『夜明けの18秒』Episode 3 ひとりの記憶、ふたりの放課後【創作大賞2025・ファンタジー小説部門】
プロローグ・episode1 小さな違和感と、雪の降る日に
episode 2 不可逆な時間
Episode 3 ひとりの記憶、ふたりの放課後
今日の空は、雪が降ることを忘れたようだった。雲の割れ目から、静かな光が地上に降りてくる。
ゆっくりと流れていく雲は、昨日と今日の境界をなぞるように、心の奥を、そっと落ち着かせていく。どれくらいぶりだろう。こんなふうに雪のない空を見上げたのは。明確な昨日がないのに、そんなふうに思う自分が少しだけおかしく思えた。まぶたの奥に、光がしみ込んでいく。
教室の窓辺に座っていると、止まったままの時計台の針が見える。古い時計台。過去を持つはずの時計は、未来を刻むことを忘れて、ただ静かに僕たちを眺めている。誰もそれを気にしていない。気にしないふりをしているように、空気が震えていることを、僕だけが感じていた。確かに聞こえる。誰にも聞こえないはずの、ちいさな音が。
…カチ、カチ、カチ。
それは、心の奥にある、あやふやな時計の音。進んでいるはず。そう、ゆっくりと。僕は、大丈夫。そう、言い聞かせた。
時計台のそばに、背の高い黒いスーツ姿の男が見えた。胸騒ぎがして、慌てて目を逸らした。鼓動が静まるのを待って、もう一度顔を上げた頃には、その男はいなくなっていた。昨日のパーシの言葉が蘇る。記憶がぼんやりとした、今日を生きることに、僕は少しだけ怖くなった。
放課後、フィンロッホの町をミーシャと一緒に歩いた。何かを思い出すには、この世界に触れることがいちばんだと感じた。ミーシャは、雪の上に軽やかな足跡を残しながら、何度も僕を振り返る。まるで、道しるべのように。
もしかしたら、進まない時計台の針が、前に進めと、背中を押しているのかもしれない。物語の全貌をこの目で確かめるために、風に身を委ねて、時を刻むように。
見慣れた景色であるはずなのに、心の隙間に雪が滑り込んでくる。風は、冷たかった。自分だけが取り残されたような気がする。知ることは、思い出すことは、この冷えた風景と同じなのかもしれない。雪に馴染んだ町並みは、おとぎ話のジオラマみたいに、静かに並んでいた。
それでも、少しずつ記憶は蘇ってきていた。歩幅を一歩ずつ進めるたびに。こうやって僕はきっと、毎日同じことを繰り返しているのだ。虚しさが、僕を襲った。
「ナオくん、おやつにパンはどうだい?」
レミさんの声。昨日とまったく同じ、語尾までそっくりな声色。
「ナオくん、大きくなったなぁ。始業式は今日だったよね?」
トコさんの笑顔。笑っているのに、どこか張りついたような、その目が揺れていないことに気づく。声を聞くたびに、僕の足だけが、昨日と違う場所を踏んでいるような気がした。
もしかしたら、昨日、なんて、最初からなかったのかもしれない。
気がつくと、ツリーハウスの前まできていた。そこは、幼い頃にヨアケと過ごした秘密の場所だった。フィンロッホの森でもっとも古く、もっとも静かな木にはまだ、僕たちのツリーハウスは雪を被りながらもしゃんと建っていた。雪景色と、風の音しか聞こえない、静けさの中で。
いつか、なんて、本当は来ないのかもしれない。僕の中にあったうっすらとした希望が、音もなく、すこしずつ消えていく。
雪道を静かに踏み鳴らす。少しだけ凍った雪は、足跡を硬く、深く残していった。
「ミーシャ?」
あれ、ミーシャがいない。ついさっきまで前を歩いていたのに。孤独な風が一筋吹いた。僕がきょろきょろとミーシャを探していると背中から声がした。ホッとするような、柔らかい声だった。
「ナオ?」
振り返ると、そこにはヨアケがいた。白いコートに赤いマフラー。首元をすくめて寒さを抑える仕草が、なぜかとても懐かしかった。
「ナオ、どうしたの?家から反対方向じゃない」
「ヨアケこそ、どうしてここに?」
「呼ばれた気がして…ううん、ごめん。なんでもない」
ヨアケは、少しだけ目尻を下げた。ヨアケの笑い方は優しい。笑うとほんのりとえくぼが浮かぶ。それを照れたように隠す姿を、いつか見たことがあった気がした。寂しくて優しい微笑みが、心をちくんと、指で弾いた。
いつのまにか戻ってきていたミーシャが、僕たちの間を静かにすり抜ける。しっぽがさらさらと意地悪く笑っていた。
「あの猫、ナオとずっと一緒にいる子?」
「うん。ミーシャ。知ってる?」
「ううん。でも、知ってる気がする。不思議だよね。もしかしたら、私ミーシャに呼ばれたのかも。この子、時計の秒針みたい。ゆっくりと、この場所に導いてくれた気がする」
そう言って、ヨアケは少しだけ目を伏せた。記憶を遡ることを避けるその仕草は、この町の寂しさそのものだった。
いつのまにかうっとりと、ミーシャはヨアケに体を預けていた。彼女は、ただの猫じゃない。あの子は、時間の泉を渡って、誰かの記憶を届けるために来たんだ──そんな直感が胸をかすめた。
「ねえ、ナオ。聞いてくれる?」
ヨアケは、思い出したように顔をこちらに向けた。
「うん。なに?」
「昨日、夢を見たの。ナオと私がいた。大事な約束をしていたのに、それがどうしても思い出せなくて」
風が、さらりと頬を掠めた。ヨアケの長いブラウンの髪の毛が流れていく。彼女の言葉が、昨日と今日のすきまに、やわらかく触れた。
「今朝ね、目が覚めて、窓を開けたの。誰かが森の奥から、私を呼んでいる気がして。スクールにいても、なんだか落ち着かなくって。気付いたらここに。なんだか、今日の前に何かがある気がして…上手く言えないけど…。それで、もしかしたら、ナオを無意識に探していたのかもしれないね」
ヨアケは、肩をすくめて、空を眺めた。雪が降らない空を懐かしそうに。
「ヨアケ。呼ばれたんだよ、きっと」
「え?」
僕はヨアケをまっすぐと見つめた。ヨアケの瞳に映る僕の姿が、いつもの今日じゃないことを優しく教えた。
「ヨアケ。何かを感じたこと、それには、きっと意味がある。ヨアケは、昨日のこと、覚えてる?今日の前。当たり前だけど、僕たちにもあるはずなんだ。ただ、それを思い出せないだけ」
僕はゆっくりとヨアケに話した。自分自身を諭すように。ヨアケの瞳は揺れている。少し困ったような顔をして。それでもその向こうに何か光が差していることがわかった。それは、垣間見える空のせいかもしれないし、僕の声に何かを感じているようにも思えた。
瞳がとても澄んでいた。僕はたしか、この目が、とても好きだった。そんな切なさが、胸を締め付ける。
「…昨日の僕からの手紙を受け取ったんだ。“約束を思い出して”って書かれてた。夢だと思っていたんだ。ずっと。でも……」
僕は、胸に手を当てた。あの日、手紙に触れたときの、かすかな震え。どこか懐かしくて、胸の奥があたたかくなった。
「体の奥で、そう、感じる。ヨアケの夢と、僕の手紙。全部が、繋がってる気がする。だから、思うんだ。昨日は、たしかにある。言葉じゃなくて、記憶じゃなくて、たぶん……体が、知っているんだと思う」
ヨアケは目を大きく開いたあと、少しだけ微笑んだ。その笑顔が、僕の記憶のどこか、深いところに残っていた気がする。
「ナオ…私には、昨日がないの。思い出せないの。でも、何かがずっと、引っかかってる。時計が進まないこの町で、毎日が、何か、ずれてる。それがしずかに怖くて。“今日”だけを信じようって、そう思っていたのに」
俯いたヨアケの、目元が印象に残った。どこか儚くて、どこか雪のような冷たさと、あたたかさがあった。
「私の、昨日…か。私にも、あるのかな。昨日が。それ、見つかるのかな。ナオ」
ヨアケの瞳の奥に、光が宿る。
「うん。ヨアケ。もし思い出すことができたら、いつもの今日が少し変わる気がしない?」
ヨアケは、しずかに頷いた。
「探そう、ふたりで」
そのとき、ミーシャが雪の上を歩きながら振り返った。雪の上にひとつの文字が、ふんわりと浮かび上がる。
“ようこそ、約束の道へ。”
ヨアケと僕は顔を見合わせた。少しだけ瞳を広げて。
「ふふ、どうやって描いたんだろう。ミーシャ、君って、不思議な子だね」
ヨアケが、ミーシャの顎を微笑みながら触れた。しっぽが、機嫌よく揺れる。
「ミーシャに話しかけられてるみたい。触れた時、何かあたたかい気持ちを思い出した。すごく静かに、大切な時間を運んでる感じ」
この光景…。胸の奥がふいに熱くなった。
誰かの声。笑い声。約束。指切り。あの木の下。ツリーハウスの影。白い猫のしっぽ。
記憶のなかで、水が張ったガラスの奥に閉じ込められていた景色が、ひとつ、またひとつ、音を立てて割れていく。セコイアの木々の揺らぎ、風の音、差し込む光。
「あ、なんだか懐かしい」
ヨアケがゆっくりと立ち上がる。そして目を細めて、指を差した。ツリーハウスの奥に広がる森の向こうへ。
かすかに水の音がした。風も止まり、すべてが沈黙した静けさだった。ふわり、ふわり。木の葉に残る雪が落ちる音さえも聞こえるほどに。
「時間の泉」
それは、僕たちが幼い頃に、あの本のなかで読んだ言葉だった。忘れていたはずの名前が、胸の奥で静かに響いた。
そして、流れる風の中で感じていた。
⸻迎えがきた、と。僕は、彼女のことを待っていたんだ。ずっと。
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