している。

「じゃいよいよ世界に類のない呑気生活の御話でも始めますかな」と云った。
 森本の呑気生活というのは、今から十五六年前彼が技手に雇われて、北海道の内地を測量して歩いた時の話であった。

(「彼岸過迄」風呂の後・八)

ここでも出てきましたね、もう一つの共通項。
技手」と。

技手に雇われて」というのがもし作中世界の事実であれば、森本もなんらかの「技手」であったのではないか。坊っちゃんのように。

1(3)家賃問題

二人とも、家賃に関連した記載がある。

坊っちゃんは赤シャツとの対比が、少し離れた箇所で記されている。

 赤シャツは一人ものだが、教頭だけに下宿はとくの昔に引き払って立派な玄関を構えている家賃は九円五拾銭だそうだ。田舎へ来て九円五拾銭払えばこんな家へはいれるなら、おれも一つ奮発して、東京から清を呼び寄せて喜ばしてやろうと思ったくらいな玄関だ。
 (八)
 その後ある人の周旋で街鉄の技手になった。月給は二十五円で、家賃は六円だ。清は玄関付きの家でなくっても至極満足の様子であったが気の毒な事に今年の二月肺炎に罹って死んでしまった。
(十一)

(坊っちゃん)

手持ちの新潮文庫で、前者「八」の赤シャツの話は112頁、後者「十一」の転職後の坊っちゃんの話は179頁だ。こういった離れた場所での対比を漱石は好む。
赤シャツの賃料「九円五拾銭」が四国、坊っちゃんの賃料「六円」が東京であることもふまえると、少しわびしさを感じてしまう。

森本に至っては露骨に家賃が問題となる。
数か月以上も下宿の家賃を踏み倒したまま、森本は失踪した。

 主人の云うところによると、森本は下宿代が此家に六カ月ばかり滞っているのだそうである。(略)それで一方に本人の室を調べると共に、一方に新橋へ行って出張先を聞き合せた。ところが室の方は荷物もそのままで、彼のおった時分と何の変りもなかったが、新橋の答はまた案外であった。出張したとばかり思っていた森本は、先月限り罷(や)められていたそうである。

(「彼岸過迄」風呂の後・十)

1(4)あだ名をつけるのが好き

坊っちゃんといえば、同僚教師たちへの勝手なあだ名付けである。
坊っちゃんから東京の清への手紙

今日学校へ行ってみんなにあだなをつけてやった。校長は狸、教頭は赤シャツ、英語の教師はうらなり、数学は山嵐、画学はのだいこ

(「坊っちゃん」二)

「彼岸過迄」の森本も、下宿の主人夫婦に妙なあだ名をつけている。
失踪後、森本から田川敬太郎宛に届いた手紙。

「突然消えたんで定めて驚ろいたでしょう。あなたは驚ろかないにしても、雷獣とそうしてズク(森本は平生下宿の主人夫婦を、雷獣とそうしてズクと呼んでいた。ズクは耳ズクの略である)彼ら両人は驚ろいたに違ない。打ち明けた御話をすると、実は少し下宿代を滞らしていたので、話をしたら雷獣とそうしてズクが面倒をいうだろうと思って、わざと断らずに、自由行動を取りました。

(「彼岸過迄」風呂の後・十二)

雷獣とそうしてズク」と。正直よくわからない。ましてや「雷獣とズク」ではなくなぜ「そうして」が間に入るのかは全く不明である。小説のどこにもその回答はない。

ともかく、漱石作品の主要登場人物で、周囲に妙なあだ名をつける傾向にあるのは、この二人ぐらいであろう。

1(5)天涯孤独

何度も書いているが、「坊っちゃん」の主人公:坊っちゃんは、非常に孤独な主人公である。書かれた範囲では親友も恋人も、友達以上恋人未満な異性もいない。両親は病死、兄とは不仲で疎遠。唯一、坊っちゃんに愛情を注いでくれた存在である「清」は、亡くなってしまった。

森本も、30代であるが下宿で一人暮らし。家族が過去にはいたように語るが現在はいる様子がない。
さらには家賃を滞納し続け、そのまま失踪した。

敬太郎はいつか森本の口から、彼が歴乎(れっき)とした一家の主人公であった時分の話を聞いた。彼の女房の話も聞いた。二人の間にできた子供の死んだ話も聞いた。「餓鬼が死んでくれたんで、まあ助かったようなもんでさあ。山神の祟りには実際恐れを作なしていたんですからね」と云った彼の言葉を、敬太郎はいまだに覚えている。

(「彼岸過迄」風呂の後・三)

さらには森本と仲良くしていた感じの田川敬太郎も、本音では森本を軽蔑していた。
失踪した森本の行方を知っているでしょうと、下宿の主人(雷獣)に問われた際の敬太郎の返答。

「僕はね、御承知の通り学校を出たばかりでまだ一定の職業もなにもない貧書生だが、これでも少しは教育を受けた事のある男だ。森本のような浮浪の徒といっしょに見られちゃ、少し体面にかかわる

(「彼岸過迄」風呂の後・十一)

このあたりは「坊っちゃん」において終盤、坊っちゃんが「山嵐」と行動をともにし続け二人で赤シャツらを暴行し、ともに四国から東京まで戻ったにもかかわらず、新橋駅であっさり関係が終わったことを想起させる。

 その夜おれと山嵐はこの不浄な地を離れた。船が岸を去れば去るほどいい心持ちがした。神戸から東京までは直行で新橋へ着いた時は、ようやく娑婆へ出たような気がした。山嵐とはすぐ分れたぎり今日まで逢う機会がない

(「坊っちゃん」十一)

1(6)風呂で泳ぐ

坊っちゃんの面白い場面といえば、「湯の中で泳ぐべからず」である。
道後温泉がモデルであろう温泉に坊っちゃんは通っている。

おれは人の居ないのを見済ましては十五畳の湯壺を泳ぎ巡って喜んでいた。ところがある日三階から威勢よく下りて今日も泳げるかなとざくろ口を覗いてみると、大きな札へ黒々と湯の中で泳ぐべからずとかいて貼りつけてある。湯の中で泳ぐものは、あまりあるまいから、この貼札はおれのために特別に新調したのかも知れない。おれはそれから泳ぐのは断念した。泳ぐのは断念したが、学校へ出てみると、例の通り黒板に湯の中で泳ぐべからずと書いてあるには驚ろいた。

(「坊っちゃん」三)

一方、森本も30歳代でさすがに泳ぎ回ってはいないが、なにやら銭湯でじゃぶじゃぶやっている。

ただ浴槽の中に一人横向になって、硝子越しに射し込んでくる日光を眺めながら、呑気そうにじゃぶじゃぶやってるものがある。それが敬太郎と同じ下宿にいる森本という男だったので、敬太郎はやあ御早うと声を掛けた。(略)敬太郎は少し羞痒(くすぐっ)たいような気がした。相手を見ると依然として横隔膜から下を湯に浸けたまま、まだ飽きずにじゃぶじゃぶやっている

(「彼岸過迄」風呂の後・一)

これで翌日銭湯に立札で「湯の中でじゃぶじゃぶすべからず」と書かれていたら完璧だ。

1(7)刃物で切り込みを入れ、それが残存している

非常に細かいがこれも共通点だ。

 親類のものから西洋製のナイフを貰って奇麗いな刃を日に翳して、友達に見せていたら、一人が光る事は光るが切れそうもないと云った。切れぬ事があるか、何でも切ってみせると受け合った。そんなら君の指を切ってみろと注文したから、何だ指ぐらいこの通りだと右の手の親指の甲をはすに切り込こんだ。幸いナイフが小さいのと、親指の骨が堅かったので、今だに親指は手に付いている。しかし創痕は死ぬまで消えぬ

(「坊っちゃん」一)

そして森本が言うには、ステッキを自分で彫って作ったと。
かつそのステッキを田川敬太郎は以降、探偵や「須永の話」を聞く際にも持参し続けている。

 この洋杖(ステッキ)は竹の根の方を曲げて柄にした極めて単簡のものだが、ただ蛇を彫ってあるところが普通の杖と違っていた。(略)森本は自分で竹を伐って、自分でこの蛇を彫ったのだと云っていた。

(「彼岸過迄」停留所・五)


2、おそらく、直後に亡くなっている

完全に私の推察だが、主人公:坊っちゃんの回想記である「坊っちゃん」という話は、坊っちゃんの遺書であると思っている。

上記のように孤独なところへ、唯一愛情を注いでくれた清の死去(清の死去以降の回想である旨が示されている)と、そのの話とで、締めくくられている。
他にも序盤「ただ懲役に行かないで生きているばかり」、「何かに成れるんだろうと思っていた。今から考えると馬鹿馬鹿しい」、「清が何かにつけて、あなたはお可哀想だ、不仕合せだと無暗に云う」(一)。
中盤「生きてるのも考え物だ。と云ってぴんぴんした達者なからだで、首を縊っちゃ先祖へ済まない」(七)。
そして後半、坊っちゃんが「神経衰弱」に陥った可能性が示されている。

この点、「彼岸過迄」の森本も、失踪後、なぜか田川敬太郎からこう推測されてしまっている。
野垂れ死に」と。

ただ森本の浮世の風にあたる運命が近いうちに終りを告げるとする。(おそらくはのたれ死という終りを告げるのだろう。)その憐れな最期を今から予想して、この洋杖が傘入の中に立っているとする。(略)その代表者たる蛇の頭を毎日握って歩くべく、近い内にのたれ死をする人から頼まれたとすると、敬太郎はその時に始めて妙な感じが起るのである。

(「彼岸過迄」停留所・六)


以上、こじつけた部分もあるが、「彼岸過迄」の森本が、漱石作品史上、最も「坊っちゃん」の坊っちゃんと共通項を持つ存在であることは、間違いないだろう。

その森本が、「近いうちに野垂れ死に」と語られ、ステッキだけを残し、物語からは完全に退場しているのだ。
これはやはり、坊っちゃんもそうだったのではないか。
近いうちにこの世からいなくなる、と。

やはり、「坊っちゃん」とは、坊っちゃんの遺書なのだ。


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