パープル・セイヴィア《第2章 半径1mの孤独》【創作大賞2025】
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第2章 半径1mの孤独
私は小さな、という言葉に昔から弱い。「赤い屋根の小さなお家」というシルヴァニアファミリーの謳い文句に心惹かれていた頃からかもしれない。
小さな窓、小さな花、小さな虫、小さな靴といった、名詞の前に置く「小さな」がついているだけで、そのものの存在が、ふいに愛おしく思えるのだ。
母子家庭の私が、高校を卒業してから進学するには、費用のかからない質の良い資格が取れること、を優先することが第一条件だった。
国公立の看護専門学校も、受験したのだけれど、一次試験の筆記試験は通過したものの、二次試験の面接で不合格の通知が来た。
高校の担任の先生は、筆記試験に合格したことを告げると、「良かったなぁ、依田。面接だけなら八割が合格だと思って良い。面接で落とされるのは、本当によっぽどなことがない限りないから、安心しろ」と、職員室で、私の頭をぽんぽんと叩いて笑った。
残念ながら私は、「よっぽどなこと」の方、を引いてしまった。
高校三年生の卒業式ではまだ進路先は決まっていなくって、三次募集まで行っていた初めて名前を聞くような看護学校に進学した。
私が通い始めた群馬県内の看護学校の学費は、月額が七万二千円。そのうちの五万円が毎月返済不要の奨学金として、入金されるシステムで、一ヶ月の授業料が二万二千円だった。
この看護学校を経営する母体である、医療法人の総合病院に三年間勤め上げるとが、条件とされていた。アルバイトをすればなんとか事足りそうな数字に、母とふたり、少しだけ息をついたことを覚えている。
全国展開する医療法人のグループ病院が一同に集結する就職説明会では、あちらこちらに病院や施設のブースがあって、新築だったり、新しい最新設備を整えた大規模な病院は学生で賑わっていた。
その中でも、一際人気のない「小さな病院、暖かな病院」をいうキャッチコピーを掲げた、さくら中央総合病院のブースに吸い込まれるように一人で座り、あんまりと理解しないままに、数ヶ月後には、この小さな二次救急病院に就職することがあっけないほど自然に決まった。
就職試験の面接では、看護師になった理由を面接官に聞かれ、「学校を休んだことがないからです」という回答に苦笑いされ、首を傾げられたけれど、今回は、「よっぽどなこと」にはならずに済んだ。
今日も、体が重い。
閉め忘れたカーテンから差し込む日差しが、狭いワンルームの部屋にノックするように入り込み、タイムリミットが迫っていることを知らせてくる。参考書を牛革のリュックに詰め込み、雑にシャワーを浴びてから、ひんやりと洗濯の行き届かないシーツの敷かれた布団に滑り込む。
結局、とれた睡眠は1時間足らず。それでも目が覚めてしまい、看護師の先輩の顔や、威圧的な医師の表情が交互に浮かんでは、冷たくこわばった体をさらに緊張させる。ドライヤーを使う余裕もなく、乱れたままの髪には協調性のない寝癖が残ったままだ。
明け方まで詰め込んだ半乾きの知識と一緒に、私は結局、就業時刻の1時間前には「4A」と呼ばれる消化器内科・外科の混合病棟に着いていた。
名目こそ「混合病棟」だけれど、実態は疾患の玩具箱のような場所だった。
循環器内科、呼吸器内科、脳外科、眼科まで、多岐にわたる患者で溢れかえっていた。
人気のない廊下は、食事を運ぶワゴンで埋め尽くされている。
各病室からは、プラスチック製の食器の蓋を開ける、かすかな音が漏れ聞こえ、私は、出勤したことを悟られないよう、そっとナースステーションに足を踏み入れた。すると、ピコン、ピコン、とナースコールの赤いランプが点り、あっという間に合唱を始める。
まだ勤務時間前だから、取らなくてもいい。それでも、誰にも届かない向こう側の患者の声を思うと、申し訳なさが胸に刺さって、思わず肩を小さくすぼめてため息をついた。
時間のかかる情報収集は、隅っこに限る。私は患者全員のカルテを一つずつ開いて、忙しなく運ばれてきた患者の名前もや検査結果や、治療方針や、端的明瞭な記録に知識の乏しさを痛感して、私はただ文字を追った。
私は手元のメモ帳をそっと開く。ぐちゃぐちゃに書き込まれた申し送り事項と、略語の羅列。ところどころに自分でも解読できない殴り書きが混ざっている。それでも、何かを取りこぼさないように。小さな不安を埋めるために、またカルテを見ながら、文字を付け足していった。
勤務が始まると、ナースステーションの空気は一変する。先輩看護師たちが、機敏にモニターを確認し、指示を飛ばし、電子カルテを打ち込んでいく。そのスピード感に、私はついていけず、置いていかれまいと焦るばかりだった。
「依田、田中さんの採血オーダー入ってるけど」
「はい」と返事をして立ち上がる。採血の準備をしながら、銀色のトレーを持つ手が震えていた。深呼吸をして、患者のもとへ向かう。高齢の男性患者は、黙ったまま腕を差し出した。青い血管が見えにくくて、角度を調整しながら、翼状針の羽を持ちながら、ゆっくりと刺す。血管に入ると、すうっと赤い血がチューブを満たしていった。ほっと息をついた瞬間、患者がつぶやいた。
「やっとかぁ。遅いな」
言葉よりも、その無感情な口調に、背中が冷えた。
「す、すみません」
謝る声は震えていた。
三色のスピッツに血をそれぞれ入れて、静かにその場を離れた。
モニターの音が遠くで鳴り、消毒の匂いが、鼻の奥に絡んでくる。制服のポケットの中で、メモ帳を握る手に、また力が入った。
私は小さな歯車みたいに、この病院のなかでくるくると回り続けている。大きな機械のどこかにいるはずなのに、誰にも気づかれないような場所で。いや、歯車になれているかも、怪しい。
あっという間に昼が来て、ステーションには次第に電話の着信とナースコールが入り乱れていた。
「依田、408号室の点滴交換まだ行ってないの?」
「はい、すぐ行きます」
言葉を重ねる余裕もなく、指示された処置に従って動く。点滴棒ががらりと鳴り、患者の目線を私は受け流す。
私は、ちゃんとできているのだろうか。
誰かの役に立っているのだろうか。
そんな問いが頭の奥で静かに膨らんでいく。それでも、立ち止まることはできない。この病院では、答えを考える時間すら許されない。次の業務が、すぐに溢れるようにやってくるのだから。
ポケットのメモ帳は、また少し厚みを増していた。
まるで、私の中に重なっていく迷いや不安を吸い込むように。午後の光は静かで、病棟の窓から差し込む光の粒が、ほんの少しだけ、私の制服の袖に落ちていた。
昨日立ち会ったCVカテーテルの挿入介助は、ひどい有様だった。その「散々」には、私も、患者も、そして医者までもが含まれている。
「今しか時間取れないから、やるよ」
予定よりも早く、青のスクラブを着た内科部長の佐伯先生が、医療用スマホを片手に足早に病棟へ向かってきた。
吉井さんは高齢で、末梢ルートの確保が困難になっていた。経口摂取もできず、栄養状態は著しく悪化している。高カロリー輸液の投与ため、中心静脈カテーテル(CVカテーテル)の挿入が必要だった。
私はCVキットを回診車に載せ、先生の背中を追う。
プリセプターの鞍上先輩は、退院前カンファレンスに出ていて、他に手の空いている看護師もいない。結局、私しかいなかった。
わかってはいた。処置はもともと予定に入っていた。
それでも、時間が「今」にすり替わっただけで、現実に取り残されたような心地がして、私は小さくパニックを起こしかけていた。勢いのまま、病室のカーテンを開けると、佐伯先生はベッドサイドに立ち、ボールペンをカチカチと鳴らしていた。苛立ちが、指先の動作にまで滲み出ている。
吉井さんは、静かに眠っている。
「吉井さん、先生いらしたので、お話ししてた処置始めますよ」
返答はない。意識もそこそこな吉井さんを驚かせないように私は急いでベッドの頭側に回り、ベッド柵を順々に外し、体位を整える。何気ないその作業でさえ、手の中の重みを過剰に受け止めてしまい、気持ちが折れてくる。息をひとつ飲み込むたびに、体の奥で何かがきしんだ。まるで、沈黙の中に自分の音だけが置かれているようだった。
「ガウン」
「は、はい」
キャップを素早く被った佐伯先生に、私は滅菌ガウンを手渡した。
先生は黙って首紐を私の指に押しつける。慌ててそれを受け取り結ぼうとした拍子に、紐が指から滑り落ちてしまう。
「余計なとこ、触らないでよね」
「はい。す、すみません」
「はい。だけじゃなくて、ちゃんとわかってる? 急いでるんだけど」
「はい……」
素早く済ませなくてはならない。でも、焦れば焦るほど、指先は思うように動かない。ここは、医療現場だったことをようやく思い出す。ガウンテクニックは初めてだった。口の中が渇いて、唾を飲み込む音がやけに大きく感じられた。
不潔操作にならないように注意しながら、佐伯先生の首元の紐を慎重に結ぶ。続けて、腰の内紐にも手を伸ばす。子どもの頃から慣れたはずの蝶結びさえ、こんなに難しく感じたことはなかった。私は結べたのだろうか。結び目の向きを確かめる余裕もなく、先生は体を翻し、動き出していた。スマホが鳴り始めた。
ピリリ、ジーッ、ジーッ。
「外来、混んできたな。急いで」
「はい」
「大丈夫?」
「…はい」
「いや、大丈夫じゃないでしょ。俺、62/1なんだけど」
「え?」
時が冷たく止まったような気がした。回診車に入っていたのは、72/1の手袋。サイズが明らかに違う。私は渡す前に確認すべきだったのに、それすらできていなかった。
「違うよね、これ。大きすぎて使えない」
佐伯先生は、滅菌手袋を無造作にベッドの上へ放り投げた。
その音すら、時間を凍らせるような乾いた衝撃として響いた。スマホが再び震える。
ピリリ、ジーッ、ジーッ。
「もうっ、急いでるんだよ!」
限界寸前の怒声が、部屋に響き渡った。白衣の中の化け物が吠えた気がした。回診車のステンレスの引き出しが冷たく反響し、そこに「62/1の手袋」が存在しないことをようやく確信する。
点滴用の針やシュアプラグが、わずかな揺れで滑り出し、カチャリと音もなく床に落ちた。
私は走った。ナースステーションへ。いつの間にか戻ってきていた鞍上先輩は、私の気配を感じて振り返り、すぐに吉井さんの病室へ走り出していった。手袋を持ち、再び病室に戻る。佐伯先生は既に怒鳴っていた。スマホの振動音も、それに合わせるように甲高く響く。
「依田、これシングル。ダブルルーメン持ってきて」
鞍上先輩の声は冷静だったが、語尾に怒りを込めていた。
ナースステーションの資材棚には、目当てのダブルルーメンはなかった。私は隣の整形外科病棟まで走り、ようやくそれを見つけた。
吉井さんの病室に戻った時には、佐伯先生も先輩も姿を消していた。
ベッドの上に残されていた吉井さんは、喀痰が絡んで苦しそうに咳き込んでいた。私は吸引チューブを用意し、咳の根幹にある痰を引いた。
どうやら、佐伯先生の外来診療が一時ストップしたらしい、と誰かが小声で言っていた。私はそれを聞こえないふりをして、足早にナースステーションへ戻った。
鞍上先輩は、電子カルテを打ち込んでいた。回転椅子を揺らしている。
「すみませんでした」
頭を上げた時には、先輩の姿はもうそこになく、ディオールのオードゥンパルファンの香りだけを残して、鞍上先輩のいなくなった回転椅子はまだ軽くゆれていた。
人気のないナースステーションには、つ、つ、つ、と、心電図モニターの波形音が規則正しく響いている。患者の「生」を知らせるその音に、私はかろうじて現実をつなぎとめていた。
連続してナースコールが鳴り出し、意識は散り散りになりながら、虚ろな身体をなんとか、立たせた。私の半径1mの世界ですら、心を宥める安全な場所ではなくなっていた。あの時、看護学校の面接で不合格になったのは、正解だったのだ。私は看護師として空っぽだった。
終業の時刻を告げる時計の針が止まったとき、私は主任に呼び止められた。
「今日はもう、帰りなさい。それと、できないことは人に頼みなさい」
私のやり残した仕事も、全て請け負うと、主任は付け足すように静かに言葉を継いだ。感情の抜け落ちたその声は、実質上干されたことを意味する。
春の夕暮れは、少しだけ暖かく、短い影を引き連れて、私はゆっくりと帰り道を歩いた。
それでも、まだ微かに残る冬の存在を感じる。冷たい風が病院の不自然な空気を連想させて、私の実態はまだ、無機質な病院におき忘れてきていることに気がつく。
薄いスプリングコートの中に、剥き出しの皮膚をしまい込む。あたたかさも冷たさも、感じないように、胸の奥にある「忘れ物」を、そっとたたんで隠していった。
傾き始めた日差しはそれでも暖かい。そして、あゆみに寄り添うように流れる帷子川は、やがて、私を追い越していった。始まりも、終わりもなくて、毎日を流れている水流は、淡々という言葉がよく似合う。
雑然とした6帖ワンルームの部屋に参考書の詰まった牛革のリュックをどすんと置き、窓台に腰掛ける。
太陽がゆっくりと沈み淡く霞んでいくと、やがて、薄い桃色を浴びた雲と橙色とが混ざり込み、ビーナスベルトが降り立った。こんなにも美しい空を眺めているのに、人から必要とされない現実は、呼吸を荒くして、病院から離れた家でも肺の解剖生理学が頭に過って、心臓の音は耳まで届いていた。
救急車の音が響く。明日もまた、新しい誰かが、救われることを願って運ばれてくるだろう。
時計の針はゆっくりと、それでも静かに進んでいく。あと何周かしたら、私はまた、ナース服を纏い、病棟に立つ。
日が沈んでいくのが見える。そして、夜が来て、結局、また朝が来た。
背中を見るだけで、先輩ナースの機嫌はわかるし、聞いてもらえない報告や、相談の私の声は、ぽつんと床に落ちて、今日もまた、一人で働いていた。
耳鳴りは片耳から両耳に広がり、私の心を捲し立てて、冷たい廊下の足音や、ステーションのモニターの音や、点滴棒を揺らす、がらりがらりという音が、頭の中でどこまでも続くように響いていた。
続々と夜勤者が出勤し始めた頃、私はいつものように残業をして、とっくに指示の切り替わった過去の記録を黙々とカルテに打ち込んでいく。
治療の展開は早過ぎて、すでに手術の予定も組まれた患者の、入院時の記録を私はいまだに書いている。時は進んでいるのに、私だけが過去に置き去りにされているようだった。
同期のナースの綾は容量も器量も良くて、可愛がられていて、ドクター主催の週末のバーベキューの幹事を任されたことを嬉しそうに私に報告した。
「楽しんで来てね」
と、当たり前にその輪に入れない自分を悲しく受け入れて、口角を上げてみたけれど、うまく笑えた自信はなかった。
「千咲も、行こうよぉ。一人でやれる自信ないもーん」
綾は、可愛い。優しくて優秀で、同じ新人ナースなのに、あっけらかんと笑って「せんぱーい、わかんなーい」と、素直に心の内を晒す事ができる。容量よく仕事を切り上げて、「千咲、ほどほどにしなよ」と、私を後ろから抱きしめて、軽い足取りで病棟から消えて行った。
そのぬくもりには、春の匂いがした。
私は嫉妬することも忘れて、また電子カルテと睨めっこを始めた。私はどこか諦めて綾と私は違うと、自分に言い聞かせた。そうしないと、前に進めなかったのだ。
また、周囲では忙しなく、病院独特の音がした。
看護師を辞めたい。向いていない。いくら勉強しても追いつかない。
日常が、私を蝕んでいった。
吐物はいつも、酸味のかかった胃液の味がした。
病院の廊下は冷たい。私にも、患者にも。
青白い蛍光灯。くすんだ白の壁。無機質なカーテン。汚物室からこぼれ落ちる、排泄臭。
病院は、清潔な場所だと習ったけれど、心の内側がみんな澱んでいて、完璧な空調は、不自然の塊で、暑くも寒くもない院内は、風の流れもなくて、私の耳は聞こえなくなってきていて、それでも私に、「お前なんかいなくてもいい」と、存在しない誰かが、囁きかける。
私は、トイレの水道で顔を洗って、鏡に映る自分を眺めた。
うまく笑えているだろうか。濡れた顔には血の気がなくて、化粧っ気のない子供みたいな幼稚で隈に塗れた不自然な顔を俯瞰的に見ている気がした。
そっと鏡に向かって笑ってみる。
大丈夫、まだ、笑える。私はそう言い聞かせて、ペーパータオルで雑に顔を拭き、ナースステーションに戻った。
「まだ辞めないの。メンタルやば」
私に向けられる声だとわかっていたけれど、聞こえづらい耳に甘えることにして、患者のバイタルサインを一人ずつ入力していく。赤や青や黄色の折れ曲がる曲線を眺めて、カシオペアみたいだなと思った。そう思わなければ、自分の輪郭が消えてしまうような気がした。
挨拶となんら変わり映えのない陰口や、澱んだ空気感は、絵筆を水に浸す様に、波紋を広げて患者にも伝染していく。
「おーい、どうなってんだよ、いつ退院できんだよ」
「主治医は不在で、週明けには確認取れますので」
「いいよなぁ、病気の俺らがいるから、お前ら給料もらえてんだからな。今すぐ確認してこい」
「申し訳ありません」
「サービスが悪いよな」
病を抱えた者は、自分よりも弱い存在を見つけることに長けている。その男性患者の手が、唐突に私の胸を掴んだ。何の前触れもなく、ただ機械的だった。思わず手を振り払ったけれど、次の瞬間には腰に手を回されていて、体の軸がぶれ、私は、彼の膝元に崩れ落ちた。彼は、笑っていた。
「たまにはご褒美ちょうだいよ」
支離滅裂な中年男性の声が、耳の奥にまとわりつく。糖尿病特有の甘酸っぱいアセトン臭が、ナース服の繊維にまで染み込んだような気がした。
私は、じわじわと滅入っていった。
ポケットの中で、両手を握りしめる。ぎゅうぎゅうに押し込まれたメモ帳が、紙の端を逆立ててはみ出している。書き殴られた文字の密度が、そのまま心の余白のなさを物語っていた。
無色透明な日々が、泣くという行為を、どこか遠くへ連れ去ってしまったのかもしれない。代わりに鼻水だけが流れて、目からこぼれない涙の不思議に、またひとつうんざりした。
それでも、日は過ぎていく。
病院を出ると、ぽつんぽつんと、控えめに雨が落ちてくる。ビニル傘をそっと開く。季節はめぐり、私は、就職して初めての梅雨を迎えていた。
透明な傘のなかから、空を見上げる。大きさの違う雨粒が連なって傘の骨を伝い、飲み込まれるように滲み落ちて消えていった。それでも、その外側にあるものをほんの少しだけ、見てみたいと思った。半径1mの小さな世界から。
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