秋と言えば…”鬱”ということで、「自殺作家文壇史」を読んでみた(^_^;)。
はじめに
秋と言えば「鬱」ですね~。
と、随分軽く言ってますけど、苦労している人も多いのでは?
日照時間低減によるセロトニン不足で季節性鬱に陥りやすい季節です。
かく言う私もその傾向がありまして、夕闇が迫る時刻になると何とも言えない焦燥感に襲われて苦しくなったり、どんより曇った日なんかは気分もずっとドンヨリだったり…。
そこに加えて、私の祖父母、可愛がってくれた伯母、母と、身近だった人たちの殆どが10月、11月に集中して亡くなっているので、否応なく「死」について考えざるを得ない季節でもあったりします。そうなると自分の死についてもやっぱり考えちゃうんですよねぇ…。
とは言え、以前にもっと深刻な鬱状態になったことがあるので、その時に比べたらまだ大丈夫…っていう不思議な自信があったり。
でも、死を選ぶ時って、色々と追い詰められて、「楽になりたい」ということ一心で、糸が切れるようにフッと選んじゃいけない選択肢を選んでしまうパターンの場合もあれば、究極の断捨離というか、全てのものに未練を感じなくなった瞬間、全てのものを手放したいと思って選んじゃう場合もあるんだろうなと。
最近は後者のパターンに近づいている自分がいるような気がして、これは虚無なのか?いや、ある意味人生を悟ってそれなりに満足した結果なのか?と考えたり…。ネガティブな印象はなく、もっと静かで平穏な死。
とまあ、そんなことを考えることが多い時期に、こんな本を読むべきではないのかもしれませんが…(;^_^A
前回の記事からの流れで、
植田康夫著「自殺作家文壇史」を読んでみました。
川端康成から始まり、三島由紀夫、芥川龍之介、太宰治などの作家たちの、死んだ当日の様子(足取りやメディアの伝え方など)や、死ぬ数週間、数日前からの様子、そこに家族や交流のあった人物たちからの証言なども交えてドキュメントタッチで書かれています。なので割とスラスラと読みやすかったです。
「少年」を読んだことにより、川端康成の死に関して興味を持ったのがきっかけ。
川端康成と三島由紀夫、この二人の自殺にセクシャル・アイデンティティに関する苦悩が含まれていたりするのか?ということが読み取れないかと思って。
”海外の自殺した作家”でググってみると、割とトップに出てくるのがヴァージニア・ウルフやヘミングウェイ。
ウルフは結婚もしていたけど、同性愛的指向があったのは有名だし(ニコール・キッドマン主演の映画「The Hours めぐりあう時間たち」でも描かれてました)、ヘミングウェイにも同性愛的要素があるとかないとか…聞いたことがある(こちらのサイトでも少し触れられていた。「簡単な質問」という軍の上司が部下に質問するという作品。今見ているネトフリドラマ「Boots」でもゲイの教官が(違法なので)疑われて質問を受ける場面があったのでタイムリー。)。
なので作家の自殺の原因の裏に、セクシュアリティの苦悩があったりしないのか?うっすらそこに共通項があるように感じられなくもない…と思ったので。
あと、「最近の作家ってあんまり自殺してなくない?(←作家なら自殺ぐらいしろっ!って言ってんじゃないよ( ̄▽ ̄;))川端&三島の自殺ぐらいまでは多かった印象だけど、現代の作家たちと彼らとの死生観みたいなものが変化したのか?」ということも読み取れたりしないかな?と思って…。
私のひとつの推測としては、昔と違って同性愛者やクィアであってもそれなりに人生を謳歌できるようになった&昔は強烈に罪の意識に苛まれたが、それも薄くなった…なんてことがクィアな作家たちの自殺が減少した一因ではないかと。
(それでもまだまだLGBTQ、クィアな人たちの自殺率は高いとは思う。ただ、作家という職業に関しては、自己の苦悩を作品にして昇華できる職業でもあるわけで、ある程度社会が受容できるように変化したことによって、追い詰められるどころか、いいネタ持ってる、作家としての強み、ぐらいのパラダイムシフトがここ数十年で起こったような気がしてます)
で、他人の死について興味持ってる間は、自分の希死念慮みたいなものはどっかに行ってるもので(苦笑)、全然影響受けて自分も死にたくなったとかはなかったです(笑)。なので、皆さんも安心してお読みください(←いや、人によるだろっ!引っ張られて危ないと思う人はご自身で規制してくださいね)
川端康成の死
自殺したのは知っていたけど、どうやって亡くなったのか詳しく知らなかった川端康成の死。「自殺作家文壇史」では最初に登場し、当日の足取り等を詳しく調べて書かれていました。
彼が亡くなったのは1972年4月16日。
1月に佐藤首相とニクソンによる沖縄返還がその年の5月15日に決まり、2月に浅間山荘事件、3月に連合赤軍リンチ殺人事件、高松塚古墳の壁画が発見…などがあった頃だそう。
ちなみに彼がノーベル文学賞を獲ったのが1968年。
師弟関係ではないけど後輩&友人であった三島由紀夫が亡くなったのが1970年11月25日。
(出版社から相手をされていなかった駆け出し作家の三島を、川端が評価したことで状況が一変したので、三島にとっては恩人)
三島自身もノーベル文学賞の候補に1963年と1967年になっている。川端に「譲ってほしい」と頼まれ、推薦文を書いている。
切望した賞を受賞して人生の絶頂とも言えるところにいたのに、僅か四年ほどの間で、どうして自殺することになったのか?(僅か四年といっても、四年で劇的に人間なんて変わる時は変わるもんですけども…)
これが結局、この本読んでもわからないんですよね。🤔
川端康成のwikiページにも色々と原因と考えられることが列挙されています。
1:社会の近代化に伴い、日本から滅びてゆく「もののあはれ」の世界に殉じたという文学的見解。
2:交遊の深かった三島由紀夫の割腹自殺(三島事件)に大きな衝撃を受けたという見解。
3:老醜への恐怖。
4:川端が好きだった家事手伝い兼運転手の女性が辞めることになったから。
5:ノーベル文学賞受賞後に、小説の創作が思うようにならずに止まってしまったことなど、賞受賞による多忙や重荷による理由。
6:盲腸炎の手術をしたなど体調への不安&立て続けに続いた友人たちの死により魔が差した説。
などなど。
原因はガスによる中毒死。
午前中に「岡本かの子全集」(←「芸術は爆発だ!」の岡本太郎の母親で作家、歌人)の推薦文を自宅で書いていたが、家の者に何も告げず、午後に家を出て、逗子にある仕事場としても使っていたマンションに行く(途中からタクシーに乗ったので、運転士が当日の様子を語っている)。
午後五時ごろにマンションの住民がガス臭いと管理人に報告。しかしどこからか分からず。
午後八時にまだガス臭いというので川端氏の部屋の扉をマスターキーで開けるがチェーンが掛かっていた(←この時にガス漏れがその部屋からと気付かない不思議&5~8時の夕飯時によく他の部屋で火を使って引火しなかったなと)。
午後十時前に川端邸のお手伝いさんが探しに来て、鎖を切って中に入ると浴室で倒れているのを発見。
当時は「口にガス管を咥えて…」と各新聞も書いた。それは川端の担当医で現場に駆け付けた医師、そして逗子署の警察官が検視報告書にそう書いていたから。
しかし後日、娘婿の川端香男里が、現場にいたお手伝いさんの証言によると「ガス管を口に咥えて」は事実無根だと主張したそう。
←医師と警察が虚偽記載したってことなのか?わざわざそんなことするかなぁ?それよりも大作家の名誉の為に、そういうイメージを定着させたくなかった身内の願望でイメージ払拭しようとした気がしないでもない。
で、第5章の「作家にとっての自殺とは何か」という項目では別の可能性も示唆されていた。川端は睡眠薬を若い時から服用していて、それが原因ではないかということ。
彼は(強い薬で中毒症状になっており)過去に度々泥酔した時のような失敗を犯していたこと(寝ぼけて玄関の石に脚をぶつけて、朝、布団が血まみれだったり、旅館で部屋を移動した後に、寝ぼけて前の部屋に入り、そこで寝ていた夫婦の夫の布団に入ったら、妻が入ってきたと勘違いされ抱きしめられたとか😅)。これらを鑑みるに、もしかしたらマンションに来て睡眠薬を服用し、何かの間違いでガス栓を開けてしまった事故の可能性があるのでは?というもの。
お酒は飲めなかったという川端氏。しかし死体の近くにウイスキーの瓶とグラスがあったので、「ウイスキーをあおって自殺した」ということにもなっていたらしい。しかしグラスにはウイスキーを注いだ形跡はなかったそう。
で、ここで疑問に思ったのですが、グラスにウイスキーを注いでなくても、ボトルから直接飲んだ可能性はないのか?そもそも死因はガスによる中毒死として、検死報告書では睡眠薬やアルコールの摂取についての報告はないのか?その辺りについてはこの本には書かれてなかったし、Wikiページにも載ってなかった。当時(1972年頃)は、そこまで詳しく検死をしてなかったのか?明らかにガス中毒死なので、その他の可能性を排除してしまったのか?
で、もう一度読み直してみると、4月16日の夜に逗子のマンションで発見されて、その日の深夜零時過ぎに自宅に運ばれる。17日の夜6~8時に通夜、翌日18日午後1~2時に葬式となっている。ということは、現場での医師の検視だけで(直接の死因を調べる程度)、病院などに運んで解剖して綿密に死因を調べたりはしていないことがわかる。そんな時代だったんでしょうかねぇ~?🤔ノーベル賞受賞者なのに?でもそれだけ疑問の余地なしの自殺を確信したということなら、やはりガス管を手にもって咥えていたぐらいの状態で発見されたのでは?という気がします。先述の医師も警察官も「死に顔はおだやかで、円満といってもよいものでした。」や「うす目をあけ、安らかな表情である。」と書いていたし。
私は事故死というよりは、やはり自殺説の方に傾いているかなぁ。
仮に事故死で、正常な意識下ではそういう行動はとらなかったとしても、絶対的な希死念慮は彼の中に絶えず存在しており、この場合は薬だったけど、何かのきっかけでストッパーが外れれば、いつ行動を起こしてもおかしくない状態にあった…ということのような気がします。
そして自殺の理由として、Wikiに色々あげられていたけれど、ある意味どの理由も少しずつ関係しているのではないかな?とも思う。
パワハラでとか、借金苦でとか、大失恋でとか、直接に死にたくなる大きな理由が一つだけの場合も勿論ありますが、いろんな小さなことが積み重なってというか、なんだろう、私の場合は心の中に澱のようなものがどんどんと溜まっていくようなイメージかな?そんな感じで、「もういいかな…」という心境になったのではないかなという気がする。
盲腸の時に精密検査を受けたそうだけど、特に体も悪いところが無かったそう。しかし72歳、確実に老化によって身体的に苦しむ未来が待っている。自殺理由3の老醜への恐怖。これは寝たきりで下の世話も自分で出来なくなった祖父を介護した経験から来ているそう。その介護をしていた15歳の少年時代に強烈に尊厳ある死とは何か?について考えたはず。
当時、1972年の男性の平均寿命を見てみると、70.5歳。平均寿命を越えたことで、ある程度”生き切った”感も持ったのかもしれない。自分の人生を振り返った時、作家として成功し、ノーベル文学賞受賞という栄誉も極め、そういう意味では充実した人生を送れたという自負もあったであろう。
今ここで人生を終えることができたら…老いという苦しみから逃げ切ることができたら…この後、体が不自由になったり、認知機能の低下や自己の精神、思考の制御さえままならない自我の喪失状態になったら…今が最後のチャンスかもしれない…という風に思ったのかもしれない。
作家にとって自我の喪失状態に陥ることは非常に苦しいことだと思う。今まで自分が公に発表していたこととは矛盾する言動をしてしまうかもしれない。そうなると作家・川端康成を自身で否定&殺すことになってしまう。そうならないために、自身が綴ってきた人生という作品を責任を持って終わらせたかった…作家としての性ゆえの自殺だったのかも…。
あと、Wikiを見ていると、友人たちの死に際して葬儀委員長を何度もやっているんですよね。森光子のでんぐり返しで有名な「放浪記」の林芙美子、「風立ちぬ」の堀辰雄、馳浩夫人である高見恭子の父親高見順、伊藤整、そしてあの三島由紀夫。葬儀委員長やってなくても、数々の友人、知人を見送ってきて、もういい加減見送る側も飽きた…とは言わないけど、辛い。こういう辛い、悲しみ、自分だけが残されるような寂寥感。こういうのも心の中に徐々に溜まっていくんですよね。
話ズレるけど、黒柳徹子さんとか、「徹子の部屋」でほぼ毎年レギュラーのように出ていた同年代のゲストや、親しかった中村メイコさん、吉行和子さんも亡くなったし、追悼番組になることも随分増えた。同世代の芸能人がほぼほぼいなくなってきている中、相変わらず同じようなテンションで明るく司会業やってるの、凄いなと思う。溜まっていく寂寥感とか老いていく悲壮感とか全然感じない。90超えた今でも、毎年毎年新しい世界を見れることにワクワクしてそうな雰囲気さえある。仮に悲しくないんですか?と訊いたら、「あなた、そんなの悲しいですよ。でも人間いつかは死にますからね。クヨクヨしたって生き返るわけでもなし。ときどき思い出して懐かしんであげるしかできないし、それでいいと思いますよ」な~んていう割り切った答えが返ってきそう。いや、まあ、そうなんだけど…そう割り切れないのが人間なわけで、でもこのクヨクヨしない、ウジウジしないところが黒柳徹子の黒柳徹子たるところだなぁ~と思ったり(←勝手に想像して自己完結してる 苦笑)。
とまあ、川端康成の自殺の理由は一つではなく、複合的な、様々な要素が絡み合って、そういうのをずっと考えてきた中で、ふとした思いつきというか、「アッ、今晩すき焼き食べたいな」みたいな感じで、「アッ、死ぬなら今日がいいな」と思い立ったのではないかな。
西行が桜の花の下で死ぬことを理想にし、実際、その時期に亡くなったように(自分で薬を盛って計算して死んだ説もある)、4月16日、ソメイヨシノはほぼ終わり、八重桜が花盛りに咲いている頃でしょうか?川端康成も西行のように、桜の花びらが散るように、亡くなることを望んだ…そんな気がしました。(そっか、男色の噂もある西行も自殺してる可能性があるんだな)
ということで、川端康成が葬儀委員長をした三島由紀夫の死も見てみます。
三島由紀夫の死
三島由紀夫の死は、川端康成の死の二年前。1970年。11月25日。
(今月末の命日で没55年)
東京市ヶ谷にある陸上自衛隊東部方面総監部で楯の会(三島が結成した民間防衛組織)のメンバーの森田必勝と共に割腹自殺。
午前11時頃に楯の会のメンバー4人と共に益田総監と面会→人質にして自衛隊員への演説を要求。
総監を助けようとする自衛隊員側と乱闘などがありつつ、要求を飲ませることに成功し、正午にバルコニーで演説。
演説内容は、日本国憲法第9条を破棄し、日本が自主防衛を行うための「自衛隊の国軍化」を実現する憲法改正の為に共に立ち上がろうというもの。
しかし、野次が飛び交い、まともに聞いて貰うことも殆ど叶わず、7分ほどで総監室に戻ってくる。
そしてまず三島が割腹。森田が介錯役。しかし一度で成功せず、複数回試み、最後は別の楯の会メンバー古賀浩靖の一太刀で完了。
続いて森田も割腹。これまた古賀が介錯を務める。
(もっと詳しい時系列での流れはコチラのサイトにわかりやすく載っていました)
演説時の動画。
80年代のフライデーかな?で、彼の生首の写真が載ったりもしたみたい。恐る恐る画像検索で見てみましたが、不思議な表情でした。こんな苛烈なことをやってのけた後なので、さぞ鬼神のような形相でもしてるのかと思いきや、まさに魂の抜けたというか、実際割腹時に内臓が飛び出していたそうだから字面のまま腑抜けた表情。でもどことなく安堵というか、ようやくこの人生が終わった…という、今までガチガチに肩に力が入っていたことから解放されたような、そんな表情にも見えました。
「自殺作家文壇史」では、この割腹自殺に至るまでに三島が如何に用意周到に準備してきたか、そして自殺当日の時系列、そして事件後の世間の反応などが記されている。
個人的に興味深かったのは、三島由紀夫の長男・威一郎君が帰宅し、大声で泣きじゃくってるところを、大勢のカメラマン達が取り囲んで写真を取ろうとした時、一人のカメラマンが「やめよう、写真はやめよう」と大声で叫び、カメラマンたちはいっせいにカメラをおろした…というエピソード。
これ、現在なら絶対やめないカメラマンがいるはず。まだこの時代のメディアのカメラマンには、指摘されて…ということではあるけど、良心というか、人情というか、そういうものがあったことがよくわかる。
あと、三島の遺体はその日の夕方には牛込署に運ばれ(その夜に自宅では通夜も行われている←遺体がなくてもするんですね)、翌日に慶大医学教室で解剖。(首と胴体が縫い合わされ)午後三時過ぎに自宅に戻ってくる。密葬は10分間で、すぐ火葬場に運ばれ荼毘に付された。(葬儀は翌年の1月24日、東京築地本願寺で。川端康成が葬儀委員長。参列者は8千人以上)
←この二年後の川端康成の自殺では大学病院での解剖なんてしていないのに、衆人環視の場で行われた死因が明らかな三島の自殺は解剖して何を調べたのか?この差は何なんですかね?不思議です。
で、翌年の9月に墓荒らしにあって、遺骨が盗難される事件もあったらしい。しかし数か月後、39メートル離れた盛り土の中で発見される。犯人はわからずじまい。
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衆道の美を追い求めて?
「自殺作家文壇史」では、このように三島の自殺への流れと、その後の反響などをノンフィクション的に事実を並べて紹介している。これといって三島の思想についてとか、作家自身の性格とか、そういうことについての掘り下げ等はされていない。そう、つまり、なぜ彼が自殺したのか?ということは、川端康成同様、この本からは皆目わからずじまいなのです。←まあ、それを語ろうとしたら丸々一冊の本を書けるぐらいの分量になりそうですし、本作の趣旨と違ってきてしまいますから仕方ない。
で、三島についてはそこまで詳しく知らない私が、この自殺までの流れを読んで思ったことを、素人なりに書いてみます。直感的且つ率直な感想。
まず思ったのは、楯の会の若者(45歳の三島より20歳は若い25歳ぐらいの若者たち、つまり生物としての、”男”が匂い立つような生気に溢れている時期の若者たち)に囲まれて、彼らから尊敬され、慕われて、同性愛者(ゲイ寄りのバイ)であった三島にしたらまさにハーレム状態(肉体的なハーレムではないけど、精神的なハーレムね)。
なんだか彼らと行動を共にしている辺りの描写の行間から、ウキウキと、高揚している三島の感情がダダ洩れているような錯覚を覚えました。死に行く日の車の中で歌を唄おうとか言いだしたり、皆の緊張をほぐそうという意図なのだろうけど、それでも何か場違い感が拭えなかった。だって自衛隊に怒って、檄を飛ばして、絶望して、自殺するという流れなのに、鬱屈した苦悩する感情よりもどことなく清々しさの方が際立ってるんですよね。
そして、自分一人で割腹自殺するのではなく、森田必勝と共に死んだ。
このことを考えていた時、ふと、コレって…衆道の”念者と若衆”の関係なんじゃない?というのが浮かんだのでした。
衆道における念者(年長者 一般的にタチ役)と若衆(年少者 一般的にウケ役)。彼らは魂の契りを交わし、江戸時代には一緒に自殺をするものがあまりにも多かったから禁止されたらしいし、または念者の死を受けて、若衆も後追い自殺=殉死する例も多かったという。
確か衆道については江戸時代の「葉隠」という書で詳しく書かれていたはず…と思いだしてググった時、三島にとって「葉隠」はずっと手元に置き、何度も読み返していた愛読書であり、最終的には「葉隠入門」という「葉隠」の解説書まで書いている…というのも出てきて、ああ、そうだった!彼はそういう本も書いていたんだった、というのも思い出した。
「葉隠」の中の有名な文言に
「武士道と云ふは死ぬ事と見付けたり」
とあり、そこから派生するのかな?
「衆道の極意は死ぬことに候」
という文言も書かれているとか。
だから武士の心、尚武の人として死ぬことは表のテーマであり、その裏には、衆道の極意、衆道的美意識の極致を達成することもあったのではなかろうか?つまり、二つの顔を表裏一体で持つヤヌスの像のように。
右翼的思想の行き着いた果てにああいう行為に及んだとも思う部分もありつつ、三島はまず「死にたい」それも「衆道の中で尊いと言われる美しい死に方をしたい」というのがず~っとあったような気がしてならない。そしてそれを実現するために、こういう右翼思想などは全て後付けだったのでは?ということはないのだろうか?
幼少期からの性癖を綴った自伝的小説と言われる「仮面の告白」の中で、弓に撃たれる聖セバスチャンが殉教する絵を見て興奮するというくだりがあったと思う。それがフィクションではなく実際に彼に起こったことなら、右翼思想とかどうとか、そんなものよりずっと前の小さい頃から、鍛え上げられた肉体が痛めつけられて殉死する姿に魅了されていたことになるし、実際、篠山紀信に聖セバスチャンに扮した自分の写真まで撮って貰ったりもしている。
そして三島の命日が「憂国忌」と言われるように、国を憂いて死んだわけで(文豪の命日の○○忌というのは代表作から取られることが多いんですけどね)、そんな彼が書いた「憂国」という小説も読んでみました。読む前は右翼思想がガッツリの、重そうな、面倒臭そうな内容なのかなぁ…と思ったのですが、読んでみると、まあ重いと言えば重いのですが、ストーリーは明快で、右翼思想とか、国を憂うことは単なる設定にすぎず、内容は自決する新婚夫婦の最後の時間を、これでもかと美しく描写した小説でした。三島が自決、殉死をいかに美化、正当化したいのかが伝わってくるような感じ。この辺りからも三島の死への憧憬が感じられて仕方なかった。
(追記:三島自身が監督・主演で「憂国」の映画まで撮っているんですね。当時41歳の三島が、30歳の美しい青年将校役を演じた…ナルシシズムの極致だったのか、単にこの作品の精神性を完璧に表現できるのは自分しかいないと思ったのか…両方かな?😅 でもこの役って、ある意味自衛隊での自決の予行演習だったと考えることも出来るのか…。となると、40歳頃には既に自決する計画を立て始めていた可能性もあるわけか…)
私は三島は精神的にゲイだけど肉体的にはずっとゲイ童貞なのかなぁ~?と思っていた。しかし、1998年に出された「三島由紀夫ー剣と寒紅」という本で、三島家に書生として住んでいた作家の福島次郎氏が、三島と関係があったことを綴っているらしい(未読なので実際に詳しくどういう関係だったのかまでは不明。是非読んでみなくちゃ!)
三島の妻の瑤子さんは既に死去していたけど、遺族である息子、娘が出版差し止めの裁判を起こし、福島氏は敗訴したそう。(でも図書館の蔵書検索掛けたら出てきたので、初版で出回った分を回収とかまではしなかったということでしょうか?)
そうなってくると、三島と一緒に自決した森田必勝との間にも、実はそうい関係があったのか?という疑問も湧いてくる。
すると、こちらも事件からさらに年月が経った2023年に、こんな本が出版されていた。「手記 三島由紀夫様 私は森田必勝の恋人でした」
右翼活動ドップリで、恋愛なんかしてる暇なんてなかったのかと思い込んでいた森田必勝には、実は当時彼女がいた。その彼女が当時のことを振り返って書かれた本らしい。その中で、森田は三島と彼女との三角関係に悩んでいたと書かれているそうな。この「三角関係」が、単に精神的なものなのか、それともそういう行為も含めてのものなのか、どっちなんでしょうね?コチラは図書館の蔵書では見つけられなかったので、う~ん、購入してまで読むか…検討中です(;^_^A。例え肉体関係があったとしても、彼女にそのことを正直に話しているとは到底思えませんしねぇ…。
森田必勝は彼のWikiを読んでいると、凄く純粋で、人当たりも良く、豪快で、誰とでもすぐ仲良くなるような気のいい青年だったそう。
そしてこれは本当なの?と驚いたけど、三島が通ったゲイバー「ブランスウィック」に、「禁色」に出てくる美青年・南悠一のモデルになったと言われるボーイがいたそうなんだけど、そのボーイの面影と森田はよく似ていたのだとか。三島と一緒に市ヶ谷駐屯地に赴いた楯の会のメンバーの写真があるけど(先述したコチラのサイトで見れます。一番左端が森田)、そのなかで一番のイモ兄ちゃんが森田必勝なんですよね。なのでビックリでした(南悠一はもっとギリシャ彫刻のようなソース顔だと勝手に思い込んでいたので😅)。でも日本のゲイ界隈では、こういうガチムチ系?イモ兄ちゃんっぽい見た目の人が人気が高いというのもよく聞く。私はなかなかその嗜好は理解できないんだけど(;^_^A、その価値観がこの時代から脈々と続いているなら、森田必勝は超ゲイ受けする顔&体型で、三島の理想の男、死を共にするのにも理想の相手だったのかもしれない。
もし、その森田必勝の純粋な右翼思想を利用して、自分の理想の衆道の死のパートナーになるように巧妙に導いた…とかってことはないのだろうか?偉大な作家をそんな自殺教唆犯みたいに論ずることはタブー視されていたりするのだろうか?
「自殺作家文壇史」には三島が楯の会のメンバーに書いた命令書みたいなものが載っていて、その中では森田が一緒に死ぬのは当然の流れのように書かれている。でも当然ですかね?🤔 別に三島一人で死んでも、十分自衛隊にも、世間にも、センセーショナルな衝撃を与えることは叶うはずで、森田が一緒に死んだからといって、その衝撃が倍増するとか、よりインパクトが強くなるかというと疑問が残る。世間的には無名の若者ですから。最初は他の生き残った三人も一緒に死ぬものだと覚悟していた様子もうかがえる。しかし三島は、楯の会の精神を世間に伝える使命を彼らに背負わせて生きる道を選ばせた。でも一番信頼している腹心のような人物=森田にこそ、その使命を背負って貰ってもよかったはず。5人いる中で、二人が死ぬという線引き。三人が死ぬのでも、4人が死ぬのでもなく、二人。ちょうど念者と若衆という二人の死と同じ数。なんだかココに凄く意味がある気がするんだけど…どうなんだろう?🙄
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ノーベル賞が二人を殺した!?
と、こんなことを考えていた時に、タイムリーな番組がやっていた。
三島の市ヶ谷駐屯地での演説の様子の映像から始まったこの番組。
森田必勝との関係などを深掘りはしていなかったけど、ナレーションで気になる部分があった。川端がノーベル賞を受賞した後、川端と三島の関係が(それまでは頻繁に手紙などのやり取りがあったのに)疎遠になっていったということ。
川端が三島にノーベル賞への推薦状を書いてくれるように依頼したというのは知っていた。ただ、上の番組でも挿入されていた&Youtubeにも上がっているノーベル賞受賞直後の川端と三島と伊藤整との鼎談の動画も見ていたので、それによって関係が悪くなったとは思っていなかった。お祝いにすぐ駆けつけてるわけだから。
しかし、コチラの知恵袋の回答によると(一応参考資料名も載ってるのでそこそこ信憑性はあると思う)、
川端が、プライバシー侵害の裁判で窮地に立っていた三島を助ける代わりにノーベル賞推薦文を依頼したとか、三島が過激な思想の持ち主で、それが選考委員に忌避された結果、川端が選ばれたことをドナルド・キーンが本人に告げたことなどが載っていた。
三島自身もノーベル賞受賞に向けてそれなりに裏で手を回していたという話もどこかで読んだ。あれだけメディアにも出まくって、半裸の姿を晒したり、ある意味自己顕示欲が強い作家なら、ノーベル賞はやはり欲しい賞だとは思う。それを、一応尊敬していた先輩に、ちょっといやらしい手で奪われたら?やはりちょっと幻滅と失望して距離を置きたくなる気持ちもわかる。川端の方も、やはり自覚的であるほど後ろめたくなって自分から連絡し難くなるというのもわかる。
そこに自分の過激な思想が落選の理由だと聞かされたら、プライドが高い人ほど逆に意固地になって、その道を邁進してしまうというのもよくわかる。三島の自殺の一因、自殺願望を急速に現実に向かわせたのはノーベル賞だった可能性は高いのかもしれない。
そう思っていた時に、図書館で「川端康成・三島由紀夫 往復書簡」という本があったので読んでみたところ、
この中に、確かに三島のプライバシー裁判に関して川端が助力すると約束する手紙や、三島にノーベル賞への推薦文を依頼する手紙が載っていた。
しかし、それは川端がノーベル賞を受賞するより随分前、受賞が1968年で、推薦文を依頼したのは1961年だったかな?(昭和36年、いや34年だったかも?(;'∀')) とにかく結構前なんですよね。そしてその推薦文依頼のあとも割と普通に手紙のやり取りは続いていた。しかしそれが激減するのは、実際に川端がノーベル賞を受賞した後。川端は推薦された後ぐらいの手紙の中で(1961年頃ね)、推薦してもらったけどノーベル委員会はモタモタしている。結局次の世代(三島やさらに下の大江健三郎の世代)にならないと受賞はないのかもしれないね…みたいに三島に書いていた。これを受けて三島も内心で、なんだかんだ言っても自分の方が受賞するんじゃないかと楽観視していたのかもしれない。しかし、数年後にその想いは覆され、川端が受賞してしまう。そうなると、そんなに続けて短い間隔で日本人が受賞することは考えにくいわけで、自分の受賞はなくなったと思って落ち込んだとしても仕方ない。いや落ち込んではいなくても、文学者としての区切りがついたのかもしれない。当時書いていた「豊饒の海」を完成させたらもう終わり…文学者として後ろ髪引かれるような想いはこの時にスパッと断ち切られた…ということなのかもしれない。
この本の巻末に、川端の娘婿である川端香男里と、三島由紀夫文学館初代館長である佐伯彰一の対談文が載っており、その中で二人ともが川端のノーベル賞受賞が三島を右翼活動に邁進させた一因なのは間違いない…的なことを言っていた。当時ある程度近くで見ていた人たちがそう感じたなら、やっぱりそうなんでしょうね。
そして三島が亡くなる前年、1969年の8月に、久々に結構長めの手紙が川端宛に来ている。その中で、もう1970年に死ぬことを心に決めているような描写があった。さらに三島が死ぬ数か月前、自衛隊の訓練地(富士山の方だったかな?)から、上の往復書簡集に載っていない最後の手紙が川端宛に来ていたそう。しかしあまりにも荒唐無稽?拙い?ちょっと表現が忘れたけど、取っておくこともどうかと思う代物で、川端はすぐ焼いてしまったのだとか。そして、訓練地からだったので、川端も返信を訓練地に出すわけにもいかず書かずにいたところ、11月25日のあの事件が起こったのだそう。一体何が書かれていたのでしょうか?最後の別れの言葉のようなものが書かれていたりしたのか…非常に気になります。
一方の川端。事件を聞いて現場に駆け付け、三島の自殺した現場を見たらしい(石原慎太郎も現場に来たけど見なかった)。それで相当なショックを受けたとも言われている。その後、三島の亡霊を見たと言ったとかどうとかという話もある。
ではノーベル賞を自分が受賞したことで、三島をそこまで追い込んでしまった自分の罪悪感に耐え切れずに彼も自殺したということなのだろうか?
それとも、三島の全ての作品が、この自殺という帰結へと向かう序章で、彼は自分の人生を死というもので完璧なまでの作品として完成させた。このセンセーショナルな結末。自分がノーベル賞を取ったインパクトなんか吹き飛ぶような、日本の文壇史、いや日本史自体にも残りうる衝撃。いまさら自分が何をしようとも敵わない、作家の業を極めた三島への完敗、敗北感が彼を死に至らしめたのか?
または、同じ同性愛的指向があるものとして、衆道を知るものとして、最も至高な形での、最も美しいとされる死の形である殉死で、好きな男と死んでいった三島を見て、自分はそういう愛する相手を見つけられなかったし、愛に殉じて死ぬこともないことを悟り、嫉妬したり、これまた敗北感、絶望を味わったりしたのだろうか?
そう考えると、川端先生も、思ったほど安らかに死を選んだというよりは、強烈な三島の死にあてられて、それによって生じた絶望感に支配された結果の自殺だった可能性もあるのかもしれない。
ノーベル賞が二人の作家の命を奪ったというのは、最初はちょっとオーバーな気がしたけども、トリガーになった可能性は十分高いのだろうな…と、経緯を調べれば調べるほど感じる。ダイナマイトを発明したノーベル。それが戦争で使われ「死の商人」と呼ばれたことから、人類へ多大な功績を果たした人物へ賞を贈ることにしたのがノーベル賞。その賞のせいで、ノーベル賞受賞者と候補者が死を選ぶことになるという、何とも言えない”呪い”があるようにも感じて怖いですね。実際に他の受賞者の方々はどれほど幸せになっているのか?この二人のように受賞がキッカケで人生が狂いだし、不幸な結末になった人というのはいるのか?気になります。←誰か調べて本とか書いてくれてないかな~?
聖セバスチャン
ちょっと話がズレるけど、三島が愛した聖セバスチャンについて。
聖セバスチャンは同性愛者の守護神として扱われていたりする。
元々は3世紀に南仏~ミラノ辺りで生きた人で、当時キリスト教はまだ禁止されていた時代に、奇跡を起こしたりして信者を増やしたことでローマ帝国から処刑される。それが度々絵画に描かれてきた矢が体中に刺さって苦しむ姿。多くの矢に貫かれても死ななかったが、その後、撲殺されて死亡したのだとか(その場面の絵もある←でも撲殺される場面は絵的に美しくないですもんねぇ…そちらが流行しなかったのはわかる)。
そんな彼が一大ブームになる時代がくる。それはルネッサンスの時期(それまでは同性愛やホモエロテイックな象徴というわけではなかった)。当時はペストが流行っていて、なんでもペストの症状の末期に体中に黒い斑点のようなものが出るのだそう(紫黒色の斑点が生じたから黒死病とも言われますもんね)。それが聖セバスチャンの体中に刺さった矢の跡を彷彿とさせたことから、矢に刺されても死なずにいた聖人=ペストから守ってくれる守護聖人として、当時大流行し、ルネッサンス時代の画家たちに多く描かれるようになっていく。
←ペストの守護聖人だというのは初めて知ったので興味深い。後に同性愛者の守護聖人となり、エイズの蔓延時にもカポジ肉腫のような黒い斑点状のものが出来ていたわけで、この恐ろしい二つの不治の病において守護聖人になるという偶然、いや偶然なんだろうか?必然のようにも感じてしまう。
で、半裸の若い男の姿で描かれることが多く、それをいやらしい目で見る女性も多くいたのだとか(おそらく当時のゲイ達も。ていうか、描いてた画家たち自身、結構ゲイ率が高かったのではと思う)。それで、聖人をそういう目で見るとはけしからんと、展示をやめたり、服を着た絵を描くようになったりとか、色々と対策を講じられたりもする。それでも多くの画家が半裸の若い青年が悶え苦しむ様を描き続けていった。
そういうのが繰り返されていくうちに、矢に貫かれても死なずに苦悶と恍惚の表情を浮かべる=男性同性愛者(ウケの方)を連想させていくようになる。
加えて、キリスト教徒だと隠して布教活動を行った彼を、アイデンティティを隠していた存在=Closeted gay カミングアウトできないゲイ達、そしてローマ帝国=社会から抑圧される存在というところにも共通点を見いだしていった。
ここで興味深い意見が、聖セバスチャンが矢でハリネズミ状態にされた時、じつはあんな若い青年ではなく、白いひげが生えているくらいの年齢だったという話もあるそう。そして、そういう老けた聖セバスチャンで描いている絵画もあるんだとか。日本のWikiでは死亡年齢は記されてなかったけど、英語版のWikiによると、凡そ32歳くらいで殉教したのだろうということになっていた。確かに、今の32歳ならあんな20歳前後の青年の姿の人もいるかもしれないけど、当時の32歳なんてもう結構なオッサンだったはず。
私、最初、三島が45歳の時に死ぬのにこだわっていたのは、聖セバスチャンが死んだ年齢が45歳なのかと思ったんですね。しかしそこはどうやら違う様子。では三島はなぜ1970年、45歳の歳に死のうと思ったのだろう?あの死に向かって、三島はもの凄く計画的で、色々と準備している。1970年の前年に出してる川端康成への手紙にも、自分が死んだ後の妻子が辱めを受けたり苦しんだりすることが心配。だから川端先生に彼らを支えてほしい旨をお願いしていたりするほど。なので少なくとも一年前、実際はもうちょっと、2、3年前ぐらいから1970年、45歳のときに決行しようと決めていたのではないか?もしそうなら、その数字はどこから来たのか?聖セバスチャンじゃないと…誰なんだろう?(←真似した人物がいると仮定した場合ですけどね)
自殺した先輩作家とかだろうか?
芥川龍之介は35歳の時、太宰治は38歳の時…これも違う。
三島と同じく聖セバスチャンを愛したと言われるオスカー・ワイルドは46歳のときに亡くなっている。年齢は惜しいけど自殺ではない。とはいえ同性愛裁判で有罪になって投獄され、出所したけどボロボロで早死にした姿は、罵詈雑言の言葉の矢で貫かれて同性愛の為に殉死したとも考えられなくもないか…。
他にいないかと、三島のWikiに載っていた影響を受けた作家の年齢を調べていたら、エドガー・アラン・ポーが45歳で亡くなっていた(一応自殺ではない。ちょっと謎の死に方っぽい)。
ググってみるとAIはこんな回答をしてくれた。
三島は、ポーの作品に触発され、自身の作品のテーマとして「肉体と精神の葛藤」や「芸術と人生の関係性」などを探求しました。
なるほど。でも三島がエドガー・アラン・ポーと同じ年齢で死にたいと思うほど心酔、敬愛していたのだろうか?よくわからない。ことあるごとにポーに言及していたという話は聞いたことがないけど…私が知らないだけかも。
まあ私が勝手にマネしたかった人物がいるのでは?と疑ってるだけなので、また何か見つかるまでは保留にしておきます(;^_^A。
意外な人物
今回、「自殺作家文壇史」の川端&三島の章で、ある共通する人物が出ていて、私は俄かに興味を持った。
それは、藤島泰輔。三島の葬式の時も、川端の葬式の時も駆けつけた人物として登場する。
そう、あのメリー喜多川の夫で、ジュリー藤島の父親だった人物。
彼が作家や政治家(になろうとしたけど落選した模様)だったのは、数年前のジャニーズ崩壊時の色々な記事等で読んで知っていた。
しかし、川端&三島と共通の友人だったとなると、これまた私の中で、彼もまた、ゲイ寄りのバイだったりしたのだろうか?という疑問が湧いてきた。さらに、もしかしたらメリーと仲良くなったのも、ジャニー経由で自分も若い男の子たちを味わうことができたからとかないのだろうか?中〇根元首相に男色の噂があり、あの事務所が政界と強いパイプを持てたのはこの藤島氏のおかげという話もあった(勿論真偽は不明。都市伝説です)。藤島氏自身も政界に出ようとしていたから、中〇根氏と知り合うことも分かるけど、同じ趣味を持つ者同士なら、そちらの方のネットワークでつながったという可能性はないのだろうか?
それで藤島氏のWikiを見てみると、彼のデビュー作である「孤獨の人」は、彼が学習院の生徒だった時、ちょうど現上皇が皇太子時代の学友であったそうで、その当時のことを書いた小説なのだそう。(三島由紀夫も学習院出身で、藤島の8歳上。この本の序文を書いてあげている)
「孤獨の人」のWikiを読んでいると、結構内容を書いてくれていて、その中に興味深い描写があった。
「吉彦は、かつて岩瀬と下級生を争った同性愛の経験を思い出し怒るが
…(略)」
この主人公の吉彦が藤島をモデルにした人物なのだと考えると、彼もまた川端康成が「少年」で書いたような、学生時代に下級生の男の子に同性愛的感情を持っていた、いやそれ以上の同性愛的経験があったことになる。
更に作品への評価の欄では、
「渡部直己は『不敬文学論序説』で、(略) 「幼帝」への保護意識に根差し、「淡彩ながら明らかにホモ・エロティックな描写視線」があると指摘した。」
なんてことも書かれている。皇太子をホモ・エロティックな視線で見ていたってこと!?Σ( ̄□ ̄|||) 多分ちょっと違うと思うけど(;^_^A、皇太子を中心に、親しいご学友のポジション争い、マウントの取り合いとか、男子学生たちの間で皇太子をトロフィーとした愛憎関係が繰り広げられていた…って感じなんでしょうかね?読んでみないとその辺はよくわからん。
藤島泰輔は資産家&登山家の藤島敏夫の息子。父の敏夫は「日本百名山」で有名な深田久弥と一緒に山に登るような人物で、深田が茅ヶ岳で脳卒中で亡くなった時も一緒に登っていたんだとか。
泰輔は高浜虚子の孫と結婚する(1963)も、わずか二年ほどでメリーと知り合い、内縁関係になって、ジュリーが出来(1966)、離婚成立の後にメリーと結婚する(1972)。←ジュリーが生まれても6年粘った本妻にも意地があったのでしょうか?
高浜虚子の孫娘…いいところのお嬢さんっぽいけど、それより、アメリカ帰りで、当時スナックをやっていた5歳年上のメリーを選んだ藤島。若い時のメリーの写真も見たけど、別に絶世の美女って感じでもないし、魔性の女って感じでもない。ジャニー喜多川を女にしたような顔。ああ見えて物凄く話が面白いやり手のママみたいな感じだったのかなぁ?実際その後、強引な手法であの事務所の帝国を築いた超やり手ババアだったのは間違いないわけだし…、実際略奪婚を見事に完遂してるわけだし。
ここからは私の全くの妄想だけど、メリーのスナックにやってきていた藤島氏の性癖を、同性愛者の弟と同じような匂いだったので即座にかぎ分け、既に初代ジャニーズとか、フォーリーブスとか、若い男の子を売り出していた事務所の伝手で、「なんならウチの若い男の子紹介してやんよ」みたいに餌を撒き、それに喰いついた藤島氏を逃れられないように取り込んだ。そして彼が資産家だというのを知って結婚を迫り、ゲイであろうと子供を作らなアカン!じゃないとその資産が手に入らない!ということで子供を作ることも強引に迫った…。
みたいな話だったりして!?😲 いや、さすがに妄想が過ぎるか…でもそれぐらいのこと、あの汚い芸能界の中心であれだけやってきた人物なら、あってもおかしくない気もするのよねぇ~www。ヒッピーとかフリーセックスとかの考えが台頭してきていたアメリカ帰りだし、弟がゲイだろうが、旦那もゲイだろうが、オープン・マインドでやっていこう!っていうノリの人物だったのかもしれないし(;^_^A。
個人的にはあのジャニーズ問題の中で、一番その真実というか、心理というか、専門家にプロファイリングして貰って詳しく知りたいと興味が掻き立てられたのはメリー喜多川なんですよね。実際、ジュリーが怖くて支配されていたみたいに言っていたけど、どんな人物だったんだろう?🙄
他の作家の死
「自殺作家文壇史」には川端、三島以外に、芥川龍之介、北村透谷、川上眉山、有島武郎、生田春月、牧野信一、太宰治、田中英光、原民喜、火野葦平という作家たちの自殺の経緯が書かれています。
芥川龍之介は死ぬ死ぬ詐欺じゃないけど、ずっと死にたいと言っていたらしいし、自殺未遂で失敗した人を呼んで体験談を聞いたり、当時は睡眠薬を飲まないと眠れないほど神経衰弱状態になっていっていて、妻さえもいつ死ぬかもしれないと不安に襲われたりしていたほど。帝国ホテルで薬を飲んで自殺しようとする未遂も二度ほどしているし、そんな状態の中で義兄が自殺して後始末に奔走させられたり、友人が発狂したり、もう精神的にどんどん追い込まれていく様子が次々に語られて行き、最終的に青酸カリ(と思われるもの)を飲んで自殺する。
北村透谷も貧困と精神衰弱、今で言ったら鬱状態なんでしょうね、それで妻と二歳の娘を残して、25歳で庭の木の枝で縊死。
川上眉山は剃刀で左頸動脈を切って自殺。尾崎紅葉、田山花袋、二葉亭四迷などの名前が出てくるのでその時代の作家。死に至った理由は、困窮や神経症など色々な理由も考えられつつ、最終的には自分のスタイルが文壇では過去のものとなり、その屈辱感に耐えきれず憤死したというもの。
有島武郎は魔性の人妻と愛の逃避行の末、ホテルの別荘に入り込んでそこで縊死し、腐乱死体で発見される。
生田春月は瀬戸内海で商船から入水自殺。彼も三島に似て、16歳から自殺することを考え、結婚してからの女性問題とか、色々あっての末。
牧野信一は、酒乱、アル中、神経衰弱の果てに、納戸で兵児帯を使って縊死。
太宰は有名。彼も芥川同様死ぬ死ぬ詐欺系で何度も未遂を繰り返す。だけどタチが悪いのは一人で死なずに女性を道連れにしようというのが何度もあったところ。幾人かの女性と心中未遂なんかを犯して、自分は生き残り相手だけが死んだりもする。本妻美知子がいつつ、一応人妻だった(夫の戦死報告まだ来てない状態)山崎富栄と関係を持っている時に、別の女性太田静子との間に娘が生まれたりもしている。最後はその山崎富栄と玉川上水で入水自殺。
詳しくはコチラに。芥川に憧れていたというのもあるんですね。
田中英光は太宰に褒められたことで彼を師事していた作家。それで太宰の死をきっかけに、いわゆる後追い自殺をしたパターン。(太宰も勝手に師事していた芥川の後追い自殺みたいなところもあるから、連々と死の連鎖が続いて行ったということなのかも?)なんと太宰の墓前で自殺を図った。
原民喜は線路に横たわっての轢死。助けようとした娼婦に逃げられた時にも自殺未遂をしている。その後、結婚した女性は彼にとって母のような女性で、陰キャで人付き合いも良くない原を後押しし、彼の作家活動を応援していた。しかし彼女が亡くなり、自身も広島で被爆し、東京に出て来てからも孤独を深めていって…ということらしい。
最後の火野葦平は、最初世間には心筋梗塞で亡くなったと伝えられた。しかし死の12年後に、あれは自殺だったと公表された。
火野については、先述のNHKの「映像の世紀」の中でも取り上げられていて、戦時中は「兵隊三部作」などを書いて「兵隊作家」としてもてはやされたが、戦後には一気に戦犯として批判される側になった。てっきりそのせいで自殺したのかと思ったら、その後もある程度のスター作家で、月収が120万円ほどもあったり(←いまでも十分高給取り!!戦後だとどれくらいの価値があったのか?)、NHKの番組でホスト役を務めたりもしていたそう。なので世間に石投げられて惨めに、死しか選べなかった…という感じでもなさそう。
一応遺書には「死にます。芥川龍之介とはちがうかもしれないが ある漠然とした 不安のために。」と書かれていた。しかし高血圧症を診断され、数々の体調不良の症状が出始め、その頃からヘルス・メモというものを書き始める。なので、健康に対する不安から悲観しての自殺といった感じなのかもしれません。遺書に芥川の名前を出しているように、彼も芥川のファンで、月は違うが、芥川と同じ24日を選んで亡くなったのだろうとも。
芥川の死というのは本当に多くの人物に、直接だったり間接的だったりと、影響を与えたんですね。今現在でも彼の作品を読んで、その人生を調べて読んだ人が影響されたりしているのかもしれない…。なんだか映画「リング」の貞子じゃないけど、死の呪いが伝播していくみたいで怖いなぁ。
色々な作家の死に様を読んで、自分も死に引き込まれて死にたくなった…なんてことはなく😅、なんだろう、いくら死にたくても時が満ちなければ結局死ねないし、人が死に飛び込んでいっているような気もする一方、結局自然死と一緒で、死が迎えに来てその人をバッと黒いマントで包み込んで連れ去っていってしまうような、そんな感覚もある。
ふと思ったのだけど、日本で自殺=悪になったのはいつ頃からなんだろう?やはり明治期以降のキリスト教的倫理観が浸透していった頃なんでしょうね。仏教は自殺を禁止してるイメージないし、逆に高僧が即身仏になるために土に埋められたり、補陀落渡海で海に流されたり、あれもある種の自殺みたいなもんだし(その信仰がない人にとったらね)。江戸時代まで、武士において自決、切腹するのは賞賛される死に方だったろうし、庶民でも単身自殺はわからないけど、「曽根崎心中」などの心中物が大流行したことを思うと、来世で結ばれる二人…という考えで、そこまで悪という考えはなかったように思う。江戸時代の日本の自殺率ってどれくらいだったのか?データが残ってたり…しないよねぇ😅。明治期に入るとガクンと減少したのか?どうなんだろう。
なんというか、「生」「命」は神様から与えられた尊いものだけど、「死」も神様から与えられた救済であり、これまた尊くありがたいものとして、日本人は長年等価値的に受け入れてきたような気がする。なんだろう、これらの作家たちが死んだ様子を見て、どこかで苦痛から解き放たれて良かったね…という安堵感というか、祝福とまではいわないけど、自殺とは言え、彼らなりに生き切ったことへのねぎらいと賞賛の言葉を掛けてあげたいような…そんな気持ちも湧いてくる。「自殺作家文壇史」はそんな不思議な気持ちにさせてくれた本でした。
死を考えることは生きることを考えること。
死を見近に感じることで、生がイキイキと輝きだす。
これからは命の教育だけでなく、死の教育というものもなされていく必要があるのかもしれませんね。それによってタブー視される尊厳死の問題なんかの議論も、もっと活発になるのではないでしょうか。
コッポラ&ルーカスが製作総指揮で作られたが、日本未公開だった三島由紀夫の生涯を描いた映画「MISHIMA」。今年の東京国際映画祭で日本初上陸で上映されたそう。
三島役に緒形拳。他にも豪華なキャスト。その内配信なんかでも見られるかなぁ~と思っていたら…アレッ?興味ある方は探してみてください😅。
