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パープル・セイヴィア《第3章 静けさの中の光》【創作大賞2025】


☝︎前回までのお話はこちらから☝︎



第3章 静けさの中の光

 新人にとって、夜勤業務というのは、一つの目標のようなもので、また試練の始まりでもあった。同期のナースに1ヶ月遅れで、ようやく私も夜勤業務につくことができるようになった。そんな、16時間という長い勤務も、少しずつ慣れてきたある夜のことだった。

 回診車の物品補充のため、中材から戻る途中、406号室からアラーム音と、漏れ出る苦しげな呼吸音が静かな廊下に響いていた。異変に気づいた私は、急いでバイタルサインを測定した。SpO₂(経皮的動脈血酸素飽和度)は74%。明らかな異常だった。

「稲垣さーん」

 両肩と両頬を叩きながら、私は耳元で低く声をかけた。しかし、反応は薄い。目の奥にかすかな動きが見えるだけで、薄目を開けたままの状態が続いている。意識が完全に失われていないようにも見えるけれど、危険な状況には違いなかった。

 酸素供給を続けながら、私はナースコールを押した。鞍上先輩が来てくれることを期待したけれど、応答はなく、静かな廊下にコール音だけが響いていた。

 急いでベッドの頭側を少し上げ、カルテの指示簿を確認する。経鼻カニュラ4L/min――。
 まずはマスクに切り替え、1Lずつ流量を上げながら、SpO₂の反応を観察した。6L/minまで増量したが、数値は改善しない。

 焦りながら、当直医の佐伯先生にもコールをかけた。夜勤中、鞍上先輩は隣の整形外科の男性ナースとこっそり会っている――そんな噂が頭をよぎる。

 結局、先生にも先輩にもつながらないまま、私は、再び稲垣さんへ向き合った。SpO₂は低いまま。呼吸数は増え、努力呼吸が顕著になっている。唇と指先が青紫色に染まり、チアノーゼが現れていた。酸素供給が追いついていないのだ。

 耳を澄ますと、湿ったような呼吸音。聴診器で確認するとわずかに喀痰が絡んでいるようだった。私はすぐにゴム手袋をはめ、吸引チューブをセッティングした。震える指先でカテーテルの袋をもたつきながらも、なんとか開封する。深呼吸して、一度落ち着く。

「大丈夫、大丈夫」

 自分に言い聞かせ、患者さんの口元にカテーテルを滑り込ませ、痰をやさしく吸引した。チューブの中を、濁った痰が流れていく。呼吸音はわずかに軽くなった気がしたけれど、SpO₂の回復は見られなかった。

 私は判断した。さらに酸素流量を増やす。指先に、「責任」という言葉が浮かんだ。私は、人の命を預かっているんだ。マスクをセットし直し、バルブを慎重に回し、フロートを見ながら6L/minから8L/minへ上げた。

 モニターには心拍数と酸素飽和度が映し出され、脈拍は不整を示していた。手足は冷たく汗ばんでおり、尿量もすでに3時間以上ほとんど出ていなかった。

 肺水腫?頭の中で判断材料がめぐる。
 わからない。
 本当にそうなのだろうか。
 私は、誰かを救える看護師になれるのだろうか。
 私の手は、何かを届けられているのだろうか。
 頭を振って、自分の言葉をかき消して、稲垣さんの顔を見た。
 私はこの人に何をしてあげられるのだろう。問いが、ぐらぐらと揺れる。


 かさ、かさ、かさ…。
 遠くから微かに足音がすることに気が付いて、私は慌ててナースステーションに戻った。内科の佐藤先生がコーヒーの缶を片手に、「よいこらしょ」と言って、中央テーブルの丸椅子に腰掛けた所だった。
 年齢は30台半ばで、若くして外来は溢れかえるほどの人気で、学会発表や、新たに専門外来を開いたりと、優秀であることで評判だった。

「佐藤先生!」

 私は大きな声をあげて駆け寄った。

「へ?お、お疲れ様」

 先生は驚き、缶コーヒーを喉に詰まらせてむせ返り、間抜けにこちらを見た。見知らぬナースに目が泳ぐのがわかったけれど、そんなことはどうでも良かった。

「406号室の稲垣さん、82歳男性、心不全で入院中です。現在、SpO₂ 74%、酸素8L/minで投与中ですが、呼吸がとても苦しそうで…努力呼吸が目立ち、チアノーゼが出ています。尿量も3時間以上ほとんど出ていません」

 私は慌てていた。これで合ってるのだろうか。焦りと震えのまま報告する。先生は非番のはず。23時をまわっていた。それでも、頼らずにはいられなかった。稲垣さんの苦しそうな顔が頭から離れなかった。


「わかった、カルテ開いて持ってきて」

 軽い返事で、缶コーヒーを置き、佐藤先生はスタスタと患者の元へ向かってくれた。

 稲垣さんの胸に聴診器を当てた先生は、すぐに「ラ音が強いな」と呟き、肺のうっ血を確認した。
「利尿剤、ラシックス20mg静注。点滴に加えて」
 と小さく指示を出しながら、カルテに入力し、次の準備へ移っていく。

「血ガスとろう。NPPVまではいかないけど、酸素マスクはそのままで、反応を観察してみよう」

 淡々と、簡単そうに診察も手技も進んでいくのを、横目に、私は子供のお使い程度に右往左往して、その仕事を必死で行った。

 次第に稲垣さんの呼吸状態は、穏やかになっていった。

「うん、大丈夫だね」

 そういうと、私の顔を見て、マスク越しに少しだけ口角を上げた。目元が、緩んで、大きな瞳の奥は澄んでいて、優しさが溢れていた。

 佐藤先生の存在は、暗闇に迷いながら歩む私にとって、北極星の道を照らし出す、夜空のカシオペア座のようだった。

「ね、夜勤一人?いや、そんな訳ないか」

 佐藤先生は電子カルテに情報を記載しながら、私に問いかける。

「いえ、先輩がもう一人。中材から戻ってきたら、この状況で、先輩もどこにもいなくて」

 私は、ナース服のポケットを握り締め、俯いた。

「なるほどなぁ。一年目?」

 佐藤先生は、こちらも見ずに、左手の甲を口元に運び、小さく笑った。

「はい、すいません」

 きっと、支離滅裂な報告で困らせたんだろう。自分でも、言葉が追いついていないことくらい、わかっていた。私はナース服のポケットをさっきよりきつく握りしめた。

「なんで謝るの。わかりやすい報告だったよ」
「え」
「え?」

 佐藤先生は、私を向き直り隣の椅子に腰掛けるように促した。

「異変に気付いてから、報告するまで一人だったんだろう」
「はい」
「今ざっとSOAP(医療記録)を見ていたけど、入院経過の割に君の記録はなかった。つまり、普段から稲垣さんの情報を取ろうとしている事がわかる」話しながら気付いていたけどね、と付け足す様に小さく言った。

 呆気に取られた私は、口をぽかんと開けて、ただ聞いていた。

「強いて言うなら、血ガスとったらPaCO₂が高かった。つまり?」
「酸素を投与し過ぎた、ですね」

 膝の拳が小さく揺れた。助けようと思ってした行動は、稲垣さんに苦しい思いをさせてしまっていたのだ。目の前に現れる不確かな数値をそのまま捉える浅はかさに、アセスメントの乏しさを思い知らされた。

「うん、そうだね。そういう状態を、なんて言うんだっけ」
「CO₂ナルコーシスです」
「うん。よくできました」

 佐藤先生は、今度は口元を隠さずに、笑った。
 私の行動は、決して褒められるようなものではなかったけれど、初めて働いている実感をした。そして、看護師になってから、初めて人に褒められたことに気が付いた。
 受け持ち部屋は毎日変則的で、記録を読むことしか仕事のできない私の贖罪の意識は、佐藤先生の言葉に少しだけ昇華された様だった。

「エビデンスがあるから報告ができる。君は良いナースだよ」

 膝に映り込む手の影は、やがて私の頭を優しくぽんぽんと触り、また膝の上から優しい触覚と影は引いていった。
 佐藤先生の視線はすでにパソコンの電子カルテに向いていて、そんな横顔をぼんやりと眺めた。
 フェザーショートの軽やかな髪。まっすぐで大きな、澄んだ瞳。小さな顔立ちに、うっすらと伸び始めた柔らかい髭が影を落とす。体毛の薄さから、肌の繊細さが伝わる。シャープな顎の輪郭と、静かな横顔。缶コーヒーをごくりと飲み込むときに動いた喉仏を見た瞬間、私の胸の奥で、何かがやわらかく鳴った。

 そのまま佐藤先生は視線を変えずに、胸ポケットからスマホを出して、慣れた様にどこかへコールした。

「あ、もしもし佐伯先生?稲垣さんなんだけど、そうそう。カルテ開いてもらって良いですか」

 どうやら、当直の佐伯先生にかけてくれているようだった。スマホの向こう側では、大声の佐伯先生の声が漏れ聞こえている。

「ええ、ええ、指示は入れといたんで。確認してもらって。ええ、はい。ん、依田?」

 佐藤先生は、私の顔をチラリと確認するように見た。

「依田ね。良い看護師ですね。助かりましたよ」

 私の心の奥に、ぽっと暖かい明かりが灯った気がした。そして膝に目を落とし、きつく握りしめていた拳を、そっと緩めていった。

 そんなやりとりをきっかけに、佐藤先生の担当する患者が急変した際には、私が他病棟へ行き、介助や手技の見学、練習に付き添わせてもらうことが増えていった。
 いつも絶妙なタイミングで病棟に連絡が入り、「依田、修行に借ります」と、主任や師長にさりげなく声をかけてくれる。
 周囲の看護師たちが、私を送り出してくれるのは、正直嬉しさと共に少しの気まずさがあった。それを気にしないふりして、私は佐藤先生の元へ向かう。


「依田、喉頭鏡、持つ位置が悪い。もう少し角度をつけて渡してくれる?」
「はい」

 佐藤先生の声は、変わらず落ち着いていた。低く、聞き取りづらいけれど、まっすぐに届くその声は、不思議と体の力を少しだけ抜いてくれる。喉頭鏡を握り直し、先生の手に収まりやすい角度で差し出した。

「気管チューブ」
「はい」
「スタイレット抜いて」
「はい」

 周囲の音が消えたかのような空気の中で、金属の音がかすかに響く。

「カフにエア、注入して」

 シリンジでカフにエアを入れ、気管内チューブの位置を確認するためにステートで両肺音を聴診する。こくりと頷いた後、佐藤先生の小さな耳にそれを預けていく。空気がひっそりと流れる音と、そしてベッドの軋む音が静かな空間に響いていた。

「カフにエアが入ったね。肺音も確認できる。気管チューブの位置に問題なさそうだ」

 先生はそう言って、私にステートを返してくれた。
 佐藤先生の聞く、患者の音が聞いてみたいと思った。彼には聞こえても、私がいくら耳を澄ませても拾えない音が確実にそこにあるからだ。参考書に書かれる数々の名前の心音や、肺音は、このステートを通して私の耳からはこぼれ落ちている。会話のできない患者は、こうして、身体中から必死で声に替わる音を出しているのに。

 一通り手技が終わり、気管挿管チューブをテープで患者の口元を固定していると、「依田」と、病室の入り口から声がした。

「よくできました」

 佐藤先生の柔らかい声が私の耳に届いたあと、足音と共に、それはやがて遠ざかって行った。ビニル手袋の指先にトレキテープが優しく張り付きながら、自分でも気づかないうちに口角が上がったことに気づき、慌てて隠すように力を込めた。
 気管内チューブの先で、患者はようやく、静かに呼吸を始めていた。その胸の動きに、私もまた、自分の呼吸を重ねていた。


 窓の外では、蝉の鳴き声が時々聞こえる程度にまで収まっていて、また季節が一つ通り過ぎるところだった。

 私は、佐藤先生のかったるそうに歩く姿と音が好きだった。
 古いフィルム映画の様なアナログで静かな足音は、片方の聞こえる耳でやっと拾えるほどの小さな優しい音だった。
 佐藤先生の周囲は、いつも静かで、靴音すら控えめで、身動きが取れず、言葉も交わせない患者たちは、きっとその優しい音と、人柄の良さを感じ取っている。そんな気がした。

 私は、静けさの中で立ち止まることを知った。穏やかな風の音を聞く様に、雲を掬い上げるように、手のぬくもりを患者に届けたいと思うようになった。ペーパーペイシェントの亡霊は消え去って、私のリュックサックの中身を軽くしていった。


 ある午後の昼下がり、私はガラガラと銀色のワゴンを押して清拭をする為に409号室に訪れていた。長谷川典子さんの肌は、やや黄みを帯び、むくみが目立っていた。
 肝硬変の進行に伴って、アンモニアが血中に滞り、意識はときどき別の世界に出入りしているようだった。
 声は、はっきりしていて表情にも張りがあるけれど、その言葉のいくつかは、今ここにはいない誰かと交わしているものだった。
 私は、バスタオルと洗面器を持って病室に入る。カーテンを静かに閉めて、夏の最後の光を少しだけやわらげた。

「長谷川さん、お体、拭かせてもらってもいいですか」
「母乳が出なくて困ってるのよ。息子がね、ちょっとだけしか飲めなくて」
「そうですか。そうですよね、赤ちゃんの飲む量ってほんとに繊細ですもんね」

 もう何十年も前のはずの出来事が、彼女の中ではいま目の前の出来事になっている。そのことに、戸惑わなくなったのは最近のことだ。湯気をたっぷり含んだタオルをそっと広げると、それは優しく母性のようだった。
 むくみや掻き壊しのある皮膚には、余計な刺激を避けるよう、包むように、触れる。やわらかいタオルの温かさが、典子さんの体を通して、ほんの少し私にも伝わってきた。
 その瞬間、思った。
 看護師の手は、ただ拭くだけのためにあるんじゃない。
 過去も、孤独も、記憶のかけらも、そっと撫でるためにあるのかもしれない。
 典子さんの爪は、肝機能の影響か、乾燥し硬くなっていた。
 少しずつ、少しずつ切り揃えながら、爪やすりで形を整えていく。カチン、カチンと響く音が、薄いカーテンの内側で丸く転がる。やすりをかけたあとの粉は、鼻先からこぼれた呼吸に舞い、ふわりと雪みたい舞った。

 患者さんの中には、こちらの問いかけに反応のない人もいる。
 でも、典子さんは違った。彼女は、今いるここではなく、記憶の中のあちらから、ずっと語りかけてくれていた。それが事実かどうかは、私には関係なかった。その語りに、寄り添っていたかった。

「新しい病衣に着替えて、ゆっくりお休みくださいね。もうすぐ、お引越しですから」
「ええ、ありがとうね。あたたかくて、いい気持ちだったわ……」

 彼女は、目を閉じた。
 まるで、少し先にいる誰かと、また夢の続きを見るかのように。
 私は、そっと布団の端を整え、サマリーと呼ばれる、療養病棟へ移動の際必要な、病状の報告書を作成しにナースステーションへ戻った。

「えっ、うそ。太田さん背が昨日より伸びてる」
「やだなぁ、綾ちゃん、靴の踵踏んでるだけだよ」
「なーんだ、驚いたなぁ。って、靴の踵踏んだら転んじゃいますよ。点滴だってスパーンと抜けちゃうんですから」
「大袈裟だなぁ」
「私だって大人なんですからね。人の話はちゃんと聞くもんですよ」

 廊下では、同期のナースの綾が患者さんと立ち話をしている。
 見上げるように背の高い穏やかな男性患者との身長差に、綾はピーチクパーチク話す小鳥のようで、背景が病院であることを忘れさせた。
 彼女が口を開くだけで時間軸が緩むし、甘ったるい声は、柔らかな肌の素材の良さを際立たせるナチュラルメイクだ。綾は、容量や、器量が良いだけではなくって、ふたつの優しい眼で、ちゃんと、患者さんを見ていたのだ。私は、こんなにも近くにいる友人すらも見落としていた、とんだ、ぽんこつナースだ。

 綾は私の存在に気が付くと、大きな瞳をさらに広げ、花びらを散らすように駆け寄ってくる。

「あっ、千咲。私にはわかる、ファンデをクレド・ポーに変えたでしょ」

 綾は両腕を組んで、得意そうにフンと鼻を小さく鳴らした。綾の頬に垂れる緩く巻かれた前髪は一緒になって揺れた。

「んんー、正解。さすが綾。このクッションファンデ、夜勤の16時間も毛穴落ちしない優れものなんだよぅ」

 綾は私のマスクを下ろして鼻息がかかるほどに顔を近づけてきた。

「ふーん」

 意味深な綾の目元は意地悪く笑っている。

「千咲さん、もしかして。恋、ですねぇ」

 綾はそういうと、私の肩をトンと押して、また花びらを散らせた。

「え、そんなことないよ」
「看護師の基本は、ホウ(報告)・レン(連絡)・ソウ(相談)ですよ。私に隠し事するなんて、あぁ悲し」

 私達は腕を絡めながら、笑い合って廊下を歩き出した。無色透明で無機質な病院は、前よりもずっと透き通ったように感じる。白いナース服はやっぱり、この空気にしっくり馴染むのかもしれない。私の纏うパステルな白も、いつの間にか軽やかなものになっていた。

「ちぃちゃーん、ちょっと手借りていい?」

 病室から、弥生さんはひょっこりと顔を覗かせ手招きしている。

「はーい」

 綾に「またね」と別れを告げて、私は弥生さんのいる病室に軽く小走りする。ナースシューズには、これまでの私の歩みに寄り添うように皺が刻まれていた。足に馴染み、そこにあったはずの重さは、もう感じられなくなっていた。

「サーフローに苦戦してるぅ。見てくれる?」
「あ、ここに発見です」

 患者の痩せ細った前腕には、たくさんの点滴が漏れた小さな跡が残っている。

「弥生さん、私刺しちゃってもいいですか」ん、と弥生さんは言った。

 駆血帯を腕に巻くと、患者の前腕の裏側に、色味のない血管がゆっくりと盛り上がってきた。弾力も十分にある。
 ビーフリードと呼ばれる点滴は、静脈炎を起こしやすい。そのため、点滴の更新時には、皮膚への負担も考慮しなければならない。弥生さんは、そんなふうに傷んだ皮膚に気づいたのだろう。

「ご協力願います。ちくっとしますよ」

 アルコール綿で、皮膚を拭き取る。注射針に角度をつけて倒し、血管の走行に合わせ皮膚を割く感触を指先に感じて、想像力を伴いながらゆっくりと、それでも勢いよく穿刺していく。針先に赤黒い血が勢いよく色が染み出すのがわかると「ありがとぅ」と、弥生さんは笑った。

「弥生さん、試しましたぁ?」
「ふふ。もう、自信持って大丈夫だよ」

 私は、弥生さんの優しさに、また笑顔を返した。
 中途採用の非常勤ママさんナースの弥生さん。指導者の鞍上先輩の目を盗み見ながら、私の成長をそっと見守ってくれていた。どんな常勤ナースよりも的確な手技を持ちながら、それをひけらかすことなく、いつも謙虚で、非常勤という隠れ蓑の奥から、私に静かに光を当て続けてくれていた。柔らかな笑顔に、心が満たされていく。



 窓の外では、雪の結晶は舞い、たんぽぽの綿毛は風に身を委ね、傘の中で雨の音を聞き、渦巻く台風は去り、枯れ葉を踏み鳴らしながら秋と冬を通り過ぎて、気付けば病院に勤め始めてから三度目の春が始まろうとしていた。


「依田、採血のオーダーと経過フォローのCTとレントゲン、切れそうな臨時処方はとりあえず出したから、確認しておいて。あと、抗生剤の点滴も追加したし、レスキューも入れておいた。あ、それと、406号室の真田さんの急変ICはしてあるけど、最後の時は外科の先生にお願いしといた。死亡診断書もほぼ埋めてある。奥さん足悪いから、早めに連絡してあげて。午後は俺、出ちゃうから、何かあったら私用の方にかけてくれてもいい」

「佐藤先生、横山さんの採血結果、確認お願いできますか。INRが1.6、APTTが46、血小板も10.3です」

 先ほど電子カルテにアップされた採血結果では、PT-INRが基準よりわずかに高く、APTTもやや延長、血小板が下限ギリギリで推移していた。出血傾向があるかもしれない。

「了解。確認する。点滴、ヘパリン入ってたよね?」
「はい、400単位/時で持続中です」
「OK。ありがとう」

 ピリリピリ…。

「はい、佐藤です」

 相変わらずワンコールで話し始める佐藤先生は忙しくて、それを言い訳にしない誠実な人だ。
 外来と、病棟を行き来しながら、必ず患者の顔を見て回って、私の報告に耳を傾けてくれる。通話を終えると、「依田、あとは頼んだ」と、さっと立ち上がり、少し大きすぎる白衣を広げながら、また次にかかってきた着信に出ながら廊下に出ていく。

「関口さん、手空いてますか。私ちょっと内視鏡室いくんで、採血とっておいてもらっていいですか」

 技術と知識が伴うようになると、いつのまにか周囲からの陰口も気にならなくなっていた。あんなにも、人に何かを頼むことすらためらっていた私が、今では自然と、それが当たり前のことのようにできるようになっていた。
 自分の仕事を手放す勇気、それは、責任持って仕事する私達がチームとして働く、当たり前で、安全な医療を提供する、基本だった。
 信頼してくれる医者、信頼できる仲間は、思いの外近くにたくさんいて、いつのまにか同僚のプライベートな相談まで私の元に集まるようになっていた。

「ちーちゃーん、明日勤務変わってー。娘が熱出しちゃって、保育園にもいけないし、明日から旦那も出張で居ないんだよぅ」
「えー、大変。渚ちゃん喘息だから、悪化しないといいけど…承知です」
「ありがとぉ。助かる」

 弥生さんは、時々欠勤することを後ろめたく思っていて、いつもペコペコしながら働いている。そんなのお互い様なのに。

「千咲ー、酸素ボンベの残が足りん」
「あ、リハビリ?今一階に行くから帰りに持ってくるよ。待ってて」

 同期の理学療法士の川北くん。人見知りの私に、入職のオリエンテーションの頃から気さくに名前で呼んでくれる、唯一の男友達だ。
 持ち前の明るさは暑苦しくて、時にやかましくて、綾とはいつも喧嘩している。

「川北、私をスルーして千咲に頼むってどういうことよ。私がわざわざ1階からあなたと患者さんの為に持っていきますよ?」
「綾うるさい、だからお前をスルーした俺の気持ちを汲んで」
「あんた、私の可愛い千咲に話しかけようとする魂胆が見え見えなんだよ。さっき目合ったのに、スルーしてんじゃないよ」

 ギャーギャー言い合う、川北くんと綾の喧嘩を横目に、私は「頼んだよ」と声をかけて廊下に出た。
 毎日の業務は苦しいこともあったけれど、看護師として、成長できることは、何よりの喜びだった。

 ナース服は、まるでベースコートのように私の下地を整え、ポケットの中身もシンプルになっていった。マスクで隠れる唇には、艶のあるアディクトリップをひっそりと忍ばせる。生乾きだったニュアンスの知識たちは、次第にヨレもムラもなく肌に定着するように馴染み、家の窓台で眺める夜の景色さえ、今では甘い吐息のようにミキシングされていく。

 夜の色彩の移ろい、そっと撫でていく風のやさしさ、星座の微かな変化。
 そうした一つ一つを、ただ静かに受け止めて「美しい」と思えるようになっていた。
 そんな日々が、これからも当たり前のように続くのだと、信じて疑わなかった。


 エレベーターの数字が迎えに来るのを待つ佐藤先生は、私が隣に立つと「依田顔色悪いぞ」と、顔も見ずにつぶやくように言った。

「見る患者さん増えちゃって大変ですね」

 私は、佐藤先生の横顔を下から覗きこむ。
 肩からずり落ちるリッドマンの真っ黒なステートは、きっと高価なもので、患者のどんな音も拾い上げる大切な優しい相棒だ。私は先生の前に立って、少しだけ背伸びをしてそれを直した。そして、佐藤先生も、違和感なく受け入れた。

 そんなやりとりをした、ほんの三十分後のことだった。
 私は、外来の隅でひとり、倒れていたらしい。
 視界は白と黒が交互に揺れて、ふっと意識が遠のいたその先の記憶だけが空っぽだった。
 右のこめかみに、ずきんと鋭い痛みが常に囁いている。
 何してるんだろう、私。
 そんな場違いな疑問だけが、ぼんやりと頭に浮かんでいた。

 視線の先には、5%ブドウ糖液の入った点滴ボトルと、真っ白な天井が見えた。
 ぽつんぽつんと、雫が静かに落ちていく音が、あまりにもゆっくりと響く。右手の体温の先には、見慣れたうなじと、白衣を纏った細身の佐藤先生が腰掛けていた。私は、硬い外来のベッドの違和感を少しずつ受け入れ始めていた。


「佐藤先生?」

 佐藤先生は振り返ると、ため息をつきながら話し出す。

「お前さぁ、忌引っていうもの知ってる」
「知ってますよ」

 私は、肘をついてそっと体を起こし、側臥位になる。無意識に手が動いて、点滴ルートのクレンメをそっと動かした。

「ゆっくり入れてけよ」

 華奢な指先が、私の手からそっとクレンメを奪い返す。滴下の流れをゆるやかに戻すと、何も言わずに私の頭をそっと枕に沈めていく。伸びかけた柔らかな前髪が、ふいに私の頬に触れる。
 それだけで、心の奥で何かがかすかに音を立てて鳴った。

「自分の体調管理が一番。依田千咲さん、今は寝てなさい」

 仰向けになる私に、佐藤先生は目を合わせたままそう小さく言って、また背中を向けた。

「先生、そろそろ出る時間じゃない。私大丈夫だよ」

 時計の針と、点滴の雫だけが、静かに時間を歩いていた。無言の優しさは、隣の処置室から微かに聞こえる看護師たちの笑い声にまぎれて、蕾のようにそっと膨らみ、やがて音もなく、花開いていく。
 目を閉じていても、そこにはたしかに、明るい闇があった。
 母を亡くして、まだ一週間も経たない昼下がりの院内は、空調が効きすぎていて、ひんやりとしていた。



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