逆風のなかの果実 ~第十二章~
第十二章: 無謬 - 新たな敵
無謬(むびゅう)性の原則
「無謬(むびゅう)性の原則」という言葉がある。「ある政策を成功させる責任を負った当事者の組織は、その政策が失敗したときのことを考えたり議論したりしてはいけない」という信念だ。
日本の政府や大企業の官僚組織ではほとんど無意識のうちに前提とされている。一度発言したことは、たとえ過ちが潜んでいても、実行に移す。もちろん教育委員会にも、この原則は存在する。
2回目の説明会
4月12日、前回の説明会から1週間が経過し、津田が約束していた2回目の説明会に現れたのは、津田がよく「上席に確認します」と言っていたその上席、川端だった。その後ろには津田と指導主事の渡辺が続いていた。津田は相変わらず自信なさげにうつむいていたが、渡辺はこう言った。
「皆さんの貴重な意見を持ち帰るため、議事録を取ることをご了承ください。」
そう言ってタブレットを出した渡辺を見て、磐田は嫌な予感を抱いた。
説明会が始まり、川端は形式的な挨拶をした後、後藤が手を挙げて質問しようとした。
「今回の農産物販売禁止は私たち畜産科での原乳事故…」
そう言いかけた瞬間、川端が後藤の発言を遮り、話し出した。
「皆さんにはまずお詫びをしなければなりません。特に、誤解を与えてしまったことについてお詫び申し上げます。」
会場にいた職員は川端の発言の真意を測りかねていたが、説明を聞くうちに、津田とは比べ物にならないほど官僚的であることを思い知らされた。
「津田が教育委員会の方針と異なる発言をしてしまったため、皆さんは農産物販売禁止の理由を『原乳事故による安全性の問題』や『少子化による生徒数の減少』、さらには『教育課程の変更に伴う評価基準の再構築』などと誤解しているかもしれません。しかし、それは間違いです。実は、2年前から農業高校における生産物の扱いについて教育委員会内で協議を行っておりました。その結果、生産物の販売禁止および無償提供が決定されたのです。今日はその説明をいたします。」
さらに続けて、
「津田の発言が今からお話しする内容と齟齬があったことについては、非常にデリケートな話であったため、私から津田に発言を控えるように指示していました。しかし、興奮した皆さんに詰め寄られたため、津田が取り繕うように先ほどの理由を話したわけです。本当に申し訳ありませんでした。」
そう言うと、川端と津田は立ち上がり、深々と頭を下げた。

川端の狙い
着席した川端は、一瞬ニヤッとした後、ゆっくりと話し始めた。
「皆さんは、『県有財産の交換、無償貸し付け等に関する条例 第6条』をご存じでしょうか。この条例には『物品は、これを譲与し、又は時価よりも低い価格で譲渡することができる。』とあります。つまりは、皆さんの学校で栽培した農作物はタダで配るか、安く売るかのどちらかです、という内容です。実は、この条例の『又は』の解釈について、私たちは時間をかけて審議してきました。」
「『又は』という部分を、今までは現場の皆さんの判断に委ねてきました。ですから、皆さんは時には生徒さんに持ち帰らせたり、試食させたり、時には販売会を開催してきたと思います。しかし、現在、教員の働き方改革が叫ばれる中、皆さんの業務負担を減らすために、『又は』の判断を現場の皆さんに負わせるのではなく、私たち教育委員会が行うことにしたのです。すべては、皆様の負担軽減、業務改善のためです。」
と悪びれもせず言ってきた。
そして続けて、
「とは言っても、皆さんがおっしゃるように、私たちは現場を知りません。なので、判断がブレると多くの方に迷惑をかけることになるので、販売はせず、無償提供のみにすることに決めたのです。」
参加者全員が唖然とする中、山岡が慌てて質問した。
「条例の変更となると、議会の承認が必要になりますよね。議員の皆さんは、なんておっしゃっているんですか。それと、議会で可決されるまでの間は、販売していいってことですよね。」
川端は、
「条例の変更ではなく、解釈の変更ですので、議会にかける必要はありません。私の方からあとで、議員の方には説明するだけです。そして、本日、私の方から皆さんに説明させていただいたので、明日より販売は禁止、無償提供でお願いします。」
田中の叫び
すると、口下手で、いつもは黙って話を聞いているだけの田中が、小さな声で、しかし意を決したように発言した。
「もう一度、お聞きしたいのですが、条例の変更はいつから検討していたんですか。今回の件の原因は、本当に原乳の出荷事故ではないんですね。」
川端が答える。
「えぇ、原因は原乳事故ではありません。条例の解釈の変更は、正確に覚えていなくてごめんなさい。たしか、2年前の10月あたりだったと思います。津田、あってるかな。」
津田が、
「はい、間違いありません。」
すると、田中はこらえていたものが一気に崩れたかのように、涙を流しながら叫んだ。
「だったら、3月23日以降の2週間は何だったんですか?私は今回の件は自分のせいだと思って、みんなと顔を合わせられなくて、一人でずっと悩んで。津田さん、その間、私と何回も会ってますよね。話だってした。なんで、そのとき、私に原因は違うから、気にすることないよ、って言ってくれなかったんですか?」
津田はバツが悪そうにうつむいた。後藤も声をあげた。
「私も田中君の様子を見ていて、本当に気の毒に思ってました。」
会場にいた他の職員も、田中に同調し、川端に文句を言い出し、会場がざわつき始めた。そのとき、そっと渡辺が持っていたタブレットの角度を変えた。
磐田の暴走
すると、突然磐田が大きな声で怒鳴るように話し始めた。
「津田、おまえ最低だぞ。田中がどれだけ苦しんでいたか分かっているはずなのに、知らん顔かよ。おいっ、津田、何か言えよ。川端さん、あんたもムチャクチャだぞ。こんな詭弁が通ると思ってるのか。」
そう話すと、磐田は川端の方に詰め寄った。

磐田のあまりの行動に、同僚たちは眉をしかめた。前川が、磐田を止めに入り、
「磐田さん、冷静になってください。ここで感情的になっては、今までの頑張りが無駄になってしまいます。」
しかし、ヒートアップした磐田は振り返り、同僚たちに向かって、
「だいたい、おまえたちがだらしないから、こんな事態を招いたんだろ。もっと普段から注意してれば、こんなことにはならなかったんだ。」
磐田の理不尽な言葉に、説明会に集まった楠木たち職員は、
「こんな農場長のもとでは、やってられないね。もう、販売禁止は決まったんだ。ここに居ても気分が悪くなるだけだ。みんな、帰ろうぜ。」
と言って、次々に会議室を後にしていった。
この様子を見ていた川端は、勝ち誇ったような表情で、
「お取り込みのところ申し訳ありませんが、説明会は以上で終了とさせていただきます。皆さん、明日からの対応、よろしくお願いします。」
と言って、津田、渡辺を引き連れて学校を後にした。

みんなが去った会議室には、磐田と山岡、前川、後藤、松山、高橋のチーム緑野のメンバーだけが残った。重苦しい雰囲気の中、前川が意を決して口を開いた。
「磐田さん、今日の態度はマズいですって。他のみんなだって頑張ってるんですよ。」
すると、磐田は先ほどの様子とは一転して静かに話し始めた。
「みんな、出て行ったかな。本当にごめん。ビックリさせちゃったね。」
「ビックリって。」と後藤があきれたように言った。
「実は、田中が立ち上がったとき、渡辺がタブレットのカメラをこちらに向けたのに気付いたんだ。教員になりたてのころ、今日みたいに教育委員会に抗議した先輩がいて、その後、その発言を問題視されて異動させられたことがあったんだ。今回、会議の冒頭で渡辺が議事録を取ると言ったろ。多分、タブレットで発言した人を録画してたんだ。あのまま、みんなが思い思い発言したら、後でその発言を問題視され、不当な扱いを受けるかもしれないと思って、あえて暴走したふりをして、みんなを会議室から出すように仕向けたんだ。」
「そうだったんですか。でも、あのときの表情は演技とは思えなかったですよ。」と前川が言うと、
「意外と本音だったりしてね。」と後藤が冷やかした。
「でも、大変なことになったね。」と山岡が言った。
「もう一度、作戦を練り直さなくちゃ、ですね。」と松山が続けた。
「結果的に、今回の件で他の職員に協力をお願いするのは難しくなっちゃったね。結局、みんなにまた負担をかけることになるけど、ごめん。」と磐田が言った。
「何言ってるんですか。すべては生徒のためでしょ。生徒のためだったら、何でもやるのが私たち。遠慮しないで言ってくださいね。でも、今回みたいなのはナシですよ。本当にビックリしたんだから。」と前川が返した。
果たして、農産物販売禁止の方針撤回を勝ち取れるのか。そして、いよいよ新学期の授業が始まり、生徒たちが農場で実習を行う日がやってくる。もう、残された時間は少ない。
