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秋と言えば…”読書”ということで、川端康成「少年」を読んでみた。


はじめに

10月初めはまだ30℃を越えて夏日でした。
で、過ごしやすい20℃台の秋の日々がこれからしばらく続いてくれることを期待していたのに、急に20℃にも届かない日になったり…😲。

気候変動のせいで本当に日本に秋が無くなってきたというのを実感しますね。秋の風情を長く楽しむことが出来なくなるというのが悲しい…。
この気温の急変化に体も付いていけず、ちょっと風邪気味に体調崩したり…。皆さんも体調管理に気を付けて、お自愛ください。

最近は「鬼滅の刃」や「チェンソーマン」なんかの映画は観ているものの、あまり映画もドラマもグッと興味をそそられるものがない。

一応ネトフリで、ゲイの少年が海兵隊のブートキャンプ?に入隊するというドラマ「Boots」を見てる途中ですが、まだ3話ぐらい。面白いけど、ガッツリハマるほどでもないかな~?どうかな~?といったところ。(ああいう理不尽なシゴキみたいなのあんまり好きじゃないんですよねぇ~。まあちょっとギャグみたいにやってるところもあるんだろうけど)

そんな私が最近、読書の秋…というわけでもないけど、10月初旬、ノーベル賞の発表で盛り上がっていた頃、日本人初のノーベル文学賞を獲った川端康成のことが頭に浮かび、

加えて、映画「国宝」田中泯さんが演じた小野川万菊を調べる中で、三島由紀夫「女方」という小説を読んでいて、ふと、三島の師匠?恩師?と言われる川端康成の同性愛的作品というか(万菊さんは同性愛者だと私は思っているので(詳しくはコチラの記事に書いてます))、彼の学生時代の回想録的作品である「少年」を、まだちゃんと読んだことがなかったので読んでみようと思い立ったのでした。


川端康成「少年」

「少年」は、川端康成が50歳の頃に(全集を出すので過去に書いたものを整理する中で)、幼少期や学生時代を振り返って、回想していくという内容の本。今までは全集の中に収録されてるだけで、数年前に待望の文庫化されたようです。

50歳の川端氏が、生い立ちから始まり過去を振り返りながら、

①中学生の頃に書いた「十六歳の日記」
②高校生の頃に書いたラブレターを作文として提出したもの、
③大学生の頃に書いた「湯ヶ島での思ひ出」
(当時の中学生は15~19歳頃(5年制)、高校生が20歳前後、大学生がその後25歳ぐらいまででしょうか)

という三つの著述品から彼が恋した少年に関する部分を抜粋し、当時の心境などを思い返して添えたり、解釈を添えたり、そこに、この関係が自分の一方的な想いだったわけではないことを証明するために、その恋愛対象だった「少年」、清野君からの手紙の内容も載せて構成されている。

今回、ヘェ~と思ったのは、川端氏の代表作「伊豆の踊子」が、「湯ヶ島での思ひ出」という長い話の中の一部分、踊子との交流の箇所を作品化したもので、「湯ヶ島での思ひ出」全体としては清野君への想いを綴った箇所がメインの作品だったそう。


「少年」の良かったところ

まずは、「少年」の良かったところを書いていきます。

1:当時の川端少年?青年?の、清野君への素直な感情が綴られている点。

川端氏は作品内では”宮本”、”清野”君も実名は小笠原だそうで、登場人物(主に寄宿舎にいた生徒たち)は仮名になっている。なので多少はフィクションの部分もあるのかもしれないですが…概ね現実に即して書かれているらしい。←当時の日記と小説「少年」を照らし合わせてみた人がほぼ一緒と書いていました。

「お前の指を、手を、腕を、胸を、頬を、瞼を、舌を、歯を、脚を愛着した。」
僕はお前を恋していた、お前も僕を恋していたと言ってよい。

な~んて、読んでるコチラが恥ずかしくなるほど、川端青年の想いが赤裸々に綴られている。

二人は大阪の茨木にあった中学校で、数人が同室で暮らす寄宿舎の先輩と後輩という関係。川端氏が室長(年長のリーダー)。清野君が一歳か二歳下(小説の中では二、三歳下設定だけど、実際は一歳下ということだったかな?)。
川端氏が室長だったのが5年生とかの頃。当時の中学校は、小学校6年、高等小学校2年、その後に中学校が5年だそうなので、18~19歳の頃になる。なので相手の清野君も16~17歳の頃。

小説の中では、川端氏はたまに肉欲的な感情を抑えてるようなところもある。清野君に関してはまだまだ幼くて、頼りになる先輩というか、お兄ちゃんに甘えてる子供のような純粋な感じで、全く肉欲とか無さそうに描写されてる。なので、てっきり12~14歳ぐらいの少年に錯覚するんだけど、実際は16~17歳。ホルモンが溢れて、男女関係なく肉体的接触で反応とかもしちゃいそうな年齢。

でもそんな無垢な感じの清野君ですが、

「私のからだはあなたにあげたはるから、どうなとしなはれ。殺すと生かすなと勝手だっせ。食いなはるか、飼うときなはるか、ほんまに勝手だっせ。」

と言ったり、
夜寝ている時に、川端先輩の腕を抱きしめて寝てくれるような子で、

「こないに握ってても、目が覚めたら離れてしもてまんな。」

な~んて言ったりもして、中々な小悪魔ぶりもあったりする。
(あまりにもコテコテの大阪弁でビックリしました。これが萌えポイントの人もいるだろうけど、私は昔の新喜劇風に脳内変換しちゃったから、藤山寛美とかのイメージになっちゃった😅)

しかし、おそらく彼は全く計算して発言している感じではなく、本当に純粋に川端先輩を敬愛していて、全てを捧げてもいいくらいの心情だったように読んでいても感じられました(清野君からの手紙もありましたからね)。なんでも当時まだSEXについてあまりわかっていなかった可能性もあったとか。エエ~、16、17歳頃で?🤔
でも男女のSEXはわかっていても、男同士でSEXするなんて想像もしていなかった可能性はあるかもしれません。いまでは腐りまくってる私でさえも、まだまだ初心だった頃(さすがに16、17歳のころじゃなくて中学1年ぐらいの頃だけど)は、肛門性交なんてものが存在するなんて想像もできませんでしたから😅。なので川端先輩と抱き合ったり、接吻されたり(これも口対口なのか、頬とかに対してのものなのか、その辺の正確な描写はなかった気がする。額やまぶたにキスしてる表現はある。でも唇や歯を愛したっていう表現もあるから、ディープ・キスしていた可能性もある)、それが男同士の愛情表現の到達点と思っていてもおかしくない。

とにかく、作品の為に想像して作られた感情ではなく、実際に生きた人間の、余計なフィルターを通していない素直な想いが綴られている(気がする)。それもノーベル賞作家の。若い青年の、純粋なフェイクじゃない想い。なんだか清々しかったし、人を想う、大事に想う、慈しむ感じが凄くいいなと。

2:大正時代の学生たちの同性愛的な関係を知る良い資料。

以前書いたコチラの記事

この時に「オカマの日本史」という本を読んで、その中で明治期以降の学生の中で、衆道の名残として同性愛文化が形を変えて継承されたみたいなことが書かれてありました。

女と付き合うのは軟派で、男同士の関係が硬派。しかしそれが行き過ぎて、学生による同性間の強姦事件も頻出したとかなんとか。

そういう当時の男子学生の間の同性愛的関係について、川端康成の実体験を交えての記述は、当時の様子をよりイメージしやすくしてくれる重要な資料となっているな~と。

「少年」を読んでいると、同性愛的関係になっていたのは川端氏と清野君の二人だけでもない感じが随所に書かれている。

清野君の同学年で、これまたルームメイトであった小泉君も、時には川端先輩の横で腕を抱きしめて?触られて?寝ていたり、清野君ほどでないにしても結構なスキンシップを受け入れてるようにも見受けられる。
清野君や小泉君が野獣先輩…じゃなかったw、別の先輩である大口君から狙われていて、自分がいない間に襲われたらマズいと川端先輩は気が気じゃない描写があったり、
はたまた小泉君が来る前に同室だった垣内君という人物は、ちょっと女性的な艶冶(えんや:なまめかしいこと)な人物で、上級生がそういう欲望を持っていることも知っていて、川端先輩を挑発するような素振りや清野君を狙っているようなところもあったとか。←彼こそ小悪魔的なトラブルメーカーだったっぽい。川端先輩も彼を浴場で見て欲情して?w、自分が室長を務める部屋に来てくれないかと思っていたり、その思わせぶりな態度が別の先輩の不興を買ったのか?ある日ボコボコに鉄拳制裁された後に退学していった。

なので、川端&清野だけでなく、先輩が気に入った後輩を襲うみたいなことは割とあったんだろうなというのが伝わってくるし、清野君は例外的に純粋だったけど、マセた子はその好意を利用したり、媚び売って気に入られようとしたり、色々と彼らの中でも愛憎渦巻いて、駆け引きみたいなのもあったんだろうなぁ~と。

3:清野君は宗教二世 & 関係の終わった理由

清野君は、父親が「大本教」という宗教の結構偉い地位の人物だったらしく、彼も当時は大本教に帰依していた(実際には卒業後かららしいのですが、それを知った川端氏は学生時代から信仰していたのだと思っている)。

しかし彼の信心ぶりの描写の前に、川端氏が湯ヶ島温泉逗留中に、その「大本教」の2代目、3代目になる教祖の一団と遭遇し(宿の主人も大本教の信者だったから)、その醜い裸を(混浴の場で)見てやろうとする描写が結構な尺を使って語られる。

↑のWikiページに二代目の教祖・出口すみの写真があるけど、確かにかなり肥え太ったおばさん。初代教祖の出口なおも普通の婆さんと言った感じ。
(大本教のことは覚えてなかったけど、”出口なお”という教祖の名前はどこかで聞いた覚えがある)

川端氏は信徒たちに付き添われて入浴する彼女たちを、そんな大層な人物ではない、美のあるところにこそ神性が宿るはずだと思っていて、神性なんか微塵もないと観察して切り捨ててる。←おそらくバッタもんの怪しい新興宗教だと思ってる感じでしょうか?実際当局に捕まったりもしているので、私たちがオウムや統一教会に感じるような感覚だったのかもしれません。

読んでる私は、何で彼はこんなことを延々と書いているんだろう?これがその内に伏線回収されるのだろうか?一体何を読まされているんだ?と、ちょっと困惑してしまった。少年との愛の関係を綴った小説だと思っていたし、それを読みたいのに、なんか全然関係なさそうな話になっていくので。

で、この後に、川端氏が大学生になり、清野君も中学を卒業し、京都の嵯峨で父親たちや信者たちと一緒に修行をしている彼を、山奥の滝の近くの修行所まで訪ねるくだりになる。

ここで宗教に興味がない川端氏を横目に(清野君は特に熱心に勧誘して入信させようとかはしない)、清野君は滝行したり、黙々といつもの修行を行っていく。

なんだか、このあたりの下りが逆に私的には段々面白くなってきたw。
川端青年と、カワイイ後輩の清野君との甘酸っぱい恋の話を期待して読み始めた小説なのに、その後輩の清野君が、川端先輩をおいて一人で滝行はじめたりするという…なかなかシュールな世界じゃないですか?思わず苦笑いが止まらなかったwww。

この嵯峨の修行所に、清野君に逢うために二度ほど訪れている川端氏。しかしその後、手紙のやり取りも段々無くなっていき、没交渉になっていく。

川端氏は特段小説内で言及していないけど、先述の「大本教」の教祖たちと遭遇した挿話。そして清野君が「大本教」を熱心に信心している様子を書いていることを考えると、おそらくこの”宗教”問題が、彼を清野君から遠ざけた一因、いや最大の要因だったと思われます。

コチラの方のブログで「少年」について色々詳しく調べられていて、
(国会図書館?から資料を取り寄せたり、二人の母校である中学校の記念図書みたいなのまで購入するほどのめり込みようw)

ブログ主の方の腐女子視点も物凄く楽しく読ませて頂いたのだけど、その中に、川端氏は、幼少期に両親、姉、祖母、そして15歳には祖父も亡くなり、全くの孤児になってしまい、いつもどこかで家族を求めていた。本人も自身の”孤児根性”について頻繁に書いている。

なので、自分に肌の温かさを教えてくれて、全てを受け入れてくれた、つまり無償の愛で応えてくれた清野君に”母”を見ていたのではないか?…という考察をされていて、ハハァ~なるほど!!確かに!!と納得したのでした。”母”であるからこそ、ある意味SEXに至る一線を越えることができなかったのだと。
(まあそれだけじゃなさそうでもあるんですけどね。清野君が微妙にタイプじゃなかったとか、一線を越える勇気がなかったとか、いろんな要因が重なってはいるとは思われる)

孤独を抱えてるタイプの男子は”母性”タイプに堕ちやすいですよね。映画も好調の「チェンソーマン」。私も観てきましたが、主人公デンジが夢中になってる支配の悪魔マキマさん(映画はレゼとの恋愛が中心でしたけど)。彼女の”マキマ”って変な名前だけど何か意味があるのかと思ってググってみたら、マキマからチェンソーで木=”キ”を切ったら”ママ”ということで名付けられたとか。ろくでもない父親しかいなかったデンジにとったら、衣食住を与えて、(一応)優しく包み込んでくれたかのようなマキマさんは無条件の愛を与えてくれる母のように錯覚していた部分があったんだなと(全然無条件じゃなくてデビルハンターの仕事させまくりの条件ありまくりでしたけども😅)。

「少年」に話戻って、学生時代は、薄っすら清野君が信仰の強い子っぽいなぁ~ということを感じていたとはいえ、そこまで実態を知らなかった(病気の時に横で「リリシャシャ」という謎の呪文を唱えられたくらい←十分怪しいけどもw)。なので、彼の母のような無償の愛も、彼から自然発生的に生まれてきたものだと思っていたわけです。だから清野君の慈愛に感激して自分の想いも高まり、熱中してしまったのも理解できる。

しかし、その自然発生的に生まれたと思っていた愛が、宗教の教義によってもたらされた結果なんじゃないかという疑念が生まれたら?

川端氏は最初、清野君が卒業後に宗教にのめり込んでいったのを、自分との別れがつらくて、淋しくて、学生時代は自分に依存、まるで神のように帰依していたのに、それが無くなったから宗教を代わりにした…的な考察をしています。実際、大家族で育ってであろう清野君は一人寄宿舎生活をするようになり、淋しくて、頼りになる川端先輩に依存していった部分もあったのかもしれない。

しかし、先述した滝行の修行の場で、水しぶきを浴びる彼の背中に後光を見る。単に水しぶきに光が当たって輝いて見えているだけなんだけど、それくらい神聖な存在に感じてしまう。

「清野は前から私に帰依していたのではなかったか。しかし滝しぶきを後光とした彼の体と顔とに現れている精神の高さは私のものと比ぶべくもない。私は驚きに打たれると間もなく妬みを覚えたのである。」(「少年」P.74より)

川端氏は信仰においても清野君の純粋さに驚いている。他の修行者たちは自分のネガティブな要素を克服するために滝行などの修行をしていて、皆暗い、思い詰めたような顔をしている。
一方、清野君は、大本教入信の前から親によって神道系の宗教の教育を受けていて、信仰が生活に根ざしている人物だった。修行も苦行ではなく、お風呂で体を洗って身体をサッパリさせるように、修行して心をサッパリ清めるのが当たり前。そこに疑いなどもなく、そういうものだとして眩しいくらい素直に信仰とともに生きている。

手紙でのやり取りでは川端先輩と会いたい、あなたがいてくれたら…みたいなことを書いてきてくれていたけど、いざこうして会って見ると、全然自分なんか必要とされてなくて、ずっと庇護してあげる対象だと思っていた清野君の方がよっぽど”自己”というものを確立して、凛として生きている。一方、孤児根性が拭い去れない自分は相変わらずいろんな人に目が移って懸想したりし、欲望と戦ったり、煩悶しっぱなしの人生。そんな憐れで軽薄な自分が一気に情けない劣等な存在に感じられて、凛と、清く正しく生きている清野君に嫉妬した。

こうなってくると、もうダメですよね。
庇護してあげる対象と思っていたということは、ある意味自分より下に見ていたことになる。しかし、その人物の方が実は精神性が自分より高く、庇護を必要としていたのは自分の方、自分だけだったのではないか?と気付いた瞬間、顔から火が出るように恥ずかしくなる。

川端氏の場合は”妬みを覚えた”と書いている。
それは清野君の精神性の高さに嫉妬したというのもあるだろうし、おそらくここでも孤児根性が発令して、この純粋無垢で真っすぐな清野君の性質は、たとえ宗教に偏ってようとも両親から厳しくも大切に育てられた結果だろうし、一度も会えないまま死んだ姉がいた川端氏と違って、5人兄弟の長男(姉がいたらしいので第二子、第三子ぐらい)で、大家族の愛に囲まれてすくすく真っすぐ育った清野君のバックボーンがわかって、そこに嫉妬した…みたいなことなんじゃないかな?自分も両親や兄弟の愛情に包まれて育っていたら、こんなひねくれた、愛情求めて人をいやらしい目で見たりしない、真っ当な人間になれていたかもしれないのに…という嫉妬。

私も両親がずっと仲悪かったし、お互いのことを褒めたり、愛情表現をしたりするなんてことを見たことがなかった。それで大学生の時に、友人から海外赴任中の父親が母親にラブコールしてくる話を聞いた時に、新婚でもないのにそんなラブラブな夫婦が存在することが俄かに信じられなかった(苦笑)。そんな友人に嫉妬はしなかったけど、私みたいにひねくれてなくて素直で真っすぐな彼女とは住む世界が違う、私のこのひねくれた考え方は理解されないだろうな…と、何とも言えない、育ちの違いに愕然とした気持ちになったのを憶えている。そうか、これがまともに育った人間なのかと😅。そういうのに近い感覚を、川端先生も滝行しながら後光が差してる清野君に見たのかもしれない。

加えて、この純粋な人物を自分のドス黒い肉欲で汚してはならない…と思ったりしたのかもしれない。

はたまた、そもそもそこまでタイプじゃなかった清野君。修行所を訪ねた時に見た清野君の弟が女の子にしか見えなくて、清野君も昔はこんな感じだったのかも?と思ったりしてる。つまり、まだ若かったころの清野君にはそういうちょっと女の子っぽい庇護欲を掻き立てられる部分があったっぽい。しかし中学も卒業し、体の弱い自分とは違って、難なく滝行をこなす清野君。先ほどのブログの方が調べてたところによると、予科練かな?兵役に行ってたり、水泳のコーチの資格を取って、生徒を大会で優勝させるくらいの、つまりバリバリ体育会系の人物になってる。英語のゲイ用語で言ったらTwink(細身のカワイイ、所謂ウケっぽい男の子)からTwunk(TwinkとHunkの合成語。顔はまだ少年っぽくてかわいいけど、体は筋肉ついてマッチョなタイプ)になってしまって、Twink好きの川端先生のタイプから益々遠ざかってしまい、精神的にも庇護欲くすぐられなくなった上に、身体的にも自分よりゴツくなって全く庇護欲が無くなってしまった…というのも想いが離れた原因ではありそうw。

あと、上記ブログの方が指摘するように、多忙になったとか、新たな友人が出来たとか、そういう諸々のことが重なって疎遠になっていったんでしょうね。でも手紙までパタッと書かなくなるというのは、やはり彼によって自分の孤児根性が刺激され、劣等感が疼くのが嫌だったからなんじゃないのかなぁ?…と思ってしまいます。大作家としての虚栄心が、さすがにそこまで素直に認めてしまうことには抵抗があったのか?どうせならそこまで自分の心理を深掘りして欲しかった気もする。


「少年」の残念だったところ


残念だったところなんて言ったら偉そうですけど、川端康成の過去の日記や手紙などを断片的に拾ってきて、少し注釈付けただけの作品なので、ハッキリ言って起承転結的な、読んでいてドラマチックな展開のある物語って訳でもないし、エンタメ作品として面白いと言えるのかは微妙なところ。

川端康成という人物に興味、当時の学生間での同性愛的関係に興味、相手の清野君に興味、などなど、作品内の特定の何かに興味がある人にとったら面白いかもしれないけど、そうじゃない人にとったら微妙な作品でないかとは思う。

私的にはそこそこ面白くは読ませてもらったのですが、それでもひとつ、どうしても納得いかなかった部分がある。それは…

清野君と親密になっていく過程をしっかり書かんかいっ!!

ってことですwww。

私の腐ったBL脳のせいで不満に思うのかもしれませんが、これだけ好きになった少年への愛を綴っているのに、二人が親密になり始めたきっかけとか、少しずつ距離を縮めていくドキドキする瞬間、相手が応えてくれてキュンとする瞬間とか、そういうものがバッサリとカットされているんです。いきなり、布団のなかで冷たい自分の腕を温めてくれる清野…みたいに、もうガッツリ親密になっているところからしか書かれていない。

BL漫画にしても、少女漫画にしても、主人公が好きな人と引っ付くまでの過程が描かれることが多い気がします。やはりそこが読者にとっても一緒にドキドキして一喜一憂したり、キャラに共感したりする部分。その一番読者を引き付けられそうな、恋バナで一番おいしい部分をゴソッと抜け落としているのが、あぁ~勿体ない。川端康成、天下のノーベル賞作家が何してるの!?って、脳内でツッコみしてしまったw。

いやそもそもBL作家じゃないですから、それを求めるのが間違ってるということは重々承知してます。そもそも「少年」をエンタメ的に書こうとはしてない感じだし。単なる回顧録的な感じ。いや、それでも、あ~私は清野君とのドキドキする親密になっていく過程を読みたかった。残念無念!!


川端康成のセクシュアリティは…

個人的に残念に思う部分はありつつも、長年噂には聞いていた川端康成の同性愛的経験について、深く知ることができたのでスッキリしました。

「少年」で判明したのは、川端康成は清野君だけに同性愛的感情を持ったのではなくて、その他の美少年たちに対してもそういう感情を持っていたということ。

好きになった人がたまたま男だった…というわけじゃなく、”男が好き”(というか美少年(美青年も?)が好き)という面が確実にあったということ。

では、川端康成はゲイだったのか?

これは私的には”ゲイ寄りのバイ”だったのではという気がする。

この清野君に嵯峨まで会いに行ったりしている大学生の時に、カフェの女中の伊藤初代に求婚して(知り合ったのが彼女が13歳、求婚が15、16歳頃)、菊池寛に介添え人になって貰おうとしたり着々と話を進めていたら、一方的に初代から婚約破棄されてしまう。川端先生のゲイ的側面を本能的に彼女が感じ取ったので偽装結婚の犠牲者になるまいと婚約破棄したのかどうかはわかりませんが(;^_^A、なんでもカフェの主人?かに既に手籠めにされていたとかで、自分は穢れた人間だからとても結婚できません…みたいなことだっとか、なんだか複雑な裏事情があったようです。

なので川端先生は一応女性と結ばれることも願っていることもわかる。当時の世間体の為なのか、本当に女性のことも愛せていたのか、その辺りの微妙なところはわかりませんが…。戦国、江戸期の衆道だって男性との関係とは別に妻子を持つのが当たり前だったことを考えると、ソレはソレ、コレはコレとして婚活していたのかもしれない。

そして実際にその後結婚している。しかし、その夫人である秀子さんとの間に子供がいなくて養子を迎えている。ここでまた私は、てっきり夫人との間には性交渉を持てなくて養子を迎えることになったのでは?と邪推してしまったのですが…。Wikiを読んでいると、最初の子供は出産後すぐに死亡。第二子も秀子さんが転倒して流産…度重なる不幸に見舞われた結果の養子だったわけで、邪推して申し訳ない気持ちに…。

”ゲイ寄りのバイ”といっても、川端先生は男性経験は結局なかったんじゃないかと思う。

私は三島由紀夫の「禁色」の主人公の老作家・檜俊輔は川端先生がモデルだと勝手に想像して読んでいたんですよね。三島の先輩作家で師匠のような友人のような関係。どこかのゲイ関連の記事で、三島も常連だったゲイバーであるブランズウィックだったかな?(他のゲイバーかもしれない)で、川端先生もよく来ていたような記述を見た覚えがあること。そして見た目で判断しては申し訳ないけど、私は老年の姿の川端先生の写真のイメージしか知らなかったので、あのギョロッとした目で細身の体、どこか神経質そうに見える雰囲気から、「禁色」での老獪な作家・檜俊輔のイメージにピッタリだと思ってしまったんです。

で、今回、川端先生の経歴を読んでいると、伊藤初代に婚約破棄されて、いわば女性に裏切られた過去がある。檜俊輔も、いままで自分を裏切ったり傷つけてきた女たちに、ゲイである絶世の美青年・南悠一を利用して復讐をしようとする物語。この辺りも符合しているように思えて仕方ない。(川端先生も、後年、伊藤初代が経済的に困窮したときかな?助けを求めてきたけど相手にしなかったという話もあったりする)

(檜俊輔のモデル…でググった見たら、知恵袋に、永井荷風のイメージを借りたと三島が言ったという回答があった。しかし橋本治などは川端康成がモデルだと主張していたとか。私は橋本先生に賛同かなぁ)

この檜俊輔も悠一にある意味ゾッコンになるんだけど、だからと言って彼と寝ようとしたりはしないんですよね。あくまで心の中で男色的欲望の目で見てるけど、自分がその男色的欲望を体現する存在になろうとはしない。この辺りも「少年」の中の川端先生の立ち位置とほぼ一緒な気がする。

”ゲイ寄りのバイ”といっても、あくまで精神性の話。普通にストレートとして社会生活を送っているけど、男性にセックスアピールを感じるし、その度合いが強ければ、男性の方により多く目が行ってしまう…という感じ。フィジカル的な扉は開かない。

最近では自分のセクシュアリティをオープンにして、その通りに生きることも出来るようになってきた。川端&三島両氏がもし現在に生きていたら、果たして自身のセクシュアリティをどう定義するのか、非常に聞いてみたいところ。でも、この自身のセクシュアリティをストレートに表現できない鬱屈が、彼ら自身を形成し、その作品に影響を与えているはずなので、それが無いとなると、この二人の大作家も生まれてきていない可能性はある。

勝手に川端&三島両氏を”ゲイ寄りのバイ”扱いしてますが(あくまで私個人の意見です。スイマセン(;^_^A)、こういう精神的にゲイだった人が結婚して家庭、子供を持って…というのは一昔前までは普通にあったこと。ここ10年ぐらいでしょうか?同性同士の結婚とか、パートナー制度が…とか言われるようになったのは。自身のセクシュアリティに従って生きることより、男女が結婚して子供を作って家庭生活を営むことが人としての至上命題(←”至上命令”が正解で”命題”は誤用なんだそうですね)でしたから。

それに完全なゲイではなくて、ちゃんと女性を愛せる部分もあるバイだと(私は、結構な数の人は、実際には性的にはノンバイナリーや流動的だと思っている)、それなりにそういう生活を送れてしまう。

完全にゲイとして潔癖で、相手の女性を騙したりするのは無理!!という人は、映画「94歳のゲイ」の長谷さんのように、孤独に生きる可能性が高かった。

長谷さんのように生きるのは、まあ普通の弱い人間には無理だと思う。世間体、プレッシャー、寂しさ、いろんな物に妥協して生きる道を選んでしまう。(長谷さんも強い決心、意志でこの生き方を選んだわけじゃなくて、結果的にこうなってしまったのだろうけど)

ゲイ寄りのバイ、というかゲイでも女性とSEXは一応できる人で、世間体の為に女性と結婚した人でも、私は責める気にはならない(責める権利もないんですけどね(;^_^A)。長谷さんのように生きるべきなんていうのは酷ですし。それと実際に責めることができるのは、愛情を感じることができなかった家族だけ。夫、父親のセクシュアリティがどうであれ、愛情を感じる瞬間があったのなら、それは動きようのない真実。いくらストレートの男でも、家族を顧みず、愛情を示さない生き方をして来たら、熟年離婚なり、家族に見捨てられるわけで、そこにセクシュアリティは関係ない。人間性が大事。

で、ここでもうひとつ気になったことが。
それは川端&三島両氏ともに”自殺”しているということ。

三島氏は有名。自衛隊の敷地で割腹自殺

一方の川端氏は…え~と、自殺したのは知ってるけど、どうやって死んだんだっけ?と、あまり知らなかったのでググってみたらガス自殺だった。

三島氏は右翼思想の行き着いた果て…って感じですけど、川端氏は何が原因だったのか?知らなかったので、こんな本を図書館で借りてきました。

植田康夫著「自殺作家文壇史」

二人の他に芥川、太宰など、明治以降の自殺した作家たちの当時の状況を、関係者の証言なんかと共にドキュメント的に書かれている本。

三島氏の右翼思想は自殺の大きな部分を占めているけど、川端先生にしても、本来の自分のセクシュアリティを素直に生きれなかった絶望みたいなものが、その死に何らかの影響を与えていたりしないのか?その辺りがこの本から読み取れないかなと。自殺の理由の1割、いや5%ぐらいはそういうことへの鬱屈、怒り、絶望みたいなものがあるような気がするんだけど…どうなんでしょうね。

また何か読み取れたら、感想文で書いてみたいと思います。

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