📚 封印された日常 ―― 「私なんかが」で始まった女性起業家物語【第0話・全文無料】┃起業を成功させる24の気づき
第0話
┃ 封印された日常 ┃
「私なんかが」で始まった女性起業家物語
起業を成功させる24の気づき
10月になった。
朝の空気が変わったのはわかる。
通勤の電車の窓が、少しだけ冷たい。
でも会社に着いてしまえば、昨日と同じ一日が始まる。
週末だけが、少しだけ違う。

「萩野さん、これお願いしてもいい?」
振り向くと、営業部の後輩が見積書の封筒を持っていた。
宛名を書いてほしいらしい。
柚葉は黙ってペンを取り、丁寧な楷書で住所と社名を書いた。
「やっぱり萩野さんの字、きれいですよね」
「ありがとう」と答えて、封筒を返す。
後輩は小走りで戻っていった。
9時12分。
メールを確認する。
備品の発注依頼が2件。
来客用のお茶の在庫確認。
健康診断のスケジュール調整。
先週と同じ仕事が、先週と同じ順番で並んでいる。
昼休み。
給湯室で同僚の村山さんが誰かの結婚式の話をしていた。
「引き出物がバウムクーヘンでさ、最近はそういうのじゃないのも多いらしいよ」。
柚葉はマグカップを洗いながら「へえ」と相槌を打った。
村山さんはすぐに別の話題に移った。
新しくできたコンビニのスイーツがおいしいらしい。
午後。
コピー機の紙を補充して、社内報の写真を差し替えて、経理部から届いた伝票を仕分けた。
窓の外は曇っていた。
たぶん火曜日だった。
木曜日だったかもしれない。
*

18時15分。
駅前のスーパー。
鶏の唐揚げとポテトサラダ。
迷ってからほうれん草の胡麻和えも加えた。
3品。
「袋いりますか」
「大丈夫です」
マンションの部屋に入る。
靴を揃える。
手を洗う。
テーブルにパックを並べる。
フィルムを剥がす。
冷蔵庫からお茶を出す。
座る。
椅子はひとつ。
棚の隅に、レシピノートがある。
ページの端が少し黄ばんでいる。
「2人分」と書かれた分量の横に、小さな字で「÷2」と書き足してあった。
食べ終えて、洗い物をして、テーブルを拭く。

ソファに座ってスマホを開く。
Instagramのタイムラインが流れる。
友達の猫。
誰かのラーメン。
広告。
広告。
白い壁のアトリエで花束を持って笑う女性の投稿、「月商30万を達成しました」。
親指が止まりかけて、止まらなかった。
スクロールする。
おしゃれなパッケージのアロマキャンドル。
誰かの子どもの運動会。
長文のキャプションがついた起業2年目の振り返り投稿。
フォロワー8,000人。
すごいな、と思う。
それだけだった。
画面の向こう側は、いつも向こう側だ。
スマホを伏せて、テーブルの上のリモコンを手に取った。
テレビをつけた。
天気予報をやっていた。
明日は晴れ。
21時半。
明日も8時45分。
*

土曜日の午後は違う。
オーブンの予熱スイッチを入れる。
「ピッ」という音のあと、低い唸り。
この音を聞くと、背中の力が抜ける。
バターを小鍋に入れて、弱火にかける。
溶ける。
泡が立つ。
白い泡が消えて、琥珀色になる。
焦がしバター。
鍋を傾けると、ナッツに似た、少し甘い匂い。
この匂いを嗅ぐたびに、母の台所を思い出す。
12月の台所。
柚葉が学校から帰ると、いつもこの匂いがしていた。
粉をふるう。
卵を溶く。
砂糖を量る。
レシピは見ない。
手が覚えている。
今日はフィナンシェ。
秋になるとマロンのフィナンシェが焼きたくなる。
理由はわからない。
体が勝手にそうなる。
型にバターを薄く塗る。
ここだけは丁寧に、丁寧に。
生地を流し込む。
8分目まで。
均一に。
オーブンに入れる。
14分。
待っている間にカウンターを拭いて、使った道具を元の場所に戻す。
ボウルだけ最後に残した。
底に残った生地を指ですくって舐めた。
甘い。
ちょっとだけざらっとする。
砂糖が溶けきっていなかったかもしれない。
まあいい。
どうせ誰にも出さない。
ボウルを洗って、伏せた。
オーブンの小窓から覗く。
生地がゆっくり膨らんでいく。
きつね色に変わっていく。
会社では味わえない種類の時間だった。
何かが確実に変わっていくのを、ただ見つめている時間。
メールも来ない。
電話も鳴らない。
コピー機の音もしない。
バターの匂いと、オーブンの熱と、自分の呼吸だけ。
タイマーが鳴る。
12個のフィナンシェ。
型から外す。
トンと軽く叩くと、すとんと落ちる。
ひとつ、ふたつ、みっつ。
9個目が少しだけ引っかかった。
端がわずかに欠けた。
柚葉はそれを自分の皿に置いた。
残りの11個は、きれいに焼けている。
ラッピングはしない。
写真も撮らない。
明日の朝ごはんにひとつ食べて、残りは冷凍する。
欠けたフィナンシェを手に取る。
まだ温かい。
一口かじる。
焦がしバターが口の中に広がる。
マロンのペーストがほんのり甘くて、端のところだけ少しカリッとしている。
おいしい。
おいしいのに、この味を知っているのは自分だけだ。
*

夜、テーブルに座ってノートを開く。
子どもの頃から使っているのと同じブランドのノート。
表紙は何代目かわからない。
万年筆のインクが裏写りしたページがあって、何年か前の字が透けている。
12月が近づくと、思い出す。
母は地方の小さな町で美容室をやっている。
30年になる。
12月になると常連さんに焼き菓子を配っていた。
サブレ、フロランタン、ラングドシャ。
柚葉は学校から帰ると母の横に座って、クッキーの型抜きを手伝った。
星の型が好きだった。
ハートは上手く抜けなくて、いつも少しいびつになった。
「ねえお母さん、私もお菓子屋さんになれるかな」
「なれるよ。でも柚葉はまず、自分で食べていける人になりなさい」
否定ではなかった。
たぶん、順番の話だった。
でも幼い私はそれを「諦めなさい」と受け取った。
それから20年以上。
中堅メーカーの正社員。
9年目。
給与は安定している。
ボーナスも出る。
父が歩いたのと同じ道を、柚葉も歩いている。
本棚に目をやる。
レシピ本が5冊。
総務の実務書が3冊。
会社の人にすすめられた小説が1冊、しおりが挟まったまま。
それだけだった。
ペンを置いて、ノートを閉じる。
台所を見る。
フィナンシェの型が乾燥棚に伏せてある。
12個分。
欠けた1個は、もう食べてしまった。
来週、真帆の結婚式がある。
<第0話の気づき>
おいしいのに、誰にも出さない。
完璧じゃないから、見せられない。
でも「見せない」を選んでいるのは、世界ではなく自分だった。
この物語は、柚葉の起業の旅路を描く全24話の連載です。
これは焼き菓子を作る柚葉の物語ですが、
ネイリスト、デザイナー、ハンドメイド作家、カフェオーナー、ヨガインストラクターなど——「自分の好きなことや技術で誰かを幸せにしたい」と願うすべての人に共通する物語です。
萩野 柚葉(はぎの ゆずは)、32歳。会社員9年目。
週末だけ焼き菓子を焼く。誰にも見せない。
「私なんかが」と思いながらも始めた、
焼き菓子ブランドの12ヶ月。
\ 24話で体験する「気づき」の地図 /
A. 自分を知る ― なぜ始めるか、何を目指すか ― 第1話 第18話
B. 顧客を知る ― 誰に届けるか、何を求めているか ― 第2話 第6話 第15話 第20話
C. 競争環境を知る ― 市場のどこに立つか ― 第3話 第7話 第8話
D. 商品・価格を設計する ― 何をいくらで売るか ― 第4話 第5話 第12話 第19話
E. 届ける・売る ― どう届け、どう伝え、どう広げるか ― 第10話 第16話 第22話
F. 数字で見る ― お金と指標で事業を把握する ― 第9話 第11話 第13話
G. 仕組みを作る ― 一人から二人へ ― 第14話 第21話 第23話
H. 全体を俯瞰する ― 事業の全体像を一枚で見る ― 第17話 第24話
次回予告(次回は有料記事)
柚葉のフィナンシェに、初めて「あの言葉」がかけられる。
たった一言が、封印された日常を変え始める。
「やりたいこと」「できること」は書けた。
でも「やるべきこと」が、空っぽだった。
その空白を埋める最初の手がかりが、第1話にあります。
▶ 次回は、第1話「どこで買えますか?」に続く。
毎話ひとつずつ、柚葉と一緒に体験してみませんか。
明日から原則毎日更新します。
▶ 第1話も無料にいたしました。↓
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